表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/18

アスペルガー(ASD)と精神医療を考えてみる。


 念のために断りを入れておくが、私はASDの人間に対して好意的な人間である。


この「好意的な人間」とは、ASDに怒らない人間ということではない。私は相手が誰であろうと、失礼な事をされたら怒る。


私の「好意的」とは、

・ASDだからといって馬鹿にしたりしない

・ASD=悪人ではないことを理解している

・ASDが人より劣っているという決めつけを持たない。


こういった“人と関わる上で大切な事を、ASDの人と接するときにも守っている”という意味だ。





 アスペルガー症候群(=自閉症スペクトラムの中のASD)は、対人コミュケーションに難を抱えている。



 私が15年間付き合っている彼女は、境界知能を伴うASDであるわけだが、一般的なASDとは、その症状を作り出しているものに違いがあるような気がする。



 一般的なASDは、脳機能の一部に癖があるが、彼女のような、「境界知能でありながら、処理速度が極端に低いASD」は、その処理速度の低さから、人生で得られる経験値が少なく、ASDの特徴を持つに至っている、といった印象がある。


――とは言え、本人たちが対人コミュニケーションに切迫した難を抱えている以上、帰納法的解決方法(=特定のことに注目して、まとめて対処する)しかないのだろうが、まとめて対処しているからこそ、本質的な解決に至らないのではないかと思う。



 たとえば、ASDは『暗黙の了解』が分からないことが有名だが、私が知る限りでは、一般的なASDは、「暗黙の了解が見えていない」といった様子がある。


私の彼女の場合、処理速度が遅く、暗黙の了解が見えていないというよりは、周囲のコミュニケーションのスピードに付いて行けてないから、「暗黙の了解を学ぶ機会すらない」といった感じがある。



 一般的なASDの人は、病院やコミュニティ内で対人コミュニケーション上の『暗黙の了解』を学び、適応訓練をするようだ。


しかし、彼女は、処理速度の遅さによって場の様子が読めないばかりか、教えられた『暗黙の了解』を思い出すことがない。


彼女に必要なのは、対人関係で使える『便利道具』ではなく、「ゆっくりと対人経験値を培える環境」だ。


それは彼女と過ごした月日で実感した。


丁寧に、一段ずつ登っていくしかない。




 ――それにしても、なぜ精神医療は帰納法的解決方法を取り入れているのだろうか?

 

物理的な病気を診る内科ならまだ分かるが、精神疾患は心を診るため、何が問題の解決に繋がっているのか分からないような気がする。


私は素人だからその内情は分からないが、「精神医学の知識(=DSM-5など)」と「それをカスタマイズする医療者」の間に溝があるのだろうな、と思う。


 

 一部の界隈ではよく言われている話だが、「知識を知っていること」と「その知識を使えること」には、天と地ほどの差がある、ということが関係しているのだろうか。


この話は「転売」を例えにすると分かりやすいと思う。


転売人は「転売は自由経済の一環だ」と主張する。


しかし、自由経済を理想としたアダム・スミスは、「一部の人間による商品の独占」を激しく批判している。


独占が、市場の衰退を招くと考えていたからだ。


アダム・スミスが目指した『自由経済』とは、「公正な取引による経済の発展」だ。


「自由経済=好き放題の無法」を目指したわけではない。スミスの理論からすると、転売は市場を歪め、経済の発展を阻害する、非難される存在でしかない。



 この転売人の様子は、経済についての知識(=概念)を知っているがそれを扱えていない、という構図であり、「知識を知っていること」と「知識を扱えること」には、天と地の差があるという一例である。



 その話を踏まえ、あらためて精神医療の話にもどすが、精神医療に携わる人々は、間違いなく専門家だと思う。


しかし、それはあくまでも、試験の中で知識の保有量と教科書で学んだ断片的な使い方を認められただけで、精神医療の理念や人々が想像している『専門家』として認められたわけではない、と私は感じる。


 彼らのおかげで、助かる人も多くいるのだろうが、医療従事者が、世界から取り残された人々を救わないなら、誰がその人たちを救うのだろうと思う。



 これは誰彼構わず、救えという話ではない。

 常に聖人であれ、尊敬される人間であれ、といった胡散臭いスローガンの話でもない。


 なんなら、めんどくさい日があってもいい。


 ただ、「『目の前で自分に感謝を述べている人間を、自分は本当に救えたのか?』という疑問を持つべきだ」という自戒を含んだ提案だ。


 


【あとがき】


 私は彼女と、絵に描いたような幸せを作りたかった。


 子供がいて、私が家に帰ると彼女と子供が待っている。美味しくないご飯を食べて、家族で動物園に行ったり、遊園地に行ったり――。


 子供が巣立ったあとには、彼女と私はのんびり過ごして、できるなら病気もせずに、彼女が先に死んでほしかった。彼女は私の死に耐えられないから。



 ん〜でも⋯⋯そんな人生は無理そうだなと思う(苦笑)


 彼女の問題を解決するために、一段とばしで階段を上がったり、回り道をしてみたり、回り道をすると見せかけて近道をしたりしたけど、全部上手くいかなかった。


 いや、本当に。


 彼女の意志が乗り気じゃなかったとかもあるけれど、そもそも、約束事を忘れたり、頑張ってる目標を忘れたり、彼女自身が知らないうちに約束が変わってしまったり、どれだけ対策をとっても上手くいかなかった。



 結局、彼女の知能(今だと、16歳くらい?)に合わせたスピードで、人生を歩むしかなかった。


これは絶望的結果ではない。

それをすれば、彼女が確実に成長すると分かったからだ。


 いま、彼女は10代のときに経験できなかった「家族」のやり直しをしている。


 私が彼女の父や母になり、彼女に野菜の切り方を教え、彼女のイラストレーターになるという夢や面白かった少女漫画の話を聞いている。


 内心、かなりきつい。

 キラキラした目で、「イラストレーターに成りたい」という彼女の夢を、助力する力を私は持っていない。


 だから、彼女の目が再び濁る日が来るのではないかと、確定してもいない未来に怯えてる。


 あ、そうか。

 私は彼女が絶望してしまうのが怖いのではなく、自分が作り上げた『元気になった彼女』というトロフィーが崩れるのが怖いのか。


それは、彼女の夢や頑張っている彼女の時間を無視した自分勝手な妄想だ。だから、もう止める。


 そう考えてみると、どれだけやっても消えなかった怯えが収まったのだから、やはり私の精神力は大したものだと思う。


 いつもなら、彼女にエッセイを読んでもらってるけど、このエッセイは見せられないな。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ