『医師』という職業に期待される神秘性について。
スピリチュアルな話ではないです。
私は前回、医療のコミュニケーション不全について書いたわけだが、そもそも、「なぜかみ合わない返答をしてしまうと、病院の信頼が落ちてしまうのか?」という話である。
一般的なコミュニケーションとして、かみ合わない会話などのコミュニケーション不全はよくあることだ。
今日や今までを振り返ってほしいのだが、「微妙に伝わってないな⋯」「うーん、そうじゃないけど⋯⋯」といった経験はないだろうか。
もしあったとして、「コイツは話がかみ合いにくいから、信用できない。」といった『信用』の話にまで発展してしまうことはあっただろうか?
私は経験がない。
日常のコミュニケーションにおいて、「話が噛み合わない事」と「信頼できる事」は、(理由は分からないが)分けて考えている節がある。
しかし、相手が病院のような『医療』だと、そうはいかない。
こちらのコミュニケーションが伝わらない様子は、「この病院は信用できない」という評価に直結する。
これは不思議なことだ。
私はこの現象の理由に【『医師』という職業が持つ神秘性】が関係しているのではないかと感じる。
◇
私たちは、医師という職業とそれに就いている人間たちについてあまり知らない。
「頭が良い人間が就く職業」や「努力が必要な職業」ということは知っているが、目の前にいる医師が、言葉にしない領域で何を考えていて、どんな判断基準を持っているのか、患者側の私たちは知りようがない。
だから、「医師は頭がいいから、自分のことをきちんと診てくれている」といったように、医師という職業に神秘性を見いだすことで、自身の不信感を拭っているのではないかと、私は思う。
そうした考えから、コミュニケーション不全のような“俗っぽい言動”は、医師という職業が持つ神秘性をはぎ取ってしまい、神秘性に隠れていた医師を、俗っぽく、失敗しがちな私たちと同じ立ち位置に引きずり下ろす。
そうすると、神秘性を失った医師はただの人間であるため、理解できる範疇に収まり、医療という高尚な職業には相応しくない、という判断がくだされる。
それが、コミュニケーション不全を見て「この病院は信頼できない」という感覚に直結するのではないかと思う。
◇
ここで少し面白い話がある。
私は以前、ある病院のレビューで「患者が居なくなったあとも、患者のことを考えてくれている医師がいる。」と書いた事がある。
それが、その病院で経験した事実であるからだ。
すると、そのレビューには「いいね」といった共感の反応がたくさん付いた。他のレビューよりも圧倒的な共感の数だ。
そして、その病院は予約が取れない病院になった。
紛らわしい書き方だが、これは私のレビューによって病院に患者が押し寄せている、といった傲慢、あるいは自慢話ではない。
だが、「いいね」という反応の大きさを考えると、私のレビューを見て、その病院に好感をもった人間が多数いるというのは、十分に考えられる話ではある。
では、【なぜ人々はその病院のレビューに好感を持ったのか?】という話になるが、それはおそらく「居なくなったあとも患者のことを考えてくれている」という第三者のレビューが、医師の神秘性に実体を与え、患者の不安をぬぐって安心感を作り出したからだと私は思う。
つまり、こうした例からも、患者は医師に対して、自身の理想や想像に応えてくれる『神秘性』を期待しているのではないかと私は思う。
※思い出したかのように忠告するが、私のエッセイは、何かを考えるためのヒントや材料にするのが適切な付き合い方だと思う。
【あとがき】
ちなみにだが⋯⋯その病院のレビューも削除した。
病院のHPを見る限り、キャパオーバーにより二診制(2人の医師で患者を捌く)にしたが、それでも間に合わないほどに医療が逼迫されているという話だったからだ。
正直、私のレビューが影響しているとはまったく思っていない。
――が、投稿してやや短い期間で他のレビューを凌駕するほどの多数のいいねが付いたこと、そして病院の逼迫していることについて、無関心であってもいいという話にはならない。
細かく言えば、近隣には同じ診療科が何件もありながらも、そこの病院だけが逼迫していること、私がレビューを書く前は、ガラガラだったという判断材料もある。
したがって、万が一でも、私の身勝手な「いい病院であってほしい」という願いから書いたレビューが病院に患者を呼び、そこで働く人間たちの過労を作り出しているならば、それは医療の質の低下や家庭内の不和、言い換えれば『社会のストレス』を増やしかねない。
病院からすれば、文字通りの『良い迷惑』である。
だから、私はレビューを削除した。
削除を実行したという事は、自身の傲慢な心を行動によって確定させたのと同義であるため、いまも強い苦しみがある。
少し、自分をめんどくさいなと思う。




