第9話 境界線
待ち合わせは、ジールが指定した。
外縁近くの廃工場跡。自分のホームエリアで、逃げ道も把握している場所だ。
ルカのいる第5層から第1層へ戻るのは、ピカトが外の状況を確認してからにした。捜索チームが引いたという話は本当だと思うが、念のためだった。
確認には一時間かかった。
第1層に戻ってきた時、アンダートークはいつも通りだった。
機械の音。人の声。配管を伝う振動。
三日ぶりに、自分の場所へ戻ってきた感覚があった。第5層は悪くなかった。けれど、ここが自分の場所なのだと、改めてわかった。
「工房に寄っていくか」とピカトが言った。
「会ってから戻る」
「わかった。三時間以内に戻って」
「わかった」
「シンカが変なことを言い出したら、断ってすぐ逃げて」
「わかった」
「本当にわかった?」
ジールはピカトを見た。
「お前を信用してる。だから行ってくる」
ピカトは何も言わなかった。それで十分だった。
廃工場跡には、シンカが先に着いていた。
フードをかぶっている。だが、今日は立ち方が違う。
前に会った時は緊張していた。今日は、どこか慣れた空気がある。三日のうちに何度かアンダートークに来たのか、それとも覚悟を決めた人間の立ち方なのか、ジールにはわからなかった。
「来た」とシンカが言った。
「来た」
二人の間に、少しだけ間が空く。
アンダートークの夕方の音が流れていた。どこかで子どもが走っている声がする。
「座るか」
廃工場の壁際に、廃材が積まれている。コンクリートの塊で、椅子代わりにはなった。
シンカが先に座り、ジールもその隣に腰を下ろした。
変な距離感だ、と思う。
二週間前まで知らなかった人間と、廃工場の廃材に並んで座っている。
なのに、不思議とおかしくはなかった。
「正直に言う」とシンカが口を開いた。
「そうしてくれ」
「俺は最初、企業のためにお前を特定しようとした。それが最初の動機だ」
「知ってる」
「それで――お前に会って、話が変わった」
シンカは前を向いたまま言った。
「変わった理由は、ルカ・ドレという人間を先週調べたからだ」
ジールは表情を変えなかった。
ルカ・ドレ。
苗字まで知らなかったが、その人間がルカのことだと、すぐにわかった。
だが今、この場でその名前をシンカに渡すことはできない。ルカが第5層にいることも、関わっていることも。
「知らない名前だ」
「そうか」
シンカはそれ以上追及せず、続けた。
「俺は知らなかった。二十年前、企業の実験で腕を失ったランナーの記録が残っていた。名前は匿名処理されていたが、データのパターンがお前と似ていた。それを調べていて、別の記録も出てきた」
「別の記録」
「十二人だ。企業が高G耐性を持つ人間を見つけて、実験して、返した。記録に残っているだけで十二人。残っていないものはわからない」
ジールは黙った。
「俺はその記録を知らなかった」とシンカが言った。
「知らなかったというより、知ろうとしなかった、の方が正確かもしれない。走ることが好きで、レースが好きで、企業に見つかって機会をもらって、それに感謝してきた。何を踏み台にしていたのか、考えなかった」
ジールは、感情が複雑に動くのを感じた。
怒りなのかどうかもわからない。シンカを責めたいのかどうかも。
「お前は悪いと思ってるか」とジールが聞いた。
「思ってる」とシンカは短く言った。
「ただし、それを言って何かが変わるわけじゃない。俺が謝っても、十二人の何かは戻らない。だから謝りに来たわけじゃない」
「じゃあ、何しに来た」
シンカが、初めてジールの方を向いた。
「お前を企業に渡さない方法を考えてきた。それができるかどうかを、一緒に考えたかった」
シンカの話は、ジールが想像していたよりもずっと具体的だった。
スカイラッシュの運営委員会には、外部枠という制度がある。
IDを持たないランナーが、特例として参加できる枠だ。過去に使われたことはないが、制度としては存在していて、シンカが推薦者になれば申請できる。
「外部枠で参加した場合、参加者の身柄は運営委員会が保護する。企業はその期間、私的な接触ができない。俺が推薦者として動けば、少なくともレース期間中は企業の手が届かない場所に入れる」
「レース期間だけか」
「レース期間が終われば、また元に戻る。ただ、その間に交渉の時間は作れる」
「何を交渉する」
「IDだ。外部枠での参加実績があれば、正式なIDの申請ルートが開く。企業経由じゃなく、運営委員会経由で。それは企業の管轄外になる」
ジールは、話を聞きながらいくつか確認した。
「企業はそれを止められないのか」
「制度上は止められない。でも妨害はしてくる。だから速く動く必要がある」
「お前にメリットはあるか」
「ない」とシンカが言った。
「強いて言えば、良心の整理だ。それを言うと綺麗すぎるか」
「綺麗すぎる」
「そうだな」
シンカが少し笑った。
それは、ジールが初めて見る表情だった。
「でも、本当のことだ」
ジールは、廃工場の天井を見上げた。
廃材が組み合わさった天井の向こうに、何層もの建物がある。その上にプラットフォームがあり、そのさらに上に、スカイピースがある。
「スカイラッシュに出ることが前提か」
「前提だ。外部枠はレース参加の枠だから」
「実力を示す必要がある」
「ある。ただし、審査は俺がやる。俺が推薦すれば、委員会は動く。問題は――お前が出る気があるかどうかだ」
ジールは少し考えた。
「スカイラッシュに出るのに、どのくらい準備がいる」
「一か月でできる。コースの把握と、機材の確認。あとは体だが――お前の体は、俺よりずっと準備ができてると思う」
「スラスターが問題だ。スラムのカスタム品で、上のレースに出られるか」
「機材の基準を満たせばいい。性能が既製品以上なら問題ない。満たさなければ俺が手配する」
「手配はいらない」
ジールは即座に言った。
「スラスターはピカトのものを使う。他のものは使わない」
シンカは少し間を置いてから、頷いた。
「わかった」
二人はしばらく黙っていた。
「お前は、本当に走りたくないのか」とシンカが最後に聞いた。
ジールは、答える前に少し時間をかけた。
走りたい。
それは本当だった。
スラムレースで全開加速した瞬間の感覚。体が速度を求める感覚。
あそこには、まだ先がある。あの轟音の向こうに、自分の体がまだ知らない何かがある。
でも、それだけでは決められない。
「考える時間をくれ。三日」
「わかった」
シンカは立ち上がった。
「三日後に連絡する」
シンカは廃工場の出口へ向かって歩き出した。
その途中、振り向かないまま言った。
「俺が企業に見つかったのは十六歳の時だ。その時、何も知らなかった。選択肢があることすら知らなかった。お前には、少なくともそれを知った上で選んでほしい」
足音が遠ざかり、やがて消えた。
ジールは、しばらく廃工場に残っていた。
天井の廃材の隙間から、かすかに光が差し込んでいる。
夕方の、プラットフォームの縁から漏れる光だ。
ルカの話がある。
十二人の記録がある。
シンカの提案がある。
ピカトのオーバードライブがある。
全部が頭の中にあって、まだ形になっていない。
けれど、一つだけ確かなことがあった。
今、初めて「どうする」を自分で考えている。
上の人間に見つかるまでは、そんなことを考えたことはなかった。
スカイラッシュは、別の世界の話だった。自分には関係のない話だった。
今は違う。
関係を持つことにした覚えはない。
でも、気づけばその中にいた。
それが怖いのか、嬉しいのか、まだわからない。
でも、いやじゃない。
それだけは、確かだった。
工房に戻ると、ピカトが入り口に座っていた。
三時間、待っていたのだ。
「どうだった」
「話を聞いた」
「どんな話」
「スカイラッシュの外部枠の話だ」
ピカトの表情が変わった。
驚いた顔だった。ピカトがそういう顔をするのは珍しい。
「シンカが、それを提案した」
「そう」
ピカトは少し考えてから立ち上がり、ジールを工房の中へ促した。
中に入り、二人で床に座る。
「全部話して」
ジールは、シンカから聞いたことをできるだけ正確に話した。
外部枠の制度。運営委員会の保護。IDへの道。
ピカトは黙って聞いていた。
最後まで聞いた。
それから、長い沈黙が落ちた。
「私に、意見を言っていいか」
「言ってくれ」
「怖い」とピカトが言った。
「全部が怖い。シンカが信用できるかどうかも怖い。企業が黙っているかどうかも怖い。スカイラッシュのコースを飛べるかどうかも怖い。オーバードライブを使うことになるかもしれないことが、特に怖い」
「それで」
「反対したくない」
ジールは黙った。
「反対する理由は全部ある。でも――」
ピカトは、コンテナの天井を見上げた。
「あなたが走りたいのを、私は二年間見てた。スラムレースで一位になる時の顔を見てた。オーバードライブを作った時から、ずっと思ってた。この先があるとすれば、どこかで使う日が来るって」
「使う日が、これか」
「わからない。でも、違う気がしない」
ピカトは膝を抱えた。
「私も行く。スカイラッシュに。整備士として」
「行けるか?」
「外部枠の関係者として認められるかどうか、確認しないとわからない。でも、私が行かなければ、あのスラスターは正常に動かない。あなたの体に合わせた機材は、私しか整備できない。それを理由にする」
ジールはピカトを見た。
十七歳の整備士。
違法改造の天才。
ジールのスラスターを、二年かけて世界に一つしかない推進装置に変えた人間。
「一緒に決めよう」とピカトが言った。
「三日あるんでしょ」
「ある」
「三日で考える。二人で」
ジールは頷いた。
コンテナの外で、アンダートークの夜が始まる音がした。
いつもの音だ。機械の唸り。遠くの笑い声。配管を流れる液体の音。
この音の中で育った。
この音が、自分の場所の音だ。
それが変わるかもしれない。
変わることが怖くない、とは言えない。
でも、止められない感覚が、体の底にある。
ジールは棚のスラスターを見た。
オーバードライブ機構付きのカスタム品。
二年間、使われていない。
いつか使える日が来るかもしれない。
ピカトが二年前に言った言葉の意味が、今になってわかった気がした。




