第10話 3日間
1日目の夜、ジールとピカトはマーカスに会いに行った。
マーカスの事務所は、第3層の中心にある。
事務所といっても廃ビルの一室で、外から見ればただの古い建物だ。だが中に入ると、壁一面にモニターが並んでいる。アンダートーク中に設置された非公式カメラの映像だ。
マーカスは情報を商売にしている。
その情報源が、このカメラ網だった。
「シンカ・レイが来たのは知ってる」
椅子に座ったまま、マーカスが言った。
義眼はモニターの方を向いている。
「誰から聞いた」
「マーケットの爺さん。名前は聞いてない」
ジールは内心で苦笑した。
アンダートークに秘密はない。少なくとも、完全には。
「外部枠の話を聞いたか」
マーカスが少しだけ向き直った。
「その話か」
「知ってるのか」
「聞いたことはある。制度としては存在する。使った人間は今まで誰もいない。使えた人間がいなかった、という方が正確だが」
「使えなかった理由は」
「上のレースに出られる実力を持つ下の人間が、今まで推薦者を得られなかった。それだけだ」
マーカスは腕を組んだ。
「シンカ・レイが推薦者になるなら、制度上の問題はない。問題は企業だ」
「企業は止められないとシンカは言った」
「止められない、というのは正確じゃない。妨害はできる。外部枠の申請を遅らせることも、審査の過程に干渉することもな」
「お前が申請するなら、速く動く必要がある」
「どのくらい速く」
「申請から承認まで最短で二週間。その間に企業が動けば、話は変わる。逆に承認が下りれば、運営委員会の管轄に入る。そこからは企業も手を出しにくい」
ジールはマーカスを見た。
「意見を聞かせてくれ。マーカスが見てきた中で」
マーカスは少し間を置いた。
「俺の意見は関係ない。ただ――」
義眼の方を、軽く指で触れる。
「スカイラッシュに出て帰ってきた下の人間は、今まで誰もいない。そもそも出たことがないからな。お前が出て、帰ってきたら、それは最初の話になる」
「帰ってこれるか」
「わからない。でも――」
マーカスは椅子から立ち上がった。
「お前は速い。下で一番速い。それが上で通用するかどうか、俺には判断できない」
少しだけ口元が動いた。
「でも俺は見たい。正直に言えば、それだけだ」
2日目の朝、ピカトは計算を始めた。
作業台の前に座り込み、何時間も数字を追っていた。
ジールは邪魔をしなかった。ピカトが計算している時は、話しかけない方がいい。下手に口を挟むと、あとで倍の時間がかかる。
昼過ぎになって、ようやくピカトが顔を上げた。
「スカイラッシュのコースを調べた。外縁区画の拡張部分が、今年から追加されてる。最高速度区間は真っすぐな高速レーン。ここはスラスターの出力がすべてになる」
ピカトは端末の図面を指でなぞった。
「問題は最後の立体カーブだ」
「どのくらい難しい」
「時速六百キロからの急旋回。通常のレーサーは事前にスラスターを調整して、そこで速度を落とす。そうしないと、遠心力で外に弾き出される」
そこで一度言葉を切って、ピカトが数字を書いた。
「でも――あなたがオーバードライブを使えば、速度を落とさずに旋回できる可能性がある。体が耐えられれば」
「耐えられるか」
「わからない」
ピカトは正直に言った。
「計算上は、今のあなたの体のデータなら境界線上。耐えられるかもしれないし、耐えられないかもしれない。五十対五十じゃなくて、六十対四十で“いける”側に傾いてる」
少し眉を寄せる。
「でも、それが根拠のある楽観なのか、根拠のない楽観なのかは、私にもまだ言い切れない」
ジールは数字を見た。
「オーバードライブを使わなければ」
「使わなければ安全だ。でも、上のレーサーには勝てない。機材の差がある。通常出力で戦えば、シンカには届かない」
「勝つ必要があるか」
ピカトの手が止まった。
「それは――何のために出るかによる」
「外部枠で参加して、身を守ることが目的なら、完走できれば十分。でも」
「でも」
「あなたが走る時、勝ちたいと思ってるのを知ってる」
ピカトはジールを見た。
「スラムレースで一位になる時の顔を、二年見てた」
ジールは答えなかった。
「どっちで走るかは、あなたが決めて」とピカトが言った。
「私はどっちも整備できる。オーバードライブを使う設定も、使わない設定も。どっちを頼まれても、最善を尽くす」
「ありがとう」
「礼はいらない。私がやりたいからやる」
それだけ言って、ピカトはまた計算に戻った。
2日目の夜、ジールは一人で外縁近くまで来ていた。
ピカトには黙って出てきた。
見つかれば叱られるだろうが、一人で考えたいことがあった。
プラットフォームの縁の下。
見上げれば、縁が見える。その向こうに、夜のスカイピースの光が滲んでいた。上層の光が、プラットフォームの端から漏れている。
昼より、夜の方が上の光はよく見える。
スカイラッシュ当日に聞いた轟音を思い出した。
あの音が来た時、体が何かを感じた。
恐怖ではなかった。言葉にしにくい何かだった。
同じ速度の世界が、空の上にあると知った時の感覚。
ルカは、走ることは手段だったと言った。
では、自分にとって走ることは何なのか。
生活の手段だ。
荷物を運んで、金をもらう。それは間違いない。
でも、それだけかと聞かれると、答えに詰まる。
スラムレースで一位になる時、生活費のためだけに走っているのかと問われれば、それは違う。
違う、とわかっている。
なのに、何のために走っているのかを、ジールは一度も言葉にしたことがなかった。
上を見た。
スカイラッシュの外部枠。
自分が飛ぶとすれば、あそこを飛ぶ。あの高さを、時速六百キロで。
スラスターがオーバードライブになれば、さらに速く。
怖い、という感情は確かにある。
でも、それより大きい感情がある。
まだ名前のない感情が。
3日目の朝、ジールが工房に戻ると、ピカトが出迎えた。
「どこ行ってたの」
「外縁」
ピカトが少しだけ眉をひそめた。
でも、何も言わなかった。言わないことが、ピカトなりの言い方だった。
「決めたか」とピカトが聞いた。
「ほぼ決まってる」
「ほぼ、じゃなくて」
「決めた」
ジールはピカトを見た。
「出る。スカイラッシュに」
ピカトは表情を変えなかった。
変えなかったが、目の奥で何かがわずかに動いた。
「オーバードライブは」
「コースを見て決める。走る前に決める」
「今、走りながらって言おうとしたでしょ」
「少しだけ」
「だめ。事前に設定が必要」
ジールは少しだけ視線を逸らした。
「じゃあ二パターン用意してくれ。使う設定と、使わない設定。走る前に決める」
ピカトは少し考えてから頷いた。
「わかった。二パターン用意する」
「ピカトも行くと言ってたな」
「行く。整備士として申請する。シンカに確認してもらう」
「シンカに伝える。今日」
ジールが端末を持った時、ピカトが言った。
「待って」
ジールは手を止めた。
「怖い?」
ピカトが聞いた。
ジールは少し考えた。
「怖い」
「私も怖い」
「それでも行く」
「それでも行く」
同じ言葉を口にして、二人は少しのあいだ黙った。
いつもの朝の音がしている。
アンダートークの機械の音。人の気配。配管を伝う振動。
ここの音で目が覚めて、ここの音の中で走って、今日もまたここの音の中にいる。
この音が遠くなる日が来るかもしれない。
来てもいい、とジールは思った。
来なくてもいい。
でも、来てもいい。
それがまだ答えの全部じゃないと、自分でもわかっていた。
それでも、今はそれで十分だった。
ジールはシンカに送信した。
「出る。スカイラッシュの外部枠に。整備士も連れて行く。ピカトという。確認してくれ」
返信は三分で来た。
「わかった。申請手続きを始める。二週間で動く。その間、企業の動きを抑える。準備をしておけ」
もう一通、続けて届く。
「コースは事前に走れる。レース二日前に練習枠が取れる。来い」
ジールはピカトに端末を渡した。
ピカトは画面を読み、無言で返してきた。
「二週間で何ができるか、考える」
「ピカト」
「なに」
「ありがとう」
「だから、礼はいらないって言ってる」
「それでも言う」
ピカトは溜息をついた。
でも、嫌そうな溜息ではなかった。
「私こそ」
そう言って、棚のスラスターを見る。
「二年間、使う日を待ってたオーバードライブが、もしかしたら使える」
少しだけ、口元が上がる。
「楽しみが一つ増えた」
それがピカトの言い方だった。
大げさじゃなく、でもまっすぐな、正直な言い方。
ジールもスラスターを見た。
二年間、眠っていた推進装置。
作られた理由を持つ、世界に一つしかない機材。
準備は、今日から始まる。




