錆びた鎌で手のひらを切った祖父の話。
私の祖父は変わっている。
詳しく知りたい方は、『蜂の巣状の棚、落ちた紙くず、ナメクジの家』というエッセイを読んでみると、不思議で面白いと思う。
祖父は森に入っていった。
幼い私もそれについて行く。
地面が見えないほどに草は生い茂り、針先に水滴が掴まった栗たちが無数に落ちている。
少し歩くと切り株が現れた。
切り株の上には錆びた鎌が置かれている。
祖父は誰の落とし物かも分からない鎌を拾い、ポケットに突っ込んでいたボロ布でその鎌の刃先を拭った。
すると、祖父の太い腕毛に赤い線が入ってゆくのが見えた。
血だ。
祖父の腕から血が滴り落ちている。
私は上着に付いているヒモの先をイジりながら、「じいちゃん!!血!!!」と叫んだ。
祖父は私を睨みつけながら、「ばあさんに言うんじゃないぞ。」と言った。
◇
祖父は森を歩いてゆく。
たまに鎌を握っては草を刈り取ろうとしている。
錆びているから、まったく切れない。
私はそれを見ながら、顔をしかめていた。
祖父がどこから血を流しているのか知っていたからだ。
祖父の右手、ちょうど鎌を握っている手のひらに、人差し指の付け根から生命線をなぞったような大きな傷があった。
そこから大量の血が流れている。
私は祖父に「帰ろう」と言おうと思った。
木々の葉っぱが傘にならないほどに、雨が強くなっていたからだ。
家を出てからいじり続けていたヒモの先は、雨でグジュグジュになっている。
――そんなことより、祖父が死んでしまわないか、とても心配だった。
当時の私は幼いとは言え、コウモリを触ったあとに、誰に言われることもなく手洗いをする衛生意識の高い子供だった。
だから、錆びた鎌のような汚い物で手を切った祖父は死ぬんじゃないかと思っていた。
◇
家に帰る間、私は色の変わった水たまりと砂利を踏みしめて帰った。
前を歩く祖父のTシャツは雨に濡れ、グレーだった色が黒っぽくなっている。
私はその背中を見ていると、心配する自分と祖父の間に感情の途絶を感じた。
雨が降っても、自分を気にかけてくれる様子がないからだ。
私は、安心できる家に向かっているはずなのに不穏な感情を感じていた。
祖父を心配しているのに、祖父は睨みつけながら「言うな」と言った。
言わないことで祖父は喜ぶ。
でも、祖父の職業を考えると、手のひらの傷は必ず祖母にバレる。
それなら――すぐに言うべきだ――と思った。
けれど、言わないほうが祖父は喜ぶだろうし、とも思った。
幼心には難しすぎた問題が、グルグルと頭の中を回っていた。
◇
家に着くと、祖母は犬を撫でながら私の母と談笑していた。
私はその光景を見ると、反射的に「ばあちゃん!!じいちゃんが鎌で手切った!!」と言ってしまった。
祖母は手を止め、不思議な顔で私を見ている。
先に家に着いていた祖父はお風呂場から現れるなり、「よけいなことを言いやがって。」と私を睨みつけた。
祖父の手には新品のタオルが握られており、血がにじんでいた。
祖母は祖父に振り返り、「どうした〜?」と事態が飲み込めていない様子だった。
私はドアノブを握って外に出た。
「――間違ったことはしていない!」
そう思っていたとしても、ほんの少しだけ辛い光景だったからだ。
靴跡がついた玄関で体操座りをする。
そして、震える身体で深呼吸をする。
吐いた白い息は、なんの形にもならず、背景の雨の中へと消えていった。




