第17話 終わりと始まり
ゴール後しばらく、ジールは空中に浮いていた。
呼吸が乱れていた。心拍が高い。手の感覚が少し戻ってくるまで、時間がかかった。
周囲の音が戻ってきた。
歓声だ。
何万人もの歓声が、スカイピースの上空に広がっていた。外部枠の選手が1位でゴールした。それは記録に残る出来事だから、歓声が上がるのは当然だ。でも、ジールはその歓声が自分に向かっているとは実感できなかった。
シンカが横に来た。
2位でゴールしていた。
「勝ったな」とシンカが言った。
「勝った」
2人は空中に浮いたまま、少しの間そこにいた。
「立体カーブ、オーバードライブだったか」
「そうだ」
「通過タイムが出た。コース最速記録だ」
「記録が出たのか」
「本番での記録だから、公式記録として残る。委員会が確認中だ」
ジールはそれを頭の中で処理した。記録が残る。公式の。
「体は大丈夫か」
「大丈夫だ」
「嘘か本当か」
「本当だ。旋回中に赤くなったが、飛ばなかった。出口で衝撃が来たが、耐えた」
シンカが頷いた。
「後で体のデータ確認が入る。アリンが担当する。企業じゃなく委員会のデータだ」
「わかってる。同意した」
ピカトのところに降りた。
整備士エリアに、ピカトが端末を持って立っていた。端末を手にしたまま、動いていなかった。
「ピカト」
ピカトが顔を上げた。
目が少し赤い。泣いていたかどうかはわからない。ピカトが泣くことはほとんどない。でも、何かがあったのはわかる。
「ゴールした」とジールが言った。
「見てた」とピカトが言った。
「オーバードライブ、動いた」
「動いた。完璧に動いた」
ピカトが手を出した。スラスターを外してくれという意味だ。ジールが外して渡すと、ピカトはすぐに確認を始めた。泣いていたかどうかはわからないまま、手だけが動いている。
「問題あるか」
「今確認してる」
1分後、ピカトが言った。
「問題ない。オーバードライブのユニットに、想定内の熱負荷がかかってるが、許容範囲内だ。これは本番用に設計した通りだから、問題ない」
「よかった」
「よかったね」
ピカトが端末を下ろした。それからジールを見た。
「勝った」
「勝った」
「知ってる。見てた。でも、言いたかった」
ピカトが珍しく感情の出た言い方をした。感情を抑えているわけじゃなく、感情がそのまま出てきている。
「ありがとう」とジールが言った。
「私に言う言葉じゃない。あなたが走った」
「お前が作ったスラスターで走った」
「それは——」ピカトが少し間を置いた。「そうだね。どういたしまして」
表彰の後、委員会のアリンによる事後確認があった。
体のデータを取る。心拍数、血圧、神経反応、Gへの影響確認。1時間かかった。
「異常なし」とアリンが言った。「オーバードライブ使用後のデータとして、記録に残す。委員会の研究資料として使用することに同意できるか」
「同意する」
「内容は公開しない。外部への提供もしない。委員会内部のみの資料だ」
「企業に行かないことは保証されるか」
「委員会の規定上、保証される。ただし——」アリンが少し間を置いた。「100%の保証を私はできない。委員会も人間の組織だから」
「正直な答えだ」とジールは言った。「同意する」
アリンが頷いた。
「最後に1つ。あなたは今日の走りで、上のどのレーサーとも異なる特性を持つことが証明された。企業は必ずこの結果を見る。そして動こうとする。備えておけ」
「わかってる」
「備えは十分か」
「十分じゃないが、覚悟はある」
アリンが少し表情を変えた。
「それでいい。外部枠の成績が残った以上、IDの正式申請が可能になった。申請先は委員会だ。手続きを進めれば、3ヶ月以内に正式なIDが発行できる」
「正式なID」
「企業経由ではなく、委員会経由で。それはお前が自由に使えるIDだ。企業の条件は付かない」
ジールは少し時間がかかった。
「申請する」と言った。
「わかった。書類を明日送る。整備士の方のIDについても、同様の手続きが取れる。確認しておけ」
施設を出た時、シンカが待っていた。
「話があるか」
「ある」とジールが言った。
2人でゲートの近くに行った。ピカトはついてこなかった。距離を取っていた。気を使ったのか、興味がないのかはわからない。
「企業が動く」とシンカが言った。
「アリンにも聞いた」
「俺も止めようとするが、全部は止められない。特に、今日のデータが広がれば、技術部門は動かざるを得なくなる。委員会のデータは企業に行かないが——結果は公式記録として残った。その結果から、何をしたかを推測することはできる」
「わかってる。でも、アリンから聞いた話がある」
IDの申請の話をした。
シンカが少し驚いた顔をした。初めて見る表情だった。
「アリンが言ったのか」
「そうだ」
「……あの人は、こういう時の動き方を知ってる」とシンカが小さく言った。「委員会経由のIDは、企業が介入できない。それが成立すれば——」
「守れる」
「完全にじゃないが、かなり守れる」
シンカが前を向いた。
「申請が通るまでの間、俺も動ける範囲で動く。企業の接触を遅らせることならできる」
「また助けるのか」
「また助ける」
「なんで」
シンカが少し間を置いた。
「お前が勝ったから」
「それが理由か」
「それだけじゃない。でも——」シンカが少し笑った。「俺に勝った人間の味方をしたい。それが本音でもある」
ジールはその正直な言い方が好きだった。
「ありがとう」
「礼はいらない」
「ピカトと同じことを言う」
「賢い人間は同じことを言う」とシンカが歩き出した。「IDが取れたら、また話をしよう。ここじゃなくていい場所で」
ゲートを出た。
アンダートークの空気が来た。管理されていない空気。油と人間の匂いが混ざった空気。
ピカトが隣に来た。
「聞こえてたか」
「聞こえてない。聞く気もなかった」
「そうか」
「でも、シンカさんが笑ってたのは見えた。珍しいと思った」
「珍しいのか」
「あの人、笑わない人だと思ってた。今日は2回笑ってた」
ジールはその観察力が、ピカトらしいと思った。
「帰るか」
「帰る」
2人で歩き出した。
外縁区画から離れて、第1層に入った。マーケットの人間が気づいて、声をかけてくる。何人もが何かを言う。
「勝ったか」
「見た、見た」
「上の中継で名前が出たぞ」
ジールは答えながら歩いた。止まらなかった。歩きながら答えた。それがここのやり方だ。
工房のコンテナが見えてきた。
そこでルカが待っていた。
外縁近くの、いつもと違う場所に立っていた。義手の左腕を体の前で組んで、静かに立っていた。
「帰ってきた」
「帰ってきた」
ルカが少し笑った。苦い笑いじゃない。本当の笑いだった。
「見えたか」とジールが聞いた。
「外縁の下から見た。立体カーブの辺りで、上のコースを誰かが光みたいに通過した」
「光みたいに」
「速すぎて、人間には見えなかった。でも、光が通ったのは見えた。それがお前だと思った」
ジールは何も言えなかった。
「20年分の話を、今日お前が引き受けた。感謝する」
「引き受けたつもりはない」とジールが言った。「ただ走った」
「そうだ。ただ走った。それで十分だ」
ルカが背を向けて歩き出した。第5層に帰るのか、しばらく第1層にいるのかはわからなかった。でも、背中が軽そうだった。
工房のコンテナに入った。
ピカトがスラスターを棚に置いた。
ジールは床に座った。体の疲れが、ここに来てやっと出てきた感じがした。
「疲れた」
「今まで走った中で、一番疲れたか」
「違う。全然違う。体はそんなに疲れていない。でも、何か別のところが疲れた」
「気が張ってたから」とピカトが床に座った。「ずっと気が張ってた。申請から今日まで、何週間も。それが今日終わった」
「終わった」
「終わった。でも、IDの申請がある。企業の動きがある。まだ続く」
「わかってる」
「でも今夜は——」ピカトが少し考えた。「今夜は終わりにしていい。明日からまた考えればいい」
ジールはそれを聞いて、少し体から力が抜けた。
「ピカト」
「なに」
「オーバードライブ、どんな感じだったか聞くか」
「聞く」
「さっきも言ったが——静かだった。でも、さっきと違うことを言うと」
「言って」
「音が消えた後、自分が音より速くなった感じがした。音の前に行けた。そこは——誰もいない場所だった。自分だけの場所だった。怖くなかった。気持ちよかった」
ピカトが黙って聞いていた。
「2年分のものを、今日使った。お前が2年かけて作ったものを」
「そうだね」
「お前のものが、俺の体と一緒に音の前に行った」
ピカトは少しの間、何も言わなかった。
「……それは」とピカトが静かに言った。「嬉しいことを言ってくれる」
コンテナの外で、アンダートークの夜が始まっていた。
機械の音。人の声。配管の振動。
いつもの音だ。でも今夜は、少しだけ違う音に聞こえた。
何かが終わった夜の音だ。
何かが始まった夜の音でもある。
1部終了です。
人気ないので続きを書くかはわかりません。




