人から殺されそうになるということ
胸糞悪い話がある。
ショックをうける可能性が高い。
とくに『公平世界仮説(=世界はこんな感じ)』といった思いがつよい人は読まないで。
興味本位で読むのは止めたほうがいい。
覚悟して読んでほしい。
私は人から殺されそうになったことが2回ある。
1回目は顔見知りの人。
2回目は母の再婚相手。
顔見知りの人は、幼い私を抱えてプールの深い所まで連れていき、そのまま手を離して陸地に戻ってしまった。
水底を蹴り、水面に顔を出そうとしても、顔はほとんど出ず、波によって幼い身体は陸地に戻れないばかりか、もっと深い所に引き込まれていく。
顔見知りの人を探したけれど、水面が目元にくるから水以外なにも見えない。
監視員の人が助けてくれなければ、私はそのまま死んでいたと思う。気がついたときには、ベッドで横になっていたから。
母の再婚相手は、幼い私のみぞおちに膝蹴りを加えた。
呼吸ができなくなり、私が倒れると再婚相手は、さらに蹴りを入れてきた。
傍観していたパーソナリティ障害者の母が止めに入り、私の名前を呼ぶが、呼吸ができないために声が出せない。
数日後。
私の骨盤にはヒビが入っている事が分かった。
母が止めに入らなければ、私は死んでいただろう。
これらのエピソードはフェイクではない。
私が体験した事実だ。
人から殺されそうになる経験はトラウマになる。
場合によっては、廃人のようになる人もいるだろう。
私はそもそもの生まれが悪く、悪い経験に耐性ができていたようで、この件に関してはトラウマを抱えてはいない。
ぶっちゃけ、この経験が不幸なのか実感が湧いていない。不幸は人それぞれだからだ。
暴力の延長線上に死や殺人がある。
暴力が実行される世界で「殺されそうになる」というのは、驚くことでも、ショックをうけることでもなく、至極当たり前の出来事だ。
この経験を不幸と呼べば、不幸なのだろうが、生まれた環境が、始めから不幸に満ちた世界であったから、私の幸不幸の基準は低くなり、むしろ、小さな幸せを感じやすくなっているように感じる。
――と言うと、自分を不幸だと感じている一部の人間は傷つき、公平世界仮説で生きている人間はエラーを起こすかもしれないが、データや物語ではないリアルとは、こんなふうに理解できないものだ。
だから、もっとリアルで想像を超えた話をする。
◇
少年院に入っていたとき、私は『性犯罪被害にあうということ』というノンフィクションを読んだ。
この本の著者は強姦の被害者であるわけだが、表紙に顔を出し、自身の経験やその後について詳細に執筆している。
この様子は、一般的な「凶悪な性犯罪を受けた人間は自殺する。あるいは、人生から脱落する」といった物語性を求める『公平世界仮説』を叩き割るリアルな人間模様だ。
――そして、性犯罪を犯した少年がその本の表紙でオナニーをしている、というところまでが、本に込められた思いが報われないリアルな世界だ。
私を不幸だと思うならば、それは別に構わないのだが、リアルな世界も面白いものだから、たまには厚手のカーテンをめくって、見てあげてね。
世界は、解釈次第だよ。
【あとがき】
少年院には、犯罪被害者や加害者、家庭裁判所の調査官が執筆した本が置かれていたが、その意図は、自身の罪について考えてほしい、というものだと思う。
しかし、それもまた「当事者たちの話を読んで、自分の罪を自覚して更生する」という公平世界仮説だと私は感じる。
性犯罪者は、他人を道具として消費した。
少年院には、異性という道具が存在しない。
本の表紙に、異性が写っている。
その表紙を、道具として消費する。
これは驚くことでもなんでもなく、必然ではないだろうか。
皮肉なことだが、少年を監督する立場にある者たちが、『性犯罪被害をうけた者』という概念を、性犯罪を犯した少年たちに、差し出している構図が私には見える。
それは、「当事者の状況を知り、自身の罪と向き合う」という筋書きによるものであり、リアルを無視したものだと感じる。
逆に言えば、リアルな世界が自分の想像を超えてくるならば、自身が深く傷つき、自殺を考えていたとしても、その先にとんでもない幸せが待っているかもしれない。
自分が想像する悪い物語を歩んでいく必要は、全くないと思う。




