第六十三話「王都の病」後編
ティアが目を覚ましたのは夜中だった。
何かが気になって目が開いた。
うまく言葉にできない感覚だった。腐敗魔法の気配が、遠くで揺れているような感じがした。
アオイの気配だとわかった。
おかしい。
ティアは部屋を出て、作業場に向かった。
扉が少し開いていた。
中に入った瞬間、血の匂いがした。
「アオイさん!!」
床に倒れているアオイが見えて、ティアはすぐに駆け寄った。腹からかなりの量の血が出ていた。
「アオイさん、聞こえますか」
反応がない。
ティアは腐敗魔法を使って傷口を確認した。菌が入り込み始めていた。除去しながら、同時に叫んだ。
「クラウスさん、ヴィンさん、来てください!!」
クラウスとヴィンが駆けつけた。
クラウスは状況を見て顔色が変わった。
「治癒魔法師を呼ぶ」と言ってクラウスは走っていった。
ヴィンが作業場の中を確認したが、人影はなかった。窓が一つ開いていた。
「逃げた。追う」ヴィンは言った。
「待ってください」ティアは言った。
「アオイさんから離れないでほしいです。また来るかもしれないので」
ヴィンは頷き、扉の前に立った。
ティアはアオイの傍に膝をついたまま、腐敗魔法を使い続けた。傷口から入り込んだ菌を除去する。同時に傷の深さを確認する。
深い。臓器に達しているかもしれない。
「アオイさん、聞こえますか…」
反応がなかった。
ティアは手が震えるのを感じた。震えたまま腐敗魔法を使い続けた。
治癒魔法師が来て、マリエルとエルノも目を覚まして駆けつけた。
「アオイさん…」
マリエルの顔が青白かった。
「治療してください」ティアは言った。
「菌は除去しています。傷を塞いでください」
治癒魔法師が傷口に魔法をかけ始めた。
「傷が深いです。臓器への影響がありますので、時間がかかります」
「お願いします」
治癒魔法師が懸命に治癒魔法を使った。傷が少しずつ塞がっていく。ただ出血が多かった。アオイの意識は戻らない。
「傷は塞ぎました。ただ出血量が多すぎます。安静にするしかありません」
「生きていますか…」
「今は生きています。ただ予断を許さない状態です」
「誰がやったんだ!クラウス、わかるか」エルノは低い声で言った。
「逃げました。ただ屋敷に入ってきた経路を調べれば手がかりが掴めます」クラウスは言った。
「今すぐ調べます」
「頼む」エルノは言った。
「絶対に特定する」
アオイを部屋に運んだ。
ティアはほとんど部屋から離れなかった。
夜明けが近づいてきたので、マリエルがティアに声をかけた。
「少し休んでください」
「休めません…腐敗魔法で定期的に傷口を確認しています。菌が残っていないか、また入り込んでいないか」ティアは言った。
「そうですか。何か食べますか」マリエルは言った。
「後で…いただきます」
マリエルはティアの隣に座った。何も言わず、ただそこにいた。
ティアはアオイの手を握っていた。
「起きてください」と小声で言った。
「まだやることがあります。病がまだ収束していません。私一人では対処しきれません」
アオイは動かなかった。
「患者がまだいます。ゴルドさんとベアさんが心配しています。ライナス様も…」
動かなかった。
「私が、困ります」ティアは言った。声が少し震えた。
「帰ってきてください」
一日が経った。
アオイの呼吸は安定しているが、意識は戻らない。
ティアは昼間、患者への対応を続けた。一人で薬を製造して、一人で重篤な患者を診た。
夜になって部屋に戻ると、また傍に座った。
ライナスへの手紙はマリエルが書いた。ゴルドとベアへの手紙はティアが書いた。
書きながら、ティアは泣かなかった。
泣いている暇があったら患者を一人でも多く診ると思っていた。
アオイの意識の中は暗かった。
静かで、痛みはなかった。
ふと声がした。
「久しぶりだね」
アオイは声の方を向いた。
人の形をした何かがいた。顔がはっきり見えない。ただ温かい気配がした。
「…神様ですか?」
「そうだ」と声は言った。
「この世界に転移させた時以来だね」
「そうですね」アオイは言った。
「…死にますか、私」
「それはお前次第だ」神様は言った。
「ただ死ぬには少し早い気がして来た」
「…そうですか」
「お前にはまだやることがある」神様は言った。
「腐敗魔法だけでは足りない場面が、これから増える。だから少し力を足してあげようと思って」
「力を足す…というのは?」
「三つある。一つ目は、菌を生み出す力だ。今まではそこにある菌を感じ取って除去することしかできなかった。これからは自分で菌を生み出せる。アオカビ、乳酸菌、必要な菌を必要なだけ作れる」
「菌を生み出せる…それは薬の製造が大きく変わりますね」
「そうだ。今まで薬草から成分を引き出していたが、直接必要な菌を作れるようになる。より純粋で強い薬が作れる。二つ目は魔力だ。今のお前の魔力は有限で、使いすぎると切れる。これからは切れることがほとんどなくなる。無限とは言わないが、人間の限界をはるかに超えた魔力を持てる」
「今回のような事態に対応できますね」
「そうだ」神様は言った。
「三つ目は、腐敗魔法の感知範囲の拡大だ。今までは触れないと菌を感じ取れなかった。これからは触れなくても離れた場所の菌の状態がわかる。部屋に入っただけで患者の体の中の菌の状態が感知できる」
「診断が格段に早くなりますね」
「そうだ。ただし力が大きくなるということは、それだけ責任も大きくなる。覚悟はあるか」
「あります。やれることをやるだけです」
「それがお前らしいな」神様は少し笑ったような気配がした。
「一つだけ言っておく」
「なんですか」
「お前の周りにいる人間を大切にしろ。力があっても、一人でできることには限界がある」
「わかっています」
「本当にわかっているか」
「わかっています」
「まあいい」神様は言った。
「それとライナスのことだが…」
「ライナス様が何か」
「気づいていないのか…あの男はずっと…」
「何ですか?」
「まあ余計なお世話か…何でもない」
「教えてくれないんですか」
「教えない」神様は言った。
「ではそろそろ戻りなさい。心配している人間がたくさんいる」
暗い場所が少しずつ明るくなっていった。
二日目の夜中だった。
ティアがアオイの傍で目を閉じていた。眠っていたわけではなく、腐敗魔法で定期的にアオイの体の状態を確認していた。
そのとき、何かが変わった。
アオイの体の腐敗魔法の気配が、急に大きくなった。
今まで感じたことのない大きさだった。
ティアは目を開けた。
「アオイさん!!」
アオイの目が開いた。
ティアは一瞬固まった。それから大きな声を出した。
「マリエル様、エルノ様、来てください!!」
マリエルとエルノが駆けつけた。
「意識が戻ったんですか」マリエルは言った。
「戻りました」ティアは言った。
アオイはゆっくりと体を起こそうとした。
「動かないでください」ティアは言った。
「まだ傷が完全に治っていないので」
「そうですね…」
「そうですねじゃないです。二日間意識がなかったんですよ」
「…二日間ですか」
「そうです。心配しました。ゴルドさんとベアさんとライナス様にも手紙を送りました」
「そうですか」
「怒っていいですか」
「どうぞ?」
「じゃあ、怒ります」ティアは言った。
「一人で作業場に残らないでくださいと言いましたよね」
「言ってましたか…?」
「…言ってません。だから言わなかった私も悪いですが、次からは一人にならないでください。夜中は特に!」
「わかりました」
「本当にわかっていますか」
「わかっています」
「信用していますが念のため言います。次に一人で夜中に残っていたら、本当に怒ります」
「わかりました」
マリエルが少し涙をこらえながら言った。
「よかったです。本当によかったです」
「心配をおかけしました」
「とにかくよかったです」
エルノは何も言わなかった。ただ目が赤かった。
翌朝、アオイは少し体を起こした。
体の感覚が違った。
腐敗魔法の感知範囲が広がっている。部屋の中全体の状態が感じ取れる。ティアの体の状態も、マリエルの体の状態も、なんとなくわかる。
魔力が満ちている。今まで感じたことのない充実感だった。
手の平を見た。試しに菌を生み出してみた。
小さなアオカビが手の平に現れた。意図した通りの菌が、意図した量だけ。すぐに除去した。
「何をしているんですか」とティアが言った。
「試していました」
「何を」
「菌を生み出せるか確認していました」
ティアが固まった。
「…今、菌を生み出すと言いましたか」
「そうです」
「どういうことですか?」
アオイは神様との会話を話した。三つの力のこと。
ティアはしばらく黙って聞いていた。
「神様と話したんですか」
「そうです」
「アオイさんらしいですね。神様と話しても淡々としている」
「淡々とはしていないですが」
「十分淡々としています。ただ…」
ティアは少し間を置いた。
「生きていてくれた方がよかったです。力より」
「それは力をもらう前に言ってほしかったですが…」
「死にかけた後に何を言っているんですか…とにかく生きていてよかったです。それだけです」
ティアは呆れた顔で言った。
その日の午後、アオイは体を動かせるようになったので、新しい力を慎重に確かめてみた。
感知範囲の拡大は想像以上だった。廊下を歩くだけで屋敷全体の状態が薄くわかる。
菌を生み出す力も試した。手の平にアオカビを生み出してすぐに除去した。意図した通りに動く。
魔力は満ちている。使っても使っても減る気配がない。
「外に出られますか」とアオイはティアに言った。
「傷は大丈夫ですか」
「動けます」
「わかりました」ティアは言った。
「ただ私がついていきます。一人で動かないでください」
残りの患者を確認しに回った。
新しい感知能力のおかげで、部屋に入っただけで患者の体の状態がわかった。菌が残っているかどうか、どのくらいの量か、どこに集中しているか。
「触れなくてもわかるんですか」とティアは言った。
「わかります」
「すごいですね」
菌の除去は今まで以上に早かった。感知できているので、どこに腐敗魔法を当てればいいかが一目でわかる。触れなくても、少し手を近づけるだけで除去できた。
「早いですね。今まで一時間かかっていたのが、二十分で終わった」ティアは言った。
「感知できているので無駄がないです」
「なるほど」ティアはノートに書いた。
三日後、残りの患者全員を回り終えたので、サラに報告した。
「把握している全患者の菌を除去しました。あとは体が回復するのを待つだけです」
「本当ですか。三日でですか」サラは言った。
「感知範囲が広がったので診断が早くなりました。治療も効率が上がりました」
「亡くなった方は百二十三人でした」サラは静かに言った。
「それ以上増やさずに済みました。アオイさんとティアさんがいなければ、もっと多くの方が亡くなっていたと思います」
「ティアが支えてくれたおかげです」
「私は当たり前のことをしただけです」
「本当にありがとうございました」
その夜、エルノが来た。
「刺客を雇った人間について、少しわかってきました」エルノは言った。
「腐敗魔法の薬が広まって利益を失った薬の取引に関わる貴族が複数います。その中の誰かだと思っています。父も調べています」
「そうですか」
「今回の件は王家にも報告しています。腐敗魔法使いを殺そうとした。重大な犯罪です。必ず特定します」エルノは言った。
「わかりました」アオイは少し間を置いた。
「エルノ様、病が収束したら一度グラウンに帰ります」
「そうですか。ゆっくり休んでください。王家からも後日連絡があると思います。改めて謁見のお話がしたいとのことです」
「謁見ですか」
「今回の功績を正式に認めたいとのことです。ただ今すぐではなく、落ち着いてからということで」エルノは言った。
「アオイさんとティアさん、両方です」
ティアが少し目を丸くした。
「私もですか」
「当然です。二人でやったことですから」エルノは言った。
翌日、ティアと話した。
「グラウンに帰ります。一緒に帰りますか」
ティアはしばらく考えた。
「私は王都に残ります。まだ回復中の患者がいます。薬の供給も続けないといけないので」
「そうですか」
「アオイさんは帰ってください」ティアは言った。
「ゴルドさんとベアさんが心配しています。ライナス様も」
「ティアは一人で大丈夫ですか」
「大丈夫です。マリエル様とエルノ様とサラさんがいます。あとミドリによろしくお伝えください」
「帰りたくなったらいつでも帰ってきてください」
翌朝、グラウンに向けて出発した。
今回はクラウスとヴィンに加えて護衛が二人追加された。
「今回は四人でお送りします」クラウスは言った。
「ありがとうございます」
ティアが馬車の前に来た。
「アオイさん、気を付けてくださいね」
「ありがとう」
「途中で倒れないでください」
「倒れませんよ」
「夜中に一人で動かないでください」
「はい。動きません」
ティアは頷いた。
「ゴルドさんとベアさんによろしく伝えてください」
「伝えます」
「ライナス様にも」
「はい」
「ミドリにも」
ティアが言うことが多いとアオイは思った。
「他にありますか」
「それだけです」ティアは少し笑った。
馬車が動き出した。
ティアが手を振っていた。マリエルも手を振っていた。
アオイは窓から手を振り返した。
王都が遠ざかっていく。
ノートを開いた。
今回のことを全部書こうと思った。病のこと、刺客のこと、神様のこと、新しい力のこと。
書きながら思った。
グラウンに帰ったらライナスに報告に行く。ゴルドとベアに会いに行く。ミドリに会いに行く。
還り家に帰る。
それだけのことが、今はとても大事に思えた。




