『合理』という言葉を考える(ちょっと怖め⋯?)
私は『合理性』あるいは、『合理的』という言葉が持っている、最適解や正解というイメージに疑問を抱いている。
なぜなら、人は寿命によって知りうる知識に絶対的な限界があり、かつその限界によって想像力にも限界があると思っているからだ。
そのため、日常で飛び交う「合理」と冠した結論があったとしても、その結論の筋道には必ず綻びが生じているのではないかと感じる。
私からすると、「合理」とは“現時点で知覚しうる情報から、もっとも正解に近いもの”といった印象がある。
◇
私は神ではないから、対面している相手が自身の事情を、言葉や文字にしてくれなければ、相手の状況に考慮した結論を出す自信はない。
知らない物事に配慮はできない。
しかし、人間が扱う言葉や文字という利器には、脳内にあるものを言葉や文字といった物理に変換する際の「変換ミス」が付きまとう。
人から何かを言われた後、「あー⋯⋯ああ言えばよかった。」と後悔をした経験は、おそらく大抵の人間が持っている。
この後悔は、思いや考えを言葉に変換する作業の道中で、変換作業をしている脳へ、感情やストレスといった高い負荷が加わるために起こる。
つまり、「ああ言えばよかった。」という後悔は、その場で脳が高い負荷を受けていたという証拠であり、自身の能力が根本的に低いということではない、という可能性の提示でもある。
こういった日常を例に、人間は“自身の胸の内を語りきらない”というのが常である。
こうした習性を人間が持ち、知りうる情報にも限界がある以上、一般的な日常や対人コミュニケーションで交わされる「合理」という言葉は、厳密に言えば成り立たない。
あくまでその結論は、知りうる情報で考えた「暫定合理」に過ぎない。当然、私のこのエッセイも暫定合理である。
――「まぁ⋯⋯だから何なのだ?」と思う人もいるだろうが、話はまだ続く。
いまから具体的な例を使って、合理という言葉が持つ「最適解」といった性質たちが、対人コミュニケーションを阻害しているという話をする。
◇
ある夫婦において、夫は妻に「合理的な選択だろう。何が嫌なんだ?」と言う。
それを聞いた妻は、「嫌なものは嫌だから。」と答える。
2人の間には、「合理的な正解」と「その合理が嫌だ」と言い合う問答が発生した。
すると夫は、質問掲示板で「合理的な結論に妻が納得してくれません。どうすればいいのでしょうか?」と聞いた。
※ここから解説
この例は、夫による「(個人的な)合理的な正解」という押し付けをされた妻が、自身の情報をほとんど開示せず、夫の合理に「理由を述べないNO」を何度も突きつけている、という構図である。
夫からすると、自分や妻の事情を考慮した合理的な結論を出しているから、妻がなぜ「NO」と言うのか分からない。
一方、妻は自身の事情を言葉にすることが苦手なのか、「嫌なものは嫌だから。」と言い、夫に自身の胸の内を想像する負荷をかける。
夫は妻の気持ちをさらに想像しようとするが、『合理的な結論』を出している以上、妻の事情は十分に考えていると思っている。
そのため、「妻への考慮が不足している可能性」に気づけない。
むしろ、妻の合理とは対極にある(とされる)感情的な反応を見て、自身が出した「合理的な結論」に絶対の確信を強める。
なぜなら、この夫は、人間が扱う言葉を過信し過ぎており、「自身や相手が言葉を操れていない可能性がある」という視点が抜けているからである。
抜けているからこそ、「自分は相手の全てが分かっている」という傲慢と「合理的なのになぜ!?」という認識のギャップが夫の喉を締め上げている。
夫は質問掲示板で、「合理的な結論に妻が納得してくれません。」と質問している。
この質問は、合理という言葉が持つ『最適解』というイメージが絶対化し、「“最適解に”妻が納得してくれない」と言っているわけだが、夫婦関係という狭い関係において、相手が激しく反対している時点でその結論は合理性を失っている。
しかし「合理=絶対的な正解」と信仰している夫はそれに気づかない。
これは、『合理』という言葉が持つ最適解等のイメージに引っ張られ、合理という言葉に含まれている不完全性を見落とした結果、夫婦の間にすれ違いが現れているという話である。
夫は合理が持つ「合理が分からない相手の反論を潰す暴力性」を盲信している。「合理的」という言葉を使えば、相手を服従させられると勘違いしている。
そのため妻には「合理的な選択」と言い、掲示板でも「合理的な結論」と“合理”を乱用する。
そうした合理を乱用している姿は、合理とは懸け離れた厚い信仰のように見える。
『合理』が持つ魔力が対人関係を破壊している。
◇
「合理」とは、アカデミックな響きがある権威的な言葉である。合理的と言えば、誤った結論もそれなりに見える。
しかし、上の例で解説したように、日常で扱う『合理』には必ず穴がある。人は未来を知る方法を持たない上に、言葉や文字で胸の内を語れないのは常であるからだ。
その視点を持たないまま「合理」という言葉を何らかの関係に持ち出せば、その関係には亀裂が生じるだろう。
とくに、相手が『合理性』をまったく知らない場合、情報や学んだものの違いによって、その関係には情報による格差が起きやすい。
そのため、そのような大きな情報格差に配慮をしていない合理的結論には、合理性があるとは言えない、と私は思う。
【あとがき】
――とは言え、日常で合理という言葉を扱う人間に、自身の人生を丸投げするような、例の妻にも問題がある。
これは憶測に過ぎないが、「察してほしい」というコミュニケーションスタイルを使う人間から見ると、「合理的だ」と言う人間は寄生先として都合がいいのだろう。
「察してほしい」という仕草は、相手に「自分の人生を決めてほしい」と言っているようなものであり、自分の人生に極めて受動的である。
そのため、察してほしい人間は、「合理的だ」という言葉を使う人間のリーダー性や正しい雰囲気に惹かれ、自分の人生を決めてもらおうとする。
その人間に従っていれば、自分で結論を出すよりは正しいだろうし、悪い結果になれば、合理的な結論を出した人間に責任が発生するために、それを批判すればいい。
こうした寄生生物と宿主のような関係では、関係維持に対する責任の非対称性があり、一般的な関係よりもモラハラが発生しやすいのだろうと私は思う。
夫婦関係、恋愛関係において、相手に自分の人生を丸投げするということは、思わぬ結末を引き起こしやすいと私は思うのだが、一度きりの人生だからこそ、人はそれを気にしないのだろうと感じる。
以前、「夫が首を吊った」という話を読んで、思ったことがある。
夫が首を吊った日の朝方、夫は虚ろな目でトーストをかじっていた。
妻はそれを見て「様子が変だな」と感じた。
トーストを食べ終えた夫は洗面台へ向かい、しばらく鏡を見ていた。
顔を洗い終えた夫は、リビングでネクタイを締めながらテレビを見ていたらしい。
妻はそれらを「(やっぱりいつもと様子が違うな)」と感じたが、いつものように「いってらっしゃい」も言わなかった。
お昼過ぎに電話が鳴った。
「夫が首を吊った」という連絡だった。
妻は悲しんだ。
のちに、あの日、夫が鏡やテレビを見ていたのは「もうこの世界から居なくなるからだったのでは⋯?」と後悔した。
◇
私はこの話に疑問がある。
「なぜ再三の異変を感じていながら、声すらかけなかったのか?」ということである。
厳しい言い方をすると、悲しんでいる妻は不運な人間ではなく、夫婦生活を維持するコストの大半を夫に丸投げしていた加害者のように見える。
夫婦は、お互いの人生に責任を持つ共同体であり、相手に異変が起きているのにも関わらず、何の言動もしないのは相手の命への加害である、と私は思う。
もちろん、この結論も暫定合理に過ぎない。
「合理」という言葉が持つ魔力。
「察して」という仕草が持つ寄生性。
そして、「あらゆる結論が暫定合理」とするならば、確かなものは限りなく少ない、という不安定な世界を感じてもらえたなら嬉しい。
それはきっと、傲慢さを抑える鎖になるはずだ。




