幸不幸の裏返り
私はいろんなことをエッセイにする。いつも読んでくれている人なら分かると思うけど、私はいわゆる「不幸な人間」だ。
しかし、私自身は自分を不幸と思っていない。
これは強がりでも何でも無く、あれが私の当たり前であり、平均、つまり「普通」だからだ。
人間が当たり前のこと――たとえば「みんなが暗黙の了解で、自分の粗相を大概に我慢してくれていること」などを自覚できず、それをおかしな状況とすら思えないように、私もまた、変なことが当たり前の日常だからこそ、それを相対評価するという発想がなく、内的かつ主観的な評価としての『普通』が、そこにある。
逆に、私のエッセイを読んで、「この人は不幸だ」と思える人間は、あらかじめ幸せを経験できているからこそ、他人の不幸を測る基準を知っていると言える。
それが「悪い」といっているわけではない。
それによって、幸不幸の基準が私より高く、不幸に嘆き、幸せを感じにくいという「不幸」が起きている。
それは、幸せを経験したことによる『幸福の不幸』だ。
もう少し具体的に話してみる。
私は、両親が精神疾患持ちである上に、自身が特徴的な人間でもあるため、周囲から理解されずに少年院に入った。
これはつまり、私は一般的な養育環境では育っていないため、自身の命が常に剥き出しであったと言える。
日本の子供は、成人前後で親の保護を離れ、社会へ飛び込んで行くわけだが、親元を離れている以上、その保護はなくなるため、行動の責任と選択の代償を自身で負わなければならない。
それはつまり、保護されていた人間が、自身についていた「保護」が成人で外れてしまっていることに気が付かず、剥き出しの命のまま、私の両親のような人間が働く『社会』というカオスに飛び込むということであり、その無防備な命に、社会を巡回しているストレスという名の『不幸の種』が絡みついてくる。
そして、保護がなくなったからこそ、自身が持っていた幸せは、どんどん目減りし、不幸が増幅されてゆく。
それはまるで、「幸せに生まれたのに、力を蓄えていなかったことによる罰」といった、私が嫌いな『弱肉強食の理』が牙を剥いているようで、守られていた者が社会に食い散らされていく様子は、不幸の顕現だと私は考える
◇
私は「見下し」という行為を問題視している。
上で解説したように、見る角度を変えればいくらでも幸不幸は反転するのに、「見下し」という一方的な思い込みに依存している様子は、自身に百害を引き寄せる。
なんなら、依存性があり、人生に大きな害をもたらすくせに、薬物のように規制されることはないから、薬物より悪質と言える。
誰かを『不幸』と決めつけて見下せば、自身は不幸ではないように感じる。しかし、見下しという行為を強く必要とし、それを常習的に行わなければ生きていけない様子は、明らかに問題がある。
私の彼女は、人を見下して生きてきたわけだが、人生の半分を無駄にし、かなり後悔している。
ありきたりだが、時間は戻らないからだ。
彼女は見下しで自尊心を保っていたわけだが、イラストレーターになるという夢に向かい始めて、自尊心が回復している。
――なんて、いい話でまとめようと思ったけれど、私からすると、他人が見下しの常習性に囚われて、不幸に囚われるなんてどうでもいい。
壁に向かって話している人も。
それがその人の幸せかもしれないからね。
私が口出すことじゃない。
【あとがき】
幸福に生まれた不幸について、もう少し分かりやすい話を思いついた。
成人した時点で、幸福を100持っている人間がいるとする。その人が社会に出ると、『社会』から幸福を奪われ始める。持っていた幸福はどんどん減っていき、「不幸だ」と感じる回数が多くなる。
減っていった幸福を取り戻そうと頑張るが、誰かから与えられていた幸福であるため、取り戻し方や作り方が分からない。
そして、幸せのハウツー本や誰かの体験談を読み漁るが、ハウツーなどを語る当人たちが、「当たり前」とすら思わない状況こそが、その人の幸せを作り出している基盤であったりするために、『幸せ』そのものは言語化されておらず、読み漁ったはずなのに「幸せに近づいた」という実感が湧かない。
そうすると、見ず知らずの誰かの幸せを叩く、誰かの不幸を決めつけるなどによって、知覚できる範囲にいる人間の幸福を減らし、相対的な『偽の幸せ』を作り出すようになる。
そこまで行くと、自分の幸福を奪い去った『社会』と一体化し、他人の言動に反射的に食らいつく、『不幸の種』になってしまう。
一方で、私は始めから幸福を持たなかったために社会に出ても奪われることもなく、回りくどいやり方は省略され、あらかじめ『化け物』、あるいは「無敵の人」として社会に存在している。
その状況に感じる、痛みや苦しみはない。
つまり、誰かが『幸せ』の条件を探さない限り、誰かの幸福を奪うという、クソみたいな循環が破壊されないということだ。
私が言えることとしては、『自分にとっての安心』という羅針盤が、幸せを探す道具になるとしか言えない。




