「育てる」ということを考えるきっかけとなった出来事。
700文字くらい
2026/09/20 3:52 少し追記した。
私は「育てる」という行為について考える。
なぜなら、育てる立場にある人間として不適格な人間を何人も見てきて、強い疑問を抱いて生きてきたからだ。
◇
私が見てきた不適格な人間を箇条書きにする。本当に不適格であるかは、あなたがジャッジしてほしい。
・「死にたい」という生徒に、「それなら地雷原を歩きに行って、その命を少しでも役立てたほうがいい。」と言い放った女性教師。
・不登校児が登校してきたとき、その子がミスをすると顔を殴りつけ「お前がいるとクラスの輪が乱れる」と激怒した男性教師。
・腰パンをしているからと、その生徒に走り寄り、背後から飛び蹴りを加える男性教師。
・学校現場を、教育免許を習得するための実務経験の場としか見れていない、無責任な発言を繰り返す非常勤教員。
・「スカートを上げすぎている」と言い、女子生徒の背後から手を回し、スカートを下げるふりをして、腕で胸を触る教師。
・「家族だから」と言い、問題の根本的な解決をせず、被害者に、さらなる我慢を強いる身内。
・子供の親への愛情と発言権の弱さを利用し、自身が子供に苦労し、懸命に頑張っている良き母であるというイメージを周囲に広める母親。
・「子供のため」と言いながら、自身の人生にキラキラした輝きを得るために子供たちに学校へ行くことを止めさせ、労働力として駆り出すイベント主催者。
・保護司の立場を利用して、非行少年と繋がりを作り、グレーな宗教勧誘をする老人。
いま例にあげた「育てる立場にある人間たち」を、私は教育者として不適格であると感じていた。
だから私は「育てる」という行為を考える。
なぜなら、弱い立場にある人間を虐げた夜、ぐっすりと寝息を立てているであろう彼らに「NO」を突きつけたいからである。
◇追記
少し勘違いをさせてしまう文章だったかもしれないから追記する。
私が「NO」と突きつけたい不適格者は、その行動を繰り返している、あるいは、極最低限のモラルすら守れない人間のことを言う。
生徒が「死にたい」と言ったとき、それをどう解釈しても良いと思うのだが、「地雷原で死ねばいい」という言葉は、教師が最も言ってはいけない最低な言葉だと私は思う。
生徒に飛び蹴りをした教師は、生徒から舐められないために、その生徒を狙った節がある。
その教師は、飛び蹴りによって倒れた生徒に悪態をつきながらも、自身の怒っている表情を周囲の生徒に見せるような角度にしていたことから、私はその教師に、自分の立場を守るためには他人に危害を加えることを良しとする狡猾さを感じた。
一般的な子育てや部下を育ている人間は、不調による変な言動がたま起きたとしても、そのような振る舞いを繰り返さない。なぜなら、不調が解消されれば、正常な判断力が戻ってくるからだ。
例にあげた人間たちの言動は、彼らの「生き方」に根付いたものだと私は思う。
彼らには、そもそも、それが悪い行いである、という意識がまったく無いように感じた。




