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私の勘違いかもしれない、『研究・論文』を見る溝のある目。



なんか一生懸命に話した。


たぶん、問題提起の段階で「検証されていない」と言われ、困った経験をしたからだと思う。





 私はだいぶ前から、「研究・論文を知り得た一部の人間の目には溝がある」ということを考えていた。


これはどういうことかと率直に言えば、一部の人間は、研究や論文が権威あるものであり、「研究されたこと=正しいこと」いう認識はあるものの、その情報や研究の意義、あるいは『研究・論文』が何のためにあるのか分かっていない、という話である。


 これは、その人間が恥ずかしいと晒し上げているのではなく、【論文や研究などの正しさをジャッジしている自分の姿に酔うことは、誤った情報の流布を手伝ってしまうことになる】という問題提起だ。


論文や研究を、歪んだ溝のある目で見ている人間がいる。



◇

 研究や論文は、科学を発展させるための礎である。


だから、くだらない事や広く知られていることなどでも研究し、その成果を文章(=論文)にして公開することで、後世、あるいは、現在の『科学』を成長させるための礎を作ろうとする。


つまり論文とは、同じ事柄を研究している現在や未来の仲間に向けられた情報の発信が目的である。


一般的な、「論文は正解を証明するもの」というイメージは誤りだ。



 研究には流れがある。大まかに言えば、「①問題提起」「②仮説の立脚」「③仮説の検証」「④検証結果のまとめ」「⑤以下、②〜④をループ」といった流れだ。


『Nature』という論文掲載サイトを見てもらえればすぐに分かることだが、論文の終盤では「さらなる検証が必要」「その可能性を示(・)唆(・)す(・)る(・)ものである」といった「この研究はその後に続く」といった言葉がよく並んでいる。


普遍的な正解を主張している論文などありはしない。


なぜなら論文とは、科学を発展させるための礎であり、正解を証明するものではないからだ。



◇

 世の中には、「問題提起」と「検証結果」の段階の違いが分からない、あるいは意図的に混同している目に溝を持ったタイプがいる。


このタイプの人間は、一般の人よりは少しだけアカデミックに詳しく、もっともらしいジャッジを下したふりができる。


その様子が、「論文や研究などの正しいことをジャッジしている自分に酔ってしまい、誤った情報を流布してしまう。」という問題を引き起こす。



 私の素直な言葉で表現させてもらえば、SNS等で論文をジャッジする仕草や、「論文がある」と言ってアカデミック風な言動をアピールすることは、自身の有能さを周囲へアピールし、他者との差別化や優位性を確立しようとしているように見え、血の滲むような研究をしている研究者が出した、『命の成果物』ともいえる論文に対して、極めて失礼な態度をとっていると感じる。


もちろん、『議論』が発生しているならばその限りではないが、そういった「アカデミック風な人間」というのは、研究者より一般の人間に近い言葉を話すために、アカデミックに詳しくない人間たちにとっては、「この人は正しいことを言っている」と思えてしまう。


それは、研究や論文が目指している「暫定としての正しい情報の流布」とは真逆の「誤った情報の流布」を引き起こしてしまう。



 提示された情報への批判は、言論の自由として大切なことである。


しかし、研究や論文意義の誤読や矮小化による誤った情報の流布を手伝うことは、言論の自由として「自由に言葉を交わせる」という部分においては正しいが、『研究・論文の存在意義』という面では明確な誤りだ。



――いや、問題提起すらも「検証がされていない」と批判するその様子は、言論の自由の綱領として誤っている。


なぜなら、問題提起の段階で検証結果を求めることは、赤子が産声をあげた瞬間から「老衰死」という果ての結果を求めているのと同義であり、アカデミックな批判としてまったくズレている。


もっと分かりやすく言えば、マラソンの準備をしている人間に、「それはゴールした結果が無いから無意味な準備だ」と言っているようなものである。


それは、言論の自由が目指している「社会の発展」に繋がる芽を摘む行為であり、やはり言論の自由としても、有意義な批判とは言えない。



◇

 私のこのエッセイは批判が目的ではない。


 私が知ったことや考えたこと、素人として論文を読む中で学んだ、詐欺師を見破る、あるいは大切な人を守るために役立っている視点を共有することが目的だ。


何かの役に立てば嬉しい。


もし「論文がある」と言う人が現れたとき、論文を読むことが難しければ、その論文のURLをもらい、AIに「このURLの論文を要約してください。」と言ってみると、詐欺師に騙されにくくなると思う。


もっといえば、「相手は〇〇とうたっていますが、この論文(相手が貼ったURL)は、その商品の機能を示す根拠として十分ですか?必ず論文を読み、その主張の正当性を厳密に精査してください。」といったことをAIに聞けばいいと思うよ。





【そうだ!】


 以前、トーマス・ロックリーという人物が「弥助は侍だった」という論文を書いて問題になっていたのだが、歴史学の研究者としてその手法に誤りがあると、私は思って見ていた。


 科学などは仮説を立てて検証をする。


 しかし、歴史学でそれを当然のようにしてしまうと、検証をするための物品や情報が見つかっていなかったりするために、空白の情報を想像で埋めることになる。


そうすると、積み上げられてきた歴史学とは食い合う、突飛な主張ができあがる。


 歴史は品物(=刀、それを明確に示す日記)が存在しているからこそ、妄想や夢ではなく“歴史”なのであり、品物がないことや極微細な情報を根拠にした主張は、妄想やロマンでしかない。


歴史学で仮説を立てたとしても、それは品物と品物の間にある空白を埋めるものであり、史実として大きな主張はできないものの、後の研究をスムーズに進める礎となる。


無いものを根拠にしている突飛な妄想とは訳が違う。


つまり、歴史学において、品物の存在が無いからとあり合わせの情報を繋ぎ合わせて出てきた可能性を、「史実」というのは明確な誤りである。


歴史は、品物があって初めて史実になる。


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