第14話 オーバードライブ、起動
最終練習の前日、企業が動いた。
マーカスから連絡が来たのは朝だ。
「外部枠の審査に、技術的問題があるという異議申し立てが入った。企業から運営委員会への公式問い合わせじゃなく、運営委員会内部の一委員からの申し立てだ。企業が委員に働きかけたと見ていい」
「審査が止まるか」
「止まる可能性がある。申し立てがあれば、委員会は審議をしなければならない。審議には最低3日かかる。本番まであと4日だ。審議に3日使えば、残りが1日になる。その間にさらに問題が起きれば——」
「本番に間に合わない」
「そういうことだ」
ジールはシンカに送信した。
5分で電話が来た。シンカの声が少し硬い。
「知ってる。対処する。ただし、時間がかかるかもしれない。明日の最終練習は予定通りやれる。その後の審議については、俺が動く」
「どう動く」
「委員会の内部に、外部枠制度の設立に関わった古い委員がいる。その人間に話を持っていく。申し立ての内容を突破できるかどうかは、まだわからない」
「最悪の場合は」
「本番に間に合わない場合、次の大会まで待つことになる。ただし——企業もその間に動く。次の機会が保証されるかどうかは不明だ」
ジールは黙った。
「諦めるつもりはない」とシンカが言った。「俺が始めたことだ。終わらせる」
通話が終わった。
ピカトが横で聞いていた。
「最終練習は明日、予定通りか」
「そうだ」
「じゃあ今日は準備する。オーバードライブの最終設定をする」
ピカトが作業台の前に座った。一言も余分なことを言わなかった。
最終練習の朝は、空が少し赤かった。
スカイピースに来るたびに思うことだが、上の空は見える空の面積が広い。アンダートークではプラットフォームが空の大半を覆っているから、見える空は縁だけだ。ここは360度、空がある。
外縁施設の前でシンカが待っていた。
企業の審議の話は、今日は出なかった。出す必要がない。今日は走る日だからだ。
「立体カーブでオーバードライブを試す」とシンカが確認した。「1回だけ。入り口から出口まで通し走行はしない。立体カーブだけに集中する。入る前の速度は600キロに合わせる。準備はできているか」
「できてる」
「ピカトは観測ポイントから確認する。異常があれば即座に連絡をくれ」
「わかってる」とピカトが言った。「ジール、足首の確認」
ジールは足首を動かした。軽く内倒し。これが起動。強く内倒し。これが停止。
「できてる」
「いくよ」
立体カーブの入り口の600メートル手前でホバリングした。
速度を上げる区間を設けて、600キロで入る計算をした。シンカが並走する。でもオーバードライブを使う区間はジールだけだ。シンカの機材ではついていけない速度になる。
「入ったらすぐにオーバードライブを起動する必要はない」とシンカがイヤピース越しに言った。「コースを感じて、タイミングを自分で判断しろ。理屈より体に聞け」
「わかった」
「行け」
スラスターを噴いた。
加速する。速度が上がる。500、550、580、600。立体カーブの入り口が見えてきた。
普通のやり方なら、ここで速度を落とす準備を始める。
ジールは落とさなかった。
入り口に達した。
体が感じた。旋回の圧力が来た。遠心力が外に引く。でも耐えられる。もっと速くいける。
足首を、軽く内倒した。
世界が変わった。
音が消えた。
正確には音が消えたわけじゃない。でも、体に届く前に全部が過ぎ去る速度になった。視界が狭くなった。前だけが見える。旋回の圧力が、さっきの比じゃない強さで来た。
内側に引かれる。外側に引かれる。2つの力がぶつかって、体の中で何かが絞られる感じがした。
視界が赤くなった。
でも、落ちなかった。
旋回の中間点を過ぎた。出口が見えた。出口まで2秒ない。
足首を、強く内倒した。
衝撃が来た。
前から壁に当たったような衝撃だ。でも壁はない。速度が急激に落ちた。体が前のめりになった。腹に力を入れた。耐えた。
出口を抜けた。
速度は通常域に戻っていた。
数秒間、ジールはそのまま直進した。
呼吸が乱れていた。心拍が上がっている。でも、意識は飛んでいない。視界は戻っている。
「ジール!」とピカトの声が来た。
「いる」
「データ取れた。ちゃんと取れた。タイム——」とピカトが数字を言った。「立体カーブ通過タイムが、オーバードライブなしより43秒短い。いや待って。43秒じゃない。4.3秒」
「それは」
「大きい。コース全体に換算したら——シンカさんの現在のベストタイムより速い可能性がある」
沈黙があった。
「体は大丈夫か」とシンカの声がした。
「大丈夫だ」
「本当に」
「本当に。少し揺れたが、耐えた」
「もう1度やれるか」
ジールは自分の体の状態を確認した。心拍は上がっているが、落ち着いてきている。手の感覚が戻ってきている。
「やれる」
「やらなくていい」とピカトが言った。「1回で十分なデータが取れた。あとは本番に取っておいて」
「ピカトが言うなら」
「私が言う。戻って来て」
施設に戻って、3人でデータを見た。
立体カーブの通過データが端末に表示されている。速度グラフが、オーバードライブ起動後に急上昇して、停止後に急落している。その間の時間が、普通の通過より圧倒的に短い。
「これは」とアリンが、施設に来ていてデータを見た。「どうやって旋回した」
「体で耐えた」とジールが言った。
「Gが通常の3倍以上だ。普通の人間は意識を失う」
「普通じゃないのはわかってる」
アリンがシンカを見た。
「これを本番で使うつもりか」
「そのつもりだ」とジールが答えた。
アリンはジールを見た。
「本番で使用した場合、事後審査が入る。お前の体のデータを取ることになる。それは同意するか」
「同意する」
「記録として残る。企業はそのデータを見ることができる」
ジールは少し考えた。
「企業に見せることになるか」
「委員会の記録だから、企業が自動的に見られるわけじゃない。でも、申請すれば閲覧できる」
「わかった」とジールは言った。「それでもやる」
アリンが頷いた。
「了解した。本番での使用を認める。ただし、整備士は常にコンタクトを取れる状態に置くこと」
「それは最初からそうする」とピカトが言った。
施設を出た後、シンカがジールを呼び止めた。ピカトは先に歩き出していた。
「1つ聞いていいか」
「なんだ」
「立体カーブの中で、何を見ていたか」
ジールは答えるのに少し時間がかかった。
「出口だ。最初から出口だけを見ていた」
「旋回の途中が見えなかったのか」
「見えたが、関係なかった。出口に向かって体が動いた。途中は、通過するだけだった」
シンカが少し黙った。
「俺とは違う走り方だ」
「悪いか」
「悪くない」とシンカが言った。「ただ、理解できる走り方と理解できない走り方がある。お前のは、理解できない方だ」
「理解できない走り方は、追えないということか」
「追えるかどうか、わからない。それが正直なところだ」
シンカが珍しく、確信を持って何かを言わなかった。
ジールはそれを受け取った。
「本番でわかる」
「そうだな」とシンカが言った。「本番でわかる」
工房に帰ったのは夕方だった。
ピカトがスラスターを分解して確認していた。オーバードライブの使用後に負荷がかかっていないかを確認する作業だ。
「どうだ」
「問題なかった。設計通りに動いた。マッハ域から通常域への移行も、想定内の負荷だった」
「壊れないか」
「1回や2回では壊れない。ただし、連続使用は想定していない。本番では1区間だけ使う前提で設計してある」
「1区間だけにする」
「それで十分だ。立体カーブ1区間だけオーバードライブを使えば、コース全体のタイムが変わる」
ピカトが部品を戻し始めた。手が止まった。
「さっき、どんな感じだったか」
「オーバードライブが?」
「そう」
ジールは少し考えた。
「静かだった」
「静か」
「音が消えた。速度が上がり過ぎて、音が追いつかなかった。視界が狭くなって、前だけが見えた。体に圧力が来たが、耐えた。出口が見えた時、もうそこにいた感じがした」
ピカトが手を動かしながら聞いていた。
「もう一度経験したいか」
「したい」とジールは即座に言った。
ピカトが手を止めた。
「私が心配してたのは、使って怖かったら本番で使えない、という可能性だった。でもそれは心配しなくていいみたいだ」
「心配してた意味は何だ」
「いい経験だと思ってほしくなかった。本番で使う時、興奮して判断が鈍ることが怖かった。でも——」とピカトが端末にデータを記録しながら言った。「さっきの走りを見ていると、興奮じゃなく、ちゃんとした判断の中で使っていた。そこは心配しなくていい」
「ピカトが言うなら」
「私が言う。本番まで、あと2日ある」
夜、マーカスから2度目の連絡が来た。
「企業の委員への働きかけが、委員会内で問題になっている。シンカ・レイが委員会の古参委員に働きかけた結果だ。申し立ては明日の朝、撤回される見込みだ」
ジールはシンカに送信した。
「ありがとう。明日、審査は続くのか」
「続く。問題なく進めば、本番前日に承認が下りる」
「ギリギリだ」
「ギリギリになるように企業が持っていった。でも間に合う。走ることだけ考えていろ」
ジールは端末を置いた。
ピカトが横で話を聞いていた。
「審査が通りそうか」
「シンカが言うなら」
「シンカを信用するのか」
「している」
「理由は」
ジールは少し考えた。
「約束を守ってる。今のところ全部。それだけだ」
「それで十分かどうかはわからないけど」とピカトが言った。「今は十分だね」
本番まで2日。
審査が下りる。走れる。
それだけが今の事実だった。




