『育てる』という行為における、進化キャンセル。
ゲーム『ポケモン』には、進化キャンセルというものがある。これはポケモンが進化する画面でBボタンを押すと、ポケモンがビックリして進化をやめるというものだ。
私はこうした『進化キャンセル』は、育児や部下の育成、信頼関係の育成などの『育てる』という行為においても起きていると感じている。
これを読むあなたは、自己表現ができているだろうか?
好きな物を「好き」と言えているだろうか?
本当の自分を表現しようとすると、正反対なことを言ってしまったり、涙があふれたりしないだろうか?
私はその理由に『進化キャンセル』が関係していると思っている。
◇
私はいま、境界知能の彼女を育てている。
「育てている」と言うと、何だか傲慢な気もするが⋯⋯両親に育児を放棄されて『家族』を体験できなかった彼女は愛着障害(人間不信,対人関係を維持する困難など)になった。
だから私は、彼女の愛着障害を癒し、彼女が楽しい人生を送れるように、彼女の母親であり、父親であるように努めている。
母と父を演じるとき、それぞれに役割があるわけだが一貫していることが1つある。
それは「彼女の自己表現を馬鹿にしない」ということだ。
◇
彼女はいま、少女漫画を集めている。
彼女は戸惑いながら漫画を選ぶが、私は何も気にしない。BLだろうがなんだろうが、それが彼女の自己表現であるため、踏みにじらない。
もし私が、彼女が持ってきた漫画に「うわ⋯⋯BLとか読むの?」と言ったり、うんざりした表情を浮かべるならば、人にバカにされてきた彼女は自己表現をしなくなるだろう。
それらの言動は、サクラの新芽を暴力的に引きちぎる行為や、泣いている赤子の口にタオルを詰める愚行と共通するものがあり、それは「自己表現への否定」と「未来の可能性の否定」という点だ。
この考え方は、一般的な軽口を叩き合う関係性を好む人間からすると、基準が高く、驚く人もいるかもしれないが、私が言っているのは、「子供や新人などの自我が不安定な人間に対して、安易な否定はするべきではない」ということだ。
「死ね」や「きしょい」と言い合う関係があってもいい、ただ、“心が不安定になりやすい人間”には言うべきではない、といった話をしている。
もしそういった人間(子供や新人、傷ついた人間など)が自己表現をしたときに、「趣味がきしょい」等を言った場合、それは反応として「進化キャンセル」を引き起こす可能性が高い。
育てる立場にある人間が、軽々しく表現していいものではないと思う。
◇
進化キャンセルをくらった人間は、自己表現がし辛く、それによって生きづらさを抱えることになる。
なぜなら、自己表現をしたタイミングでの安易な否定は、予告なしにいきなり腹部を殴りつけられたような強いショックと痛み、その後のトラウマを引き起こすからである。
たとえば、自身が胸に秘めた想いや好みを表現したとき、両親などの自分を育てる立場にある人間から、「やっても意味がないのに。」と言われたり、「似合ってない」、「人にバカにされるよ」と言われたら、大抵の人間は、それ以降、その自己表現を控えるようになる。
あるいは、会社に入社してきた新入社員が、知りうる範囲で何かの提案や質問をしたとき、上層部しか知り得ない情報を根拠に、「そんなことも分からないのか」と叱責されると、その新入社員は無力感や恥じらいから、停滞的な働き方をするようになる。
私の彼女の場合、歌うことが好きなのだが、姉から「あぁ、今のスピッツ?下手すぎて分からなかった」と言われ、『歌う』という行為に強い引っかかりを覚えるようになった。
◇
こうした育てる側にある人間からの安易な否定によって自己表現ができなくなる、という現象は、心身のバランスを崩すきっかけになる。
だから、育てる立場にある人間は、安易な否定を自重する必要があると私は思う。
少なくとも、心身が成長途中にある子供にするべきことではない。
大人のようにゆっくりと成長する者と、子供のようにハイスピードな成長をしている者では、安易な否定によって発生する歪みの深刻さは、後者のほうがより大きくなる。
いうなれば、時速10kmで走る車と時速100kmの車が急ハンドルを行なったとき、スピードを出している車のほうがより深刻な被害を起こすのは明白である。
つまり、ハイスピードで成長する子供に安易な否定を行うと、それによってできた歪みも、より早いスピードで成長するということだ。
【あとがき】
私は「育てる」という行為において、育てる対象の自己表現を安易に否定することが、その対象に何のメリットを与えるのかが、よく分からない。
――とは言え、『進化キャンセル』は、育てる側が払う心身や金銭コストを最小限に抑える行為である、ということは理解している。
これは私の持論だが、誰かを育てるという行為は、育てる側にある人間が、何らかのコストを支払わなければ成り立たないものである。
子供が何かを欲しがれば金銭の支払いが発生するし、「一緒に〇〇をやりたいです。」「手伝いますよ。」と何かしらの提案をされ、それを実行する場合、育てる側の人間には心的コストの支払いが発生する。
だから、場面にもよるのだろうが「進化キャンセル」によって相手の表現頻度をコントロールし、育てる側である自身が支払うコストを減らそうとする動きが発生するのは、生存本能的にはあり得る反応である。
もちろん「進化キャンセル」が社会で生きていく上で不利になる特性や気質を矯正する役割があることは十分に承知している。
ただ、その頻度が「10/10」であるならば、それは安易な否定による自身の幸福を高める行為である、と私は受け取る。
それは、「育てる」という立場にありながら、生物的な本能として、「自身の幸福を高める行為に執心している」という行いであるため、不安定な子供などを教育する者として、不適切な振る舞いであると私は思う。
これは一見すると道徳的な話であるから、人に関心がない人間や「弱肉強食」を信条とする人間は気にもとめない話だ。
しかし、不安定な人間にわざわざ刺激を加え、いつ爆発するかも分からない、自分宛の爆弾を作る必要がないという主張であれば、共感してもらえるはずだ。
仮に世の中が真に弱肉強食であるならば、誰かを虐げるのは善である。しかし、虐げた結果、弱者と思っていた相手が包丁等を持ち出してくる事は十分に考えられる。
そうすると、法や倫理の保護のもとで「強者」として振る舞っていた自分は途端に弱者に置き換わり、本来の生物としての『弱肉強食』に挑まなければならない。
相手は何らかの武器を扱うが、自身はそれを躱し、法によってやりすぎと判断されない範囲で制圧する必要がある。
――そう、もしそういったことが現実となった場合、戦う相手は武器を振り回す相手ではない。
自身を守ってくれていた「法律」である。
その場面で対応を間違えれば、肉体的な死、あるいは社会的な死が待っている。
こういった説明であれば、人に興味がない、あるいは弱肉強食を信条とする人間も、安易な否定がもつリスクの高さに共感してもらえると私は思う。
自身の安易な否定が、未来の自分の殺害を予約するなんて、まったくわりに合わない。




