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第12話:ならば、なぜ抗議をしないのですか?




 雲行きが怪しい午後、アルドはスラムを横切る排水路まで、エレナたちを案内した。


 深さ一メートルほどの排水路では、雨期に備え、崩れかけた護岸(ごがん)の石積み補修が行われていた。カンカンと力ない槌(ハンマー)の音が響く。職人たちは黙々と、どこか投げやりに泥にまみれた古い石を、ただ噛み合わせているだけだ。アルドがふと足を止め、眉をひそめる。


「見ろ、意味のない工事をやってる」

「意味がないとは?」

「雨が降ると、この辺は川になる。道なんか全部、水」

「川ですか」


 隣を歩くエレナが、その呟きに視線を向けた。


 エレナはしばらくその様子を観察していたが、やがて、無言で深さ一メートルほどの排水路へと降りた。


「お嬢様!」

「おい」

「なんだあ、このお嬢ちゃんは」


 現場の職人が、怪訝そうな顔で手を止める。エレナは、その男の足元へ屈みこみ、積まれたばかりの石に触れ、その隙間の土を白い指先でぐっと押し込んだ。じわりと湿った泥が指の形に沈む。


「お嬢様、危険です」


 慌てて、マルタがエレナの隣に降り立った。

 アルドは、エレナの奇行に驚いて呆然としている。


「この斜面の勾配、石の自重(じじゅう)。そして、この地域の平均的な降雨量を計算に組み込めば明らかです。雨期に入れば、この土留めは石を支えきれず崩壊しますわね」


 職人は、このフードを被った怪しい人間は一体……と驚いた顔をした。しかし、只者ではなさそうな圧力に負け、すぐに顔を背けて吐き捨てるように言った。


「俺たちは、指示通りにやっている」

「嘘だ」


 排水路の傍で話を聞いていたアルドが、低く鋭い声で切り捨てる。だが、職人は怯むどころか、自嘲ぎみな笑いを浮かべて槌(ハンマー)を放り出した。


「届いた材料は予定の半分、人も足りない。この泥じゃ、いくらやっても固まりゃしねえ。文句があるなら、俺たちじゃなく他へ言ってくれ」


 職人の言葉には、悪意よりも諦めが滲んでいた。

 そこへ、通りかかった荷車を引く老人が上から声をかけてきた。


「無駄だよ、お嬢ちゃん。去年も一昨年も冠水したんだ。で、今年も同じ奴らが同じように直してる」


 工事に反感をもっている老人に、エレナは下から尋ねた。


「ならば、なぜ抗議をしないのですか? 崩れると分かっているものに税を投じるなど、およそ合理的ではありません。根本対策を行えば十年以上持ちます。住民を集めて、正式に抗議を行えば良いのですわ」


 エレナの至極真っ当な問いに、老人は力なく首を振る。


「したさ。だけど『嫌ならお前たちが金を出すか?』と言われておしまい。ここは、そういう場所なんだよ」


 誰もが知っている。職人も、住民も、これが次の大雨で崩れ落ちることを。知っていながら、誰も止められない。止めようとすれば、自分が弾き出されるだけだ。


 老人が去ると、エレナはマルタに担ぎ上げられ、先に上へ戻ったアンに手を引かれて、排水路沿いの道へと戻された。マルタもエレナを送り届けると、自力で排水路をよじ登った。


 アルドがエレナの肩にぽんと手を置き、歩き出すよう促す。

 すれ違いざま現場の端で遊んでいた子供たちに、アルドが声をかけた。


「おい。雨が降ったら、絶対に、ここには近づくなよ」

 子供たちは慣れた様子で無邪気に頷く。


「うん! 知ってる。毎年溢れるもん!」

 その言葉を見送るエレナの瞳に静かな灯がともる。


「アルド」

「なんだ」


「よく私たちが案内してほしい場所がわかりましたね」

「ああ、何となくだけど」


「あなたは、生活と経験から、スラム街の崩壊を知っていたわけですね。私には取得できない情報を、あなたは保有しています。それは、想定より価値がありますわ」


 エレナは振り返り、今にも崩れそうな排水路の方向を、もう一度見つめた。そして、アンに声をかけた。


「アルドに銅貨を五枚お支払いして」

「はい、承知致しました」


 アルドは、手に握らされた銅貨を見て驚いた。銅貨が五枚あれば、日用品や食事など、数週間は賄える。スラム街の住民にとっては、大金だった。


「こ、こんなに?」

「アルドが今日提供したのは、単なる案内ではありません。現地調査に必要な時間を数日分短縮しました。その対価ですわ」


 エレナは、じっとアルドを見て言葉を続けた。


「そして、その代わり……しばらく付き合っていただきますわよ」

「変なやつだな」


 アルドは、銅貨五枚を握りしめて笑った。



つづく



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