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スカイピース〜空のレーサー〜  作者: 御影のたぬき


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第16話 スタート

 スカイラッシュのスタート前、選手エリアには12人のレーサーがいた。


 全員、企業スポンサー付きだ。軍用グレードのスラスター、専用の飛行スーツ、複数の整備士。装備を見るだけで、次元が違うことがわかる。


 ジールはその中に、スラムの作業着で立っていた。


 視線が来た。一瞥するものもいれば、じっと見てくるものもいる。スラスターを見る目が多かった。ピカトの手製スラスターは、上の機材とは外観がまったく違う。既製品の洗練されたデザインではなく、廃材と特殊合金を組み合わせた、機能だけを追求した造形だ。


 誰も何も言わなかった。ただ見た。


「無視していい」とピカトが小声で言った。「見られることと、実力は別だ」


「わかってる」


 シンカが向こうからこちらを見た。軽く頷いた。ジールも頷いた。


 シンカの周囲にも複数の整備士がいる。スポンサーのロゴが入ったユニフォームを着た、専門のチームだ。それがシンカの普通の姿だ。ジールの整備士はピカト1人だ。でも、その1人が他の全員より信用できると、ジールは知っている。


「スラスターの最終確認をする」とピカトが言った。「座って」


 ジールが座ると、ピカトがスラスターを外して手早く確認した。接続部、噴射口、制御モジュール、オーバードライブのユニット。全部を30秒で確認した。


「問題ない」


「オーバードライブは」


「問題ない。昨夜の設定通りだ。足首の確認をして」


 軽く内倒し、強く内倒し。起動、停止。


「できてる」とピカトが言った。「本番は立体カーブの直前で起動して、出口で停止する。それだけを考えて」


「わかった」


「他のことは考えなくていい。立体カーブ以外は今まで通りの走りで上位に入れる。立体カーブだけが問題だ」


「立体カーブだけ、か」


「そう。それ以外は考えなくていい。シンプルに走って」


 シンプルに。

 ピカトの言い方は、いつも余分なものがない。


 スタート10分前にアナウンスが入った。

 観客席から歓声が来た。何万人もの歓声が、スカイピースの上空に広がる。


 外縁区画の縁の向こう、はるか下にアンダートークがある。今この瞬間、どれだけの人間が下から空を見上げているのか、ジールには見えない。でも、いる。マーカスがいる。ルカがいる。


 ジールは上を見なかった。

 前を見た。


「ジール」とピカトが声をかけた。


「なに」


「走って来い」


 それだけだった。余分なことは言わない。励ましの言葉も、感動的な言葉も、ピカトは持っていない。持っているのかもしれないが、使わない。

 走って来い、の4文字で十分だった。


 スタート位置に並んだ。


 12人のレーサーが横一列に浮かんでいる。スカイラッシュのスタートは、地面からではなく空中から始まる。スラスターで一定高度にホバリングして、カウントダウンと同時に走り出す。


 ジールの位置は外部枠特例として最後尾だ。12番目。最も不利な位置だ。前の全員が走り出してから、ジールが走り出す。


「外部枠は後ろか」と隣の選手が言った。声に敵意はない。ただ確認している感じだ。


「そうだ」


「アンダートークから来たのか」


「そうだ」


「初めてか」


「初めてだ」


 男が少しだけ表情を変えた。


「面白い」とだけ言って、前を向いた。


 シンカは5番目の位置にいる。スタートが有利な真ん中寄りだ。前を向いている。こちらを見ない。それでいい。


 カウントダウンが始まった。


 10。9。8。


 体の状態を確認した。心拍は上がっているが、コントロールできている。スラスターは起動済み。ホバリングの出力は安定している。


 7。6。5。


 コースを頭の中でなぞった。第1区間のビルの谷間のスラローム。第2区間の上昇カーブ。第3区間の第2スラローム。第4区間の高速直線。第5区間のエネルギーリング。第6区間の下降カーブ。第7区間の立体カーブ。


 立体カーブだけオーバードライブ。


 4。3。


 前を見た。

 コースの先端が見える。ビルの谷間が、遠く続いている。


 2。1。


 ゼロと同時に、全員が動いた。


 轟音。11人のスラスターが同時に噴いた音が、空気を震わせた。


 ジールは0.2秒待って走り出した。

 最後尾から走り出した。前に11人いる。その全員の後ろから走り出した。


 最初の区間はビルの谷間のスラローム。ビルの壁が両側に迫る。コースの幅は30メートルだが、12人が密集している。気流が干渉する。


 スラムパルクールで覚えた感覚が来た。


 密集を外から抜ける。


 スラムレースと同じだ。密集に入ると気流の影響を受ける。外を回る方が速い。コースの外縁ぎりぎりを走った。ビルの壁に近い側を走った。


 4人を抜いた。


 速い、と自分でも思った。スラスターの出力は最大じゃない。体の使い方で、スラスターに頼らずに位置を上げた。


「第1区間、8位」とピカトの声がした。


「わかった」


 第2区間の上昇カーブに入った。ここは上昇しながら旋回する。スラスターの上向きの出力と前向きの出力を同時に制御する必要がある。


 上に向かいながら曲がる。体を斜めにする。スラスターの角度を連続で変える。


 シンカに教わったことが来た。体重移動を先に使って、スラスターは後から補助する。体が動いてからスラスターが追う。その順番を間違えると、タイムが落ちる。


 間違えなかった。


 上昇カーブを抜けた。


「第2区間、6位」とピカトが言った。


 2人抜いた。


 第3区間の第2スラロームで、前に集団があった。

 5人が固まっている。互いのスラスターの気流が影響し合って、どこかで乱れが出る。待てば誰かがミスをする。


 ジールは待たなかった。


 5人の間を、縦に入った。


 前の選手と後ろの選手の間に入る動きは、通常やらない。接触のリスクがある。上のコースでは特に。

 でも、ジールには経験があった。アンダートークの非公式マーケット近くを高速で走り抜ける時、人の間を縫う動きは日常だ。人間と人間の間隔を、体が計算する。


 縦に入って、縦に抜けた。5人を全員抜いた。


「……」ピカトが少し間を置いた。「1位だ」


 ジールは聞こえていたが、答えなかった。


 第4区間の高速直線が見えてきた。


 高速直線に入った。

 ここは出力の勝負だ。スラスターの性能が最も出る区間。ジールのスラスターは上位機種に匹敵するとアリンが言っていた。でも、3年連続優勝のシンカの機材には劣る。


 出力全開で走った。


 速度が上がる。500、550、600。視界が狭まる感覚があった。先を見た。出口を見た。


 後ろから気配が来た。


 シンカだ。


 音ではなく、気流の変化で感じた。シンカが後ろにいる。上がってきた。


「後ろ、シンカさんが2番手に上がってきた」とピカトが言った。


「感じてる」


 シンカの機材は速い。高速直線は不利な区間だ。でも、今は前にいる。出力を上げた。


 速度が630に上がった。体がGを感じた。心臓が追いつかなくなるかどうかの境目を、体が知っている。その線を越えずに、ぎりぎりで維持した。


「直線出口、まだ1位」とピカトが言った。「シンカさんとの差は3秒」


 3秒。小さい差じゃない。でも、まだある。


 第5区間のエネルギーリングが見えてきた。


 エネルギーリングは3つある。

 1つ目、2つ目、3つ目。連続して通過する。


 練習走行でやった通り、速度を落とさずに通過した。1つ目は体の傾きで。2つ目は上昇しながら。3つ目は横移動と前進の同時制御で。


 3つ全部通過した。


「エネルギーリング通過、全3つ。ペナルティなし」とピカトが言った。「後ろはシンカさんが2番手、差は2.8秒。少し縮まった」


 縮まっている。直線で縮まった分が、まだ続いている。


 第6区間の下降カーブに入った。


 下降しながら旋回する。第2区間の逆だ。スラスターを下向きに絞りながら前進する。速度と方向の制御を、体の感覚でやった。


 下降カーブを抜けた。


「第6区間終了、1位。シンカさんとの差は2.5秒」とピカトが言った。


 また縮まった。


 立体カーブが見えてきた。

 第7区間。最終区間。立体カーブ。


 ここだ。


「立体カーブ入り口まで8秒」とピカトが言った。「オーバードライブ、使うか使わないか。今決めて」


 ジールは考えた。


 差は2.5秒。立体カーブで4.3秒の差が出る。4.3秒速く通過すれば、差は6.8秒になる。そのまま先行できる。

 でも、それは練習での数字だ。本番でも同じかどうかはわからない。


 体に聞いた。


 体が言っている。行ける。


「使う」とジールは言った。


「わかった。入り口まで5秒。タイミングは自分で決めて。止める時は忘れずに」


「忘れない」


 立体カーブの入り口が見えた。

 速度は580。


 足首を、軽く内倒した。


 世界が変わった。


 音が消えた。正確には、音より速くなった。自分が音の前に出た。空気が固体に変わる手前の感触が、体の表面を走った。


 ピカトのデータが言っていた数字が、どこかで鳴った。700。

 到達した。


 圧力が来た。体の全部が外に引かれた。でも耐えた。視界が狭くなった。前だけが見えた。


 出口。

 出口だけを見た。


 旋回の中間。圧力が最大になった。赤くなった。耐えた。心拍が上がっている感覚があった。でも飛ばない。


 出口が近くなった。


 足首を、強く内倒した。


 衝撃が来た。腹に力を入れた。


 通過した。


 立体カーブを抜けた時、空が広かった。

 コースの出口は外縁区画だ。スカイピースのプラットフォームの縁。その先は空だ。


 ゴールまでの直線が見えた。


 後ろに気配はない。


「ジール」とピカトの声が来た。少し震えていた。「1位、差は――ゴールして。ゴールして」


 ジールは前を向いた。


 ゴールラインが見えた。


 スラスターを噴いた。最後の直線、出し切った。


 ゴールした。

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