第14話:大丈夫ではなかった時に考えますわ
翌日。
マルタとアルドと別行動をとったエレナとアンは、スラム街が所属する都市の役所前に来ていた。
治水事業に関する過去の記録は、ここに保管されている。露店が立ち並ぶ広場を抜けると、目に飛び込んでくる馬鹿でかい建物は存在感がある。壁一面には、これでもかというほど豪奢なレリーフが施されている。その建物の姿は、すぐ隣に広がるスラム街とは、あまりにも対照的だった。
「……お嬢様。本当に役所なんかに入って大丈夫なんですか?」
アンは心配そうに、王宮爆破の指名手配犯となっているエレナの顔を、覗き込んだ。エレナは、無表情のまま淡々と答えた。
「大丈夫ではなかった時に考えますわ。ここに入らなければ、何も解決しませんもの」
「……お嬢様。変装もせず、本当に大丈夫なんですか」
街を行くエレナは、変装もせず侯爵令嬢としての日常着のままだ。華美な装飾を削ぎ落とした、機能的かつ上質な仕立ての一着。派手な夜会服とは違い、活気ある街の雰囲気に不思議と馴染みつつも、育ちの良さを醸し出している。
「アン、この役所を見なさい。変装した方が目立ちますよ。変装するより、どこぞのご令嬢の格好をして向かった方がマシですわ」
そう言いながら、エレナは堂々と役所の中に入り受付の前に立った。アンは不安にかられながら、急いでエレナの後を追う。そして、エレナは受付の役人の男性に、堂々と声をかけた。
「治水事業に関する過去の工事記録を閲覧したいのですが」
「お名前とご身分を――」
「……お嬢様」
「エレナ・ヴァン・アドルシュタインですわ」
役人は一瞬止まるが「……少々、お待ちください」と、奥に消えていく。
「お嬢様!?」
あまりにも堂々とエレナが名前を名乗り、アンは一瞬にして背筋が凍った。
(……終わった。ここから、どうやって逃げよう。もちろん、逃亡の手段を何も考えていない訳ではないけれど……)と、アンがぐるぐると思考を巡らせているうちに、役人は戻ってくる。アンは冷や汗をかきながら、役人の動向を見守った。エレナは、動じることなく、堂々としている。
「治水事業に関する資料ですね。閲覧室へご案内いたします」
「……?」
予想していた言葉とは、正反対の返答にアンは声を失った。
「ありがとうございます。案内をお願いします」
エレナは、淡々と返事をした。何ごともなく繰り広げられる目の前の会話にアンの頭の中は、疑問でいっぱいだった。
「アドルシュタイン侯爵家より、治水事業に関する調査への協力要請が届いておりますので」
受付の役人は、そう説明し、エレナたちは中に案内された。
アンは、歩きながら、何かを察したように、こそっとエレナに耳打ちした。
「ヴィクトリア様ですね」
「ええ」
「お嬢様が、ここへ来ると分かっていたのでしょうか」
「いえ、私がどこへ行くかではなく、私が必要とするものを予測したのでしょう」
エレナは、珍しく穏やかな表情を見せていた。
資料室に到着し「では、ごゆっくり」と、役人は、その場を退室した。
アンとエレナは、ゼーマン伯爵が介入した過去三年分の資料を見直した。
ヴィクトリアから受けとり手元にあるのは、アドルシュタイン領へ送られた簡易的な報告書で、詳細な支払い記録までは記載されていない。一方、役所に保管されている工事記録には、ここ三年分の記録が詳細に書かれていた。
エレナはパラパラと常人には理解できない速さで、資料を確認していく。エレナの指が、ある一行で停止した。
「お嬢様?」
エレナはアンの疑問に返答することなく、二年前、三年前と同じ項目を見ていた。
「……アン、覚えていますか?」
アンはエレナが指さした名前を見て、目を見開いた。
「はい。昨日、アルドが……三年前に亡くなったと」
エレナは、記録の隣に並ぶ数字へ指を滑らせた。
「ですが、この方は昨年も働いていますわ。少なくとも、この帳簿の上では」
「……え?」
「どうやら、死人が給料をもらっているという――仮説は正しかったようですね」
アンにはエレナが言っている意味が、まだ理解できなかった。
エレナは気にすることなく、役所の資料を眺めながら、手元の書類に何かを書き込んでいた。
(帳簿上は五十人。ですが、確認した現場の人数とは明らかに一致しない。さらに、名簿には死亡者まで含まれている。それでも給与は五十人分、毎年計上されている――)
「架空の人件費が計上されている可能性は、限りなく高くなりましたわ」
「じゃあ、やっぱり誰かが金を?」
「ええ。ただし、誰が受け取ったかは、まだ分かりませんわね」
そう言い終わると、エレナは突然ペンを取った。
そして、三年分の資料の片隅に、日付と時刻を添えて小さく署名していく。その様子にアンは、驚いた。
「お、お嬢様!いいんですか。そんなことをして……」
「問題ありませんわ。普通の署名ではありませんもの」
エレナは首元のネックレスに通した魔石を摘み、書き終えた署名へ触れさせた。淡い光が一瞬だけ走り、署名は紙面から跡形もなく消えた。
「消えましたね」
「見えなくなっただけですわ。固有筆跡そのものは、紙面に残っています」
「……これで何が分かるんですか?」
「少なくとも、本日のこの時刻に、私がこの原本を確認したことは証明できますわ」
「お嬢様、でも……読み取るための、記録器捨てませんでしたか?」
「あれは、元々、偏屈な魔石師に王都へ行くために作ってもらったものですの。また、依頼すれば似たような物は手に入るはずですわ。まあ、少し、特殊な交渉条件が必要ですが……イザベラお姉さまに頼んでおきます」
そう言うとエレナは、立ち上がり役所の受付へ向かった。
慌てて、アンはエレナについていく。エレナは、受付の役人に声をかけた。
「最後に、この三年分の工事記録と支払い記録の複写をお願いします」
「承知しました。申請者のお名前は?」
「ヴィクトリア・ヴァン・アドルシュタイン。アドルシュタイン侯爵家当主の名義で、お願いしますわ」
役人が複写記録を取りに行っている間に、アンはこっそりと耳打ちした。
「……お嬢様、勝手にお名前を使ってよろしいんですか?」
「調査協力要請を出したのはヴィクトリアお姉さまです。つまり、この資料が必要になることも、想定済みでしょう」
「そういう問題でしょうか……」
アンは心の中で何度目か分からない溜め息をつきながら、主人が資料を手にするのを静かに見守った。
つづく




