私のような人間が「感想欄を閉じる」ということ
ちょっと、荒いかも(´・ω・`)
私は感想欄を閉じている。人と交流することを断ち切っているため、完全な自己責任で、自身の考えを発展させなければならない状況にある。
これはつまり、私はいつでも『裸の王様』になりえると言うことだ。
◇
私は自分が考えたこと――最近では『“いま”は無いのでは?』といった独特なエッセイを書いている。
そんな独特なエッセイを書いているからこそ、自分なりの考えを表現するために、私は具体的な話を使う。
だから、間違いや勘違い、あるいは、自身の言葉に振り回されてしまっているところがたくさんあると思う。
私は抽象的なことを考える癖があるからこそ、具体的なことを話したい。それが自分と同じような人間の居場所になる、とも思っているから。
具体を語ることは、正確な知識やそれなりの言語能力が必要なわけだが、抽象やマクロ視点と比べると「得られる情報は多いが、相対的に間違いや勘違いが起きやすい」といったメリットとデメリットがある。
たとえば、抽象的な「発達障害は困りごとが多い」といった言葉は、得られる情報が少ないかわりに、広い範囲で正しく、ツッコミが起きづらい。
一方で、具体的な「 僕は発達障害だけど、カードゲームが好き。けど、ルールやカードの効果で頭がこんがらがってプレイできない。だから、アプリのカードゲームは自分が苦手なことを自動的にやってくれるから助かってる 」といった言葉は情報量が多く、この人の認識という狭い範囲では正しく、ツッコミが起きやすい。
この場合のツッコミ(あるいは、難癖)としては、
・発達障害であることと、カードゲームの好き嫌いは相関が認められていません。
・「ルールやカードの効果」“で”、頭がこんがらがってプレイできないのですか。
・「自分が苦手なことを自動的にやってくれるから助かってる」←これは、逃げでは?
といった、個人の具体体験を統計的視点で抽象的に考えようとするものや、目の前の語られた物の理由と結果に厳密性を求める半抽象的なもの、あるいは、自身の過去や現状を投影させるために、相手の主張の一部を抽象化したものが考えられる。
つまり、具体的な言葉は、情報が多いからこそ、相対的に間違いやツッコミが起きやすい。そのため、語る人間のリスクが多く、扱われにくい。
その一方で、抽象的な言葉は情報が少なく、ほとんど正しく、間違えにくい。そして、そういった言葉たちは、それを扱う人間を、無条件で神の座に配置してしまう作用もあるため、リスクが少なく、扱いやすいものとして、好まれる。
この「具体と抽象」、2つの性質差が、誰かの居場所を奪うと同時に、抽象を扱う人間の虚無感や孤独感を強める要因になっていると、私は危機感をおぼえている。
◇
私はこれからも具体を語る。
感想欄を閉じたままで。
『裸の王様』に成っていたとしても、その王様の何かに惹きつけられ、刺激をもらった人間が、また何かを生み出すかもしれない。
あるいは、自分の体験の理由が分からず、座った椅子の輪郭すら見えない暗闇の中で、自分の涙も見えない人間の居場所に、私の具体が成れるかもしれない。
だから私は、これからも具体を話す。
統計的な抽象なども悪いものではない。
それは扱う人間がよく知っているはずだ。
ただ、抽象では、変わった個人の体験を測れないことがあるという、抽象の現実化問題を私は言っている。




