第15話 前夜
スカイラッシュ本番の前日、承認が下りた。
シンカから連絡が来たのは午前中だった。
「外部枠参加、正式に承認された。整備士の同行も承認された。明日、エントリーできる」
ジールはその文章を3回読んだ。
「わかった」と返信した。
それだけだった。大げさな感情は出なかった。来るべきことが来た、という感覚だった。
ピカトに伝えた。ピカトも特に顔色を変えなかった。
「わかった。最終の調整をする。今夜やる」
「何時まで?」
「終わるまで」
それがピカトだった。
昼にマーカスから連絡が来た。
「話がある。第3層に来てくれ」
ジールが行くと、マーカスの事務所にルカがいた。
第5層のルカが、第3層に来ている。珍しい。
「お前が明日出ることは、アンダートークに広まってる」とマーカスが言った。
「広まるのは仕方ない」
「問題ない。むしろ逆だ。今夜、第1層から第3層にかけて、人が集まってくる。スカイラッシュにアンダートークの人間が出ると知って、見たい人間が増えた」
ジールは少し驚いた。
「見えるのか、下から」
「直接は見えない。でも上層の中継が拾える改造受信機を持っている人間がいる。あとは――外縁区画の真下から、コースの一部が見える。前回と同じだ」
「また人が集まるのか」
「前回より多い。前回は他人事で見ていた。今回は知ってる人間が走る」
ルカが言った。
「俺も上がってくる。第1層の外縁近くから見る」
「第5層から出てくるのか」
「たまには出る。こういう時は」
ルカが義手の左腕を軽く動かした。
「20年前に俺がやれなかったことを、お前がやる。それを見る理由がある」
ジールは何も言えなかった。
「プレッシャーをかけたいわけじゃない」とルカが続けた。「ただ、見ておきたい。それだけだ」
「わかった」とジールはようやく言った。
「余計なことを考えるな。走ることだけ考えろ。俺みたいな人間の20年分の話は、走った後で引き受ければいい」
「引き受けるって」
「走った後で、話をする人間が増える。聞けばいい。それだけだ」
マーカスが立ち上がった。
「お前に渡すものがある」
棚から小さなものを取り出した。布に包まれている。渡された。開けると、古い金属のピンだった。
「俺が第3層で初めてスラムレースに出て、1位になった時にもらったものだ。大した意味はない。でも、ずっと持ってた。お前に渡す」
「なぜ」
「縁起物だ。上等なものじゃないが、俺の1位がここにある。お前の1位に貸す」
ジールはピンを受け取った。
「ありがとう」
「勝って来い。1位じゃなくてもいい。でも勝って来い」
その2つは矛盾しているようで、ジールには意味がわかった気がした。
工房に戻ると、ピカトが作業の途中だった。
ジールはマーカスにもらったピンをテーブルに置いた。
「何それ」
「マーカスのラッキーアイテムらしい」
「どこに付ける」
「どこかに付けてくれ。お前に任せる」
ピカトがピンを手に取って、しばらく見た。それから立ち上がって、ジールのスラスターの内側の見えない部分に、小さくピンを付けた。
「ここ。誰にも見えないけど、ちゃんとある場所」
「そこでいい」
「それと――」ピカトが戻って、また作業を始めた。「今日、シンカさんから連絡があった。明日のエントリー手続きの詳細と、スタート前の集合場所。私のところにも確認が来た」
「何時だ」
「朝8時に外縁区画の選手エリアに集合。スタートは10時。それまでの2時間でウォームアップとスラスターの最終確認をする」
「ピカトはどこにいる」
「選手エリアの隣に整備士エリアがある。そこにいる。スタート直前まで私がスラスターを持っておいて、お前が飛ぶ直前に装着する」
「本番中は」
「イヤピースで繋がってる。何かあれば言って。ただし――本番中に私が何かできることはほとんどない。だから、できる準備は全部今夜する」
「何時まで起きてる」
「終わるまで」
ジールは横に座った。
「手伝えることはあるか」
「今夜は手伝いはいらない。座ってて」
ピカトの手が動いている。小さな部品を、1つずつ確認している。終わったものは右に置く。確認中のものは左に置く。それを繰り返す。
静かな作業だ。
「ピカト」
「なに」
「2年前、オーバードライブを作り始めた時、どんな気持ちだったか」
手が止まった。少しの間があった。
「楽しかった」とピカトが言った。「難しい問題を解くのが楽しかった。ジールの体に合わせた推進装置を設計するのは、今まで解いたどの問題より難しかった。だから楽しかった」
「それだけか」
「それだけじゃない。でも――」ピカトが再び手を動かした。「当時の私には、それが全部だった。今は少し違う感じがある」
「どう違う」
「楽しいだけじゃない。嬉しい、という感じがある。明日、これが動く。私が作ったものが、本番のコースで動く。それが嬉しい」
嬉しい、という言葉をピカトが使うのは珍しかった。
「ありがとう」とジールが言った。
「また言う。礼はいらない」
「それでも言う」
「……わかった。どういたしまして」
それも珍しい返し方だった。ジールは少し笑った。
ジールが横になったのは、深夜を過ぎた頃だ。
ピカトはまだ作業していた。ランタンの光が揺れている。部品の音が聞こえる。
眠れるかどうかわからなかった。眠らなければいけない、と思えば思うほど眠れない感じがある。
天井を見た。
明日、スカイラッシュに出る。
スラムランナーがスカイラッシュに出る。IDを持たない人間が、外部枠で上のレースに出る。記録に残る、とアリンが言った。最初になる。
最初になることは、重くない、とピカトが言った。ただやることをやれば、後から最初だったとわかる。
ジールはそれを何度か頭の中で繰り返した。
ただやることをやる。
走ることは、ずっとやってきた。スラムレースで走ること、荷物を届けるために走ること、逃げるために走ること。走ることはいつもそこにあった。
明日は、それを上でやる。
それだけだ。
そう思ったら、少し楽になった。
シンカはその夜、自分のフラットにいた。
スカイピースの夜景を見ながら、コースの最終確認をした。データは頭に入っている。もう確認する必要はない。でも、何か手を動かしていないと落ち着かない。
こんな感覚は、何年かぶりだ。
レース前夜に落ち着かないのは、久しぶりだ。去年も一昨年も、本番前夜はすっと眠れた。コースを把握していた。対戦相手を把握していた。何が来るかわかっていた。
今年は違う。
ジールという変数がある。どう走るかが予測できない。データはある。練習走行も一緒にやった。でも、ジールが本番でどう判断するかは、わからない。
それが面白い、とシンカは思った。
久しぶりに、勝てるかどうかわからないレースがある。
シンカがスカイラッシュに初めて出た時、そういう感覚があった。16歳で、何も知らないまま上に来て、コースに入って、それが全部だった。今、何をしているのかも、それが何を意味するのかも、よくわからないまま走った。
あの頃の走りが、今の走りより純粋だったかどうかは、わからない。
でも、明日は久しぶりに、それに近い感覚でコースに入れる気がした。
ジールはいつの間にか眠っていた。
夢は見なかった。
目が覚めた時、ピカトはもう起きていて、スラスターの横で端末を確認していた。
外の気配が少し変わっていた。
アンダートークが、静かだった。
いつもは機械の音がしているが、今朝は少し違う。静かな中に、人の気配がある。もう集まり始めているのかもしれない。上のレースを、下から待っている人間たちが。
「起きた」とピカトが言った。
「起きた」
「朝食、あるよ」
「食べられるか不安だが」
「食べて。走る前に腹が空いていると、集中が切れる。それはデータで出てる」
「データ」
「スラムレース前後のあなたの体のデータ。空腹時はタイムが平均2.3%落ちる」
「そんなデータ取ってたのか」
「当然」
ジールは起き上がった。
体の状態を確認した。疲れはない。よく眠れた。
スラスターが棚の上にある。ピカトが最終確認を終えたものが、出発を待っている。
行く。
それだけだ。




