第九話「最初の客」
看板を出した翌日、最初の客が来た。
午前中、アオイが薬草液の瓶に蓋をしていると、扉がおそるおそる開いた。
顔を覗かせたのは、十歳くらいの男の子だった。茶色い髪が寝癖でぼさぼさで、膝に泥がついている。
「あの」と男の子は言った。
「ここに腐敗魔法の人がいるって聞いて」
「います。私です」
男の子はアオイをじっと見た。思っていたより普通の人間だったので拍子抜けしている顔だ。
「怖くないの」と男の子は言った。
「私が怖くないかということですか、腐敗魔法が怖くないかということですか」
「両方」
「どちらも怖くないと思います。入りますか」
男の子は少し迷って、入ってきた。名前はリコといって、街の西側に住む農家の息子らしい。
「何か用がありましたか」とアオイは聞いた。
「おばあちゃん、最近ご飯があんまり食べられなくて」
「食欲がないんですね。どんな様子ですか」
「なんか、胃が痛いって言ってる。でもお医者さんに行くお金がなくて」
アオイは棚を見た。薬草液が数本、乾燥薬草がいくつか。ベアにもらったものも含めて、胃の不調に効きそうなものを探した。
川沿いで採ってきた根を煮出した液体がある。あれに消化を助ける野草を加えれば、胃腸薬になりそうだ。
「少し待ってください」
アオイは小鍋に薬草液を入れて、乾燥させたハーブを加えて温めた。腐敗魔法で不要な成分を取り除いて、有効成分だけを残す。冷ましてから小瓶に入れた。
「これを食前に少し飲ませてください。苦いですが、二、三日で楽になると思います」
「いくらですか」とリコは財布を握りしめながら聞いた。
小さな布袋で、中身はあまり多くなさそうだ。
アオイは少し考えた。値段をどうつければいいかわからない。グラウンに来てまだ日が浅く、物の値段の相場がわからない。
「あの、いくらが適切かわからないので、あなたが払える金額で構いません」
「え」リコは少し驚いた顔をした。
「本当にですか」
「本当です。相場がわからないので」
「じゃあ、銅貨二枚でいいですか。それしか持っていなくて」
「それで構いません」
銅貨二枚を受け取った。アオイの還り家で初めての売り上げだった。
リコが帰ってから三十分後、今度は別の客が来た。
四十代の女性で、名前はソニアといった。仕立て屋をやっているらしく、指先に針の跡がある。
「発酵食品を売っていると聞いたんですが」
「まだ準備中で、今日明日には出せないんですが」とアオイは正直に言った。
「そうですか」ソニアは少し残念そうだった。
「実は保存食を作りたくて。冬に向けて野菜を漬けたいんですが、毎年うまくいかなくて」
「どんなふうにうまくいかないんですか」
「途中でカビが出たり、塩辛くなりすぎたり」
アオイは興味が湧いた。漬物の失敗原因は大体決まっている。塩分濃度、温度、空気の遮断、菌のバランス。
「今年の漬け込みはもう始めましたか」
「来週からと始めようと思ってます」
「では来週、漬け込みのときに声をかけてください。一緒にやりながら教えます」
「教えてもらえるんですか」
「はい。料金は漬物が完成したら少し分けてもらえれば」
ソニアは嬉しそうに笑った。
「それは助かります。よろしくお願いします」
夕方、ゴルドが様子を見に来た。
「客は来たか」とゴルドは聞いた。
「二人来ました」
「ほう」ゴルドは棚を見渡した。
「売れたものはあるか」
「薬を一本」
「いくらで売った」
「銅貨二枚です」
ゴルドは天井を仰いだ。
「安すぎる」
「子供の小遣いで買えるくらいの値段がいいかと思って」
「商売なめてるのか」
「なめてはないですが、最初はまず使ってもらうことが大事かと」
ゴルドは長いため息をついた。
「……値付けは俺が手伝ってやる。あんたに任せると店が潰れる」
「ありがとうございます。助かります」
「感謝するなら、もう少し商売のことを考えろ」
アオイは素直に頷いた。確かに値付けは苦手だ。研究者として生きてきたので、お金の感覚が根本的にずれている自覚はある。
ゴルドは棚の薬草液を手に取って、蓋を開けて匂いを嗅いだ。
「これはいくらで売るつもりだった」
「銅貨三枚くらいかと」
「銀貨一枚だ」
「高くないですか」
「街に薬屋はない。ベアのばあさんの薬草屋はあるが、調合はしていない。需要はある」
ゴルドは瓶を棚に戻した。
「あんたは自分の作るものの価値がわかっていない」
アオイは少し考えた。
確かに、価値の判断基準が研究者のままかもしれない。研究者にとって成果の価値は論文の引用数や実験の再現性で測るものであって、お金ではない。
「わかりました。値付けはゴルドさんに任せます」
「最初からそう言え」
ゴルドは仏頂面だったが、悪い気はしていないようだった。
椅子を引いて座って、棚の品を一つ一つ確認し始めた。どうやら本格的に手伝うつもりらしい。
アオイはベアにもらった薬草で作ったお茶を入れた。




