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彼女の「周りが合わせるべき」という考え



本文にある「敬蔑(けいべつ)」は、誤字ではなく造語です。<敬っているのにバカにしている二面性>を表しています。




 私の彼女は、付き合った当初から「私はすごいのだから、周りが私に合わせるべき」という考えを持っていた。



 母親から育児放棄された彼女は、祖父から可愛がられた。しかしそれは、事後の責任を持たない極めて愛玩的な愛の向けられ方だったと私は見ている。


彼女が何か言えば、祖父は「はい、はい(苦笑)」とその指示に従い、彼女が他人の物を何度盗んできてもまったく怒らなかった。


ゆえに彼女は、「自分が世界の中心である」という勘違いをおこした。



 彼女は「すごい私に周りが合わせるべき」と言う。それに加え、人間関係も『上か?下か?』で考えていた。

 

私は彼女に「すごい人が周りの人に合わせるんじゃないの?」と聞いた。


すると彼女は、「すごい人は、すごいんだから周りがそれに合わせるべき」と言った。




 私は1人ぼっちの彼女に友達を作りたかった。しかし、そんな自己中心的な考え方では、これからも友達なんて作れない。


だから彼女に、エリザベス女王の人々に対する振る舞いや皇族のエピソードを話した。


そして、「人からすごい人と敬われている人は身分や立場があるからではなく、その心が敬われている」という『精神的な貴族性』についても話した。



 その具体的なエピソードとして。


 ある人は、自分の母が病に伏せ、病院へ入院したときに、「病院に泊まり込んで看病をしたい」と申し出をした。


 しかし、父の説得によって断念した。


 だから、母が読みたいと言っていた本を音読し、それを録音したテープを母のもとへ届けていた。



 この話は、元皇族である黒田清子(くろださやこ)さんの話であるが、「周囲が私に合わせるべき」といった様子は見られない。


むしろ、周囲の状況や事情を理解し、そこに自分が合わせに行っているように見える。



 このエピソードを知ったあなたは、黒田清子さんから、清らかさといった『凄み』を感じるのではないだろうか。


その凄みこそが、人の心から『尊敬』を引き出すものであり、「周囲が私に合わせろ」という強引な引き出し方で得た尊敬は、施された『空っぽの敬蔑(けいべつ)』でしかない。



 彼女はエリザベス女王の動画をたくさん見た。

 そして「凄い私が周りに合わせてやるか」と言い、不思議と、人を見下す癖も徐々に無くなった。


 おそらく、エリザベス女王のように「偉い人」が、その凄さに甘えずに生きている姿は、自己中心的に生きてきた彼女にとって、かなり印象的だったのだろう。





 『生まれつき、才能や身分の保障を持つ人間』は、それらの特徴が、自分の努力で得たものではなく、先祖や両親からの『贈り物』であるという視点を持っていたほうがいいと私は思う。


その贈り物が、自分のルーツ(=遺伝、環境)から借りている『もの』であることを自覚しなければ、人から敬われることはないと、私は経験則から学んだ。


それを自覚することができなければ、「この子は凄い」と周りから持ち上げられてきた生歴と、現実や社会から与えられる『空っぽの敬意』というズレによって自分の心が永遠に満たされない。



 「なにを言ってるんだコイツ?」

 

 ――と思う人間もいるだろうが、私は人に好かれるコツの話をしている。


 彼女もそうだが、人間は人に好かれたがる。


 しかし彼女は、何をやっても上手くいかず、ずっと1人ぼっちだった。なぜなら、『すごい私』という自己中心的な考えが言動の根底にあったからだ。



 私は彼女と付き合うとき、複数の先輩から頭がおかしくなったように言われ、「本当に付き合うの??」と心配された。


このエピソードは、彼女を知る先輩たちが、彼女のことを「本物のヤバい奴」と認定していたからこそ起きている。



 いま。

 彼女は後悔している。

 時間が戻ることはないからだ。


 彼女が祖父から向けられた愛情は、「可哀想な孫」に向けられた特権的な借り物に過ぎなかった。


 友達づくりのコツを今頃知ったところで、それを「あのとき」に使うことはできない。

 


 あなたがどうかは知らないが、有名な人間や優れた人間という型に、無理やりハマらなくてもいいと私は思う。





【あとがき】


 実際、彼女が人に合わせるようになると、後悔は残っているが、人を見下す癖は無くなり、感情の揺れも落ち着いた。


これは『すごい自分』というイメージを保つエネルギーを補充するの、「見下し」という装置を必要としなくなったからだと私は考えている。


 人は幼いときに、人の好き嫌いや優先順位はあれど、「見下し」という名の装置は持っていなかったはずだ。


つまり、その装置は人生のどこかでくっついてきた歪なものの可能性が高く、自分の気質によるものではない。



 「見下し」という装置を動かすためには、上下を決めるための判定基準を設定する必要があるが、人の性として自身が有利になる基準を設定してしまう。


その性を考えてみると、『見下す』という行為とは、「人によって、見下しの基準が異なる歪なもの」として考える事ができる。


そうすると、その歪さは、近代人間コミュニティのその内に広く根を張っていることが考えられる。


きっと、見下す人の上にもまた、『見下す人』が連綿と連なっているのだと私は思う。



 それってさ。

 ウロボロスの輪みたいで、美しいね。

 積み上がった『見下す人』たちの頂上には、いったい何が待っているのだろうね。


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