第17話 子ぎつねランは、家出中 1
ことりが小守寮に入った日、子ぎつねランは家出した。
天代と手天の一族は、双方、由緒正しい化け狐の一族である。
天代の一族は、西の山に。手天一族は、東の山で暮らしていた。
行き来は頻繁で仲も大変良く、奉公屋とも深い繋がりがあった。
天代の次女、天代 鸞は、まだ子供の化け狐だが、下界に棲むどの狐よりも美しかった。
毛並みは真っ白で、尻尾と耳が銀色だった。
笑うとエクボができて、表情も愛くるしい。一族の人気者である。
手天の嫡男カティ(正式名は、手天 華帝)も、ゾッコンである。
しかし、ランの嫁入りが決まった。その相手が、大妖怪の息子ことりだった。
「わたし、いやだよ。結婚なんて、絶対にいや!」
妹の想いを応援して、小菊も渋った。
「お母さま、私も反対です。ランは、お屋敷から一歩も外に出たことのない、世間知らずの本物の箱入り狐です。それに、まだ十歳です。私と三つしか違いません。ことりさんも、十一歳です。こんな馬鹿げた結納話って、あるかしら」
いくら二匹が嘆いても、まことに無情。
「大化阿様の命ですよ」
この一言で片付けられた。そう言われては逆らえない。
下界の化け狐たちを束ねる長、大化阿様の命は絶対である。そこで、ランは家出を決意した。
「何が起きても帰らない。結婚なんてしたくない!」
日が昇る前に、こっそり屋敷を抜け出した。
逃げ込む先は、隠居した嵐山さまの棲む大蛇山。
薄暗い山道を下くだり、松林を駆け抜けて、ランは町を目指した。
二度、三度つまづいたが、心を躍らせて走った。
初めてのことで、息が弾んで苦しくなった。
そして、生まれて初めて、町の空気を吸ったのだ。
日の出前の町は静かで、人気も少なかったが、それでもランは驚いた。
「うわああ、人間の匂いが充満してる。それに、色んなおうちがある」
ランは、あっちこっちに目がいった。
妖怪のことだけでなく、人間のことも全く何も知らなかったので、高層ビルを見て驚いた。
「わああ、高いおうち!階段は、どのくらいあるのかな」
パチンコ店の前を通ると、ランは顔をしかめて耳をふさいだ。
「何てやかましいおうち!近所迷惑!」
ガラス張りの喫茶店の前を通る時は、ちらっと横目で自分の姿を確認した。
「ふふん、ばっちり」
ランは大満足した。
一年前、ランは小菊の部屋へそろりと忍び込んで、小学生向けファッション雑誌を開いたのだ。
表紙は、赤とピンクの花模様で縁取られ、赤い髪を三つ編みにした女の子が、ピンクと青い小さなリボンを頭に付けて、白い歯を見せて笑っていた。
それを捲ると、お団子頭の女の子が、笑顔で立っていた。
服は、身頃とスカートが一続きになっていた。
そして、袖口の白いレースが、ランの目を引いた。
自分の毛と同じで、ふわふわに見えた。
実際に、ふわっと膨らんでいた。
裾も波うつようで、布地は上品な水色だった。
「かわいい」
ランは、そのワンピースに釘付けになって、他のページは見ずに閉じた。
『いつか着てみたい。髪の毛は尻尾と同じ銀色で、短い方がいいけど。変化の練習してみようかな』
その夢が今日叶ったのだ。
ランは、スキップしたいのを、ぐっと我慢して歩いた。
誰がどう見ても、人間の女の子だ。
ランは、初めて地下鉄に乗った。しかし、幸先は悪かった。
そもそも、方向が逆である。ランの方向音痴は昔から。
人の道は、どうしてこうも複雑なのか。
「一番出口から出れば、後は、ここの通りを下がっていくだけだから。迷わずにすむよ」
背の高い駅員さんは、きりっとした顔つきで、身なりもピシッとしていて、いかにも賢そうに見えた。
親切で、地図まで引っ張りだして教えてくれたのだ。
でも、きっと三番出口が正解だった。
「人を見掛けで判断してはいけません。酷い目に遭いますよ」
母さん狐の教えは本当だった。ランは心底、後悔した。
もう一人の太っちょの、年をとった駅員さんに教えて貰えば良かったのだ。
「赤は、渡っちゃダメなんでしょ?」
ランは気付いてなかったが、押しボタンは壊れていた。
「これ、いつ青になるのかな」
地下へ入る前、ランは道を渡る人をちゃんと観察したのだ。
人間たちは、なぜか立ち止まって何かを待っていた。
それが「信号機」だと知らなかったが、青色の光を確認してから渡っていた。
「分かった!青を待てばいいのね!」
ランが一番出口から出て、数十メートル歩いた先に、赤信号が待っていた。
ランは立ち止まって、ふと左を向くと、赤い押しボタンが電柱に付いていた。
「これを押すのかな」
ランの持ち物は、小さな赤い手さげカバンだけだった。
中には、手天の嫡男カティから貰った、手天家の特殊な製法で固めた飴玉が四つ。
天代の特製チョコレートが三つ。
水筒は入れ忘れ、お弁当も持たず、着替えも持参していない。
「どうしよう。青にならない………」
気付かぬ間に日は昇って、風は吹かない。
むしむし、じめじめする暑さが始まりかけていた。
ランは一歩下がって、きょろきょろ見渡したが、誰も通らない。
肩を落している間に、青に変わっていた。
「あ、渡らなきゃ!」
横断歩道は長かった。
ランが慌てて飛び出した瞬間、ぶわわっと風が鳴いた。
そして、シャーアアというタイヤの滑る音が、すぐ近くで聞こえた。
赤い車が突っ込んできたのだ。気付いた時には遅かった。
「わっあっ!」
ランは、ぱっと狐に戻って難を逃れたが、運悪く車の上に着地してしまった。
それも、運転席の真上に。
「絶対に、人間の頭上に乗ってはいけません」
母狐の言い付けを、この時ばかりは護れなかった。
「あなたは、『過去に通じる能力』を持っているのですから。帽子の上でもいけません、屋根の上でもいけません。傘の上でもダメですよ。下手を打てば、こちらへ戻って来られなくなりますからね」
こうして、子ぎつねランの、とんでもない一日が始まったのだ。




