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『教育』とはなんなのか?






 私は以前、「人間とドーナツは形が一緒⋯⋯?」という思いつきを調べているときに、数学の教授が『教育』について語っているコラムにたどり着いた。


名前と大学名は忘れてしまったが、それでもコラムにあった「教育とは、次の階段を用意することなのかな」といった話は、ずっと心に残ってる。



 私はいま、境界知能の彼女を育てている。この表現は、私と彼女の関係性のほんの一部しか表していないが、それでも私は「大人である彼女を育てている」という状況にある。


だから、『教育』については多少なりとも考えてきたつもりだ。



◇

 私の家系は武士の家系である。いまはもう見る影もないほどに落ちぶれている。武士であることに誇りを持っていた曽祖父が亡くなってしまったからだ。


 曽祖父は、私の家系で最後の武士だった。


 曽祖父は積極的に人助けを行っていたようで、葬式には500人くらいの参列者が駆けつけてくれた。


 その一方で、曽祖父の子供たちはまったく人を助けず、曽祖父が残してくれたものをただ消費し、自分を大切にする事と自分“だけ”を大切にすることを混同した人生を歩んでいる。


それだけではまだ何かが足りないのか、曽祖父が愛し、最後まで感謝していた妻を揶揄(やゆ)のネタにし、「あの人(=曽祖父の妻)は車に轢かれて死んだよ。」という悪趣味な嘘を頻繁につく、屑人間もいる。


屑人間は言う、「あの人は私に優しくしてくれた大好きな人」と。



 私はそうした屑人間の発生要因に、外部の人間であった私の「祖父」が関係していると思っている。


 家系内における教育(あるいは考え方)は、先祖から子孫へ引き継がれていくものだと私は思っている。


曽祖父が人助けをしていたのは、おそらく自身の両親や祖父母から受けた何らかの教育や姿の影響であり、それが曽祖父を武士として存在させていた。


しかし、自身の娘と外部の人間(=私の祖父)が結婚したことにより、引き継がれるはずだったその『教育』は、歪な人間である祖父によって破棄されてしまったのだと私は思う。



 私の祖父は『鎌で手を切った話』を例に、相手の立場になって「事」が考えられない気質がある。しかし、それではうまく生きていけないために、曽祖父の「人助け」や「威厳」といった性質の“表面だけ”を真似た。


その結果、私の母はパーソナリティ障害になってしまい、曽祖父の意志を終わらせてしまった。


それでも祖父は、上機嫌に「曽祖父には頭が上がらない」と言っている。



◇

 私はそういった家系の堕落から、「『誰か』や『いい例』の表面を撫でただけの教育は失敗する」という気づきを得た。


 実際、私は境界知能である彼女と接するとき、彼女を『境界知能』として扱っていた時期がある。


 しかし、それは完全に間違っていた。


 私は彼女が何かを失敗すると、彼女が抱える「処理速度の遅さ」が原因だと考えた。しかし実際の原因はそれだけではなく、未熟児で産まれたゆえの指の湾曲や、顎の小ささによる睡眠時無呼吸症候群による日中の眠気といった、『境界知能』という一言では説明できないものが多くあった。


つまり、私が彼女を“境界知能”として扱ったために、彼女にはただ辛い思いをさせるだけで、彼女の日常や人生が上向きに成長することは決してなかった。



 いまでは、彼女のしたい事に対し、次の階段を用意するようにしている。それが良かったのか、彼女はかなり前向きな成長をしている。


つまり、「教育とは階段を用意すること」という教授の話は、私も実感している。



◇

 だがこれには問題がある。


 「なぜ教育をしている当事者は、教育において、相手へ階段を用意できないのか?」という問題である。


 この「階段」とは、塾や本、博物館や親の実体験による話、あるいは経験、体験、愛情、交友関係、心理学上の安全基地といったものなどが含まれているわけだが、それらを用意しない人間はたくさんいる。


それが金銭的なものであったり、地理的、あるいは時間的に難しい場合は、もちろん無理だ。


してあげたいのに、それができない無念さは私も経験している。



ただ、「できるのにしない人間」というのも存在する。



それは私の祖父母や両親のような、自分“だけ”を大切にしている人間たちのことだ。


 彼らは時間的な余裕や金銭的な余裕があったとしても、それを『教育』のために使わない。全てが自分のためにあると考えている。


子供のように、育てなければいけない人間が現れた以上、自身の人生は自分だけのものではなくなった、という状態変化が彼らには理解ができない。


それはなぜか?


おそらく、生物学的本能としての『自己保存(=自分の利が最優先)』が強すぎるためである、と私は考えている。


彼らは、自己保存欲求が強すぎるからこそ、育てる対象を「敵」や「邪魔者」として見てしまう。



 人や植物、あるいはプログラムなどを含む『何か』を育てたことのある人間ならば分かると思うが、教育には“自身の損”が付きものである。


この「損」は、時間や金銭、精神的な苦痛や行く先の不安といった目に見えないものも含まれる。


そういった「損(=コスト)」を払わない教育は成り立たないといっても過言ではない。



 私の家系は堕落した。それは、曽祖父が残してくれた人望や遺産のような光の下(もと)で、自身の損を極端に嫌う自己保存欲求の強い人間が多く育ったからである。


つまり教育とは、「払うべきコストを支払い、次の階段を用意すること」と言える。




【あとがき】


 自己保存欲求が強すぎる人間は、なぜそうした欲求を持っているのだろう?


 全ての人に当てはまるわけではないのだろうが、『アダルトチルドレン』のような、心が子供のままであることが関係しているのかもしれない。


 では、「心が子供のままである」という状況を作り出しているものは何かと言われたら、それは上の世代による「教育コストの未払い」によるものだと考えられる。


 その上の世代による「教育コストの未払い」は、そのまた上の世代や、ある時点までさかのぼると、第二次世界大戦のような悲惨な歴史によるものだと私は思う。


 つまり、人的な問題もあるだろうが、歴史に残るような大きな転換期もまた、教育のコストを払えない人間を作り出している。


 私は戦争が嫌いなのだが、それは人の命が奪われるという端的な話ではなく、戦争の影響により「教育コストが払えない人間」が増え、戦争を終えたあとも国が百年単位で腐る、と考えているためだ。


国が発展するためには、家族単位での教育が不可欠であり、その効率を落としてしまう戦争は国にとって良くない。


もしやむを得ず戦争をするならば、そうした視点による算出が必須だと思う。



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