第六十二話「王都の病」中編
五日後の昼過ぎ、王都に着いた。
馬車が門を通ったとき、いつもと雰囲気が違った。門番の顔が硬い。街の中に入ると、人通りが極端に少ない。店が軒並み閉まっていて、荷台を引く馬の音だけが響いていた。
「静かですね…静かすぎて怖いです」とティアは小声で言った。
「王都がこんな風になるとは思っていなかったです」クラウスが窓から言った。
「思っていたより深刻みたいですね。街全体が止まっている感じです」
「そうですね」
「気をつけてください」
マリエルの屋敷に着くと、マリエルが出迎えた。いつもより顔が疲れていて、目の下に隈がある。
「アオイさん、ティア、来てくれてありがとうございます」マリエルは言った。
「本当に助かります。状況がかなり深刻で…中で話しましょう」
応接間に通されると、エルノとサラが待っていた。二人とも疲弊した顔をしていた。エルノの目が赤い。
「アオイさん、ティアさん、来てくれてよかったです。正直、限界に近くて…」エルノは言った。
「状況を教えてください」
「今わかっていることを話します。症状は高熱、全身の倦怠感、傷口のない場所からの化膿です。発症から三日以内に対処しないと重篤化して、五日を超えると生存率が大きく下がります。治癒魔法では熱を下げることも化膿を抑えることもできません」サラが疲れた声で言った。
「感染者数は」
「把握しているだけで三百人を超えています。ただ把握できていない感染者がまだいると思います。亡くなった方は八十人以上です」
ティアが息を呑んだ。
「八十人以上」と小声で言った。
「毎日増えています。治癒魔法師も対応しきれていなくて、病に倒れた治癒魔法師も出ています」エルノは言った。
「感染経路は」
「水です」サラは地図を広げた。
「発症している地区を確認すると、共通する井戸がいくつかあります。その井戸の水が汚染されていると思っています」
「菌が井戸に入り込んでいるんですね」アオイは言った。
「そう思っています。ただどの井戸から広まったかがわからなくて」
「確認します」アオイは地図を見た。
「まず感染者が集中している地区の井戸から順番に確認します。感染源を断てば新しい患者が減ります」
「今日から始められますか」エルノは言った。
「今から行きます」
「ありがとうございます」エルノは少し声が潤んだ。
「本当に、ありがとうございます」
サラに案内してもらって、感染者が集中している地区に向かった。
街の中を歩くと、深刻さがよくわかった。
閉まっている家が多い。路地に人が倒れているのが見えた。サラが駆け寄り、運び込む場所を手配した。
「毎日こういう状況ですか」とティアは言った。
「毎日です。追いつかなくて」サラは言った。
ティアは黙った。
感染者が集中している地区の井戸に近づいた瞬間、アオイは気配を感じた。
「菌がいます」
「わかるんですか」とサラは言った。
「この距離でも感じ取れます」アオイは言った。
「かなりの量です」ティアを見た。
「ティアも感じますか」
「近づけばわかります」ティアは井戸に近づいた。
「強い。これだけの菌が入り込んでいれば、使った人間全員が感染するかもしれません」
「すぐに除去します。ティア、一緒にやります。私が奥を担当して、ティアは手前を」
「わかりました」
二人で井戸の縁に手を当て、腐敗魔法を使い始めた。
菌の量が多い。これまで対処した中で一番多かった。奥の方まで深く、複雑に入り込んでいる。
四十分かかった。
「終わりました。この井戸はしばらく使用禁止にしてください」アオイは言った。
「わかりました」
サラはすぐに周辺の住民に声をかけた。
「他の井戸も確認します。地図を見る限り、あと三か所は確認が必要です」
「今日中に全部できますか」
「やります」
その日だけで四か所の井戸を確認した。
三か所に菌が入り込んでいたが、全部除去した。
夕方、屋敷に戻ったとき、ティアの顔が少し青白かった。
「大丈夫ですか」とアオイは言った。
「大丈夫です。ただ少し魔力を使いすぎました」
「今日はここまでにします」
「でもまだ患者が」
「今日はここまでです。魔力切れになっても誰も助けられません。ベアさんに言われました」アオイは言った。
「わかりました。明日また頑張ります」ティアは素直に頷いた。
翌日から患者の治療が始まった。
マリエルの屋敷を拠点にした。広い部屋を作業場にして、薬の製造と患者への直接治療を並行して進めた。
午前中はアオイとティアで薬を大量に製造して、サラと治癒魔法師たちが患者のところに届けて使い方を説明した。
午後は重篤な患者のところに直接行って、腐敗魔法で菌を除去した。
重篤な患者は体の中に菌が深く入り込んでいて、薬だけでは追いつかない。
一人目の患者は三十代の女性だった。四日間高熱が続いていて、意識がぼんやりしている。体の至るところに化膿した箇所がある。
アオイは患者の傍に座って、体に手を当てた。
菌が全身に広がっていた。肺の中にも、腸にも入り込んでいる。かなり進行していた。
「時間がかかりますが、やります」
ゆっくりと腐敗魔法を使い始めた。肺の菌から始めた。丁寧に、少しずつ。傷つけてはいけない部分に気をつけながら。
一時間以上かかった。
患者の体から菌が除去されたので、サラが治癒魔法で体の回復を助けた。
「後は飲み薬を続けてください。二、三日で熱が下がるはずです」アオイは言った。
患者の家族が泣いていた。子供が二人、母親の手を握っていた。
ティアはその様子を見て、少し目を伏せた。
その日だけで重篤な患者を七人診た。
夜、屋敷に戻ったとき、アオイは魔力がかなり減っているのを感じた。
「大丈夫ですか」ティアが言った。
「まだ余裕はあります」
「本当ですか」ティアは少し厳しい目で見た。
「今日七人診て、井戸の除去もして、薬の製造もして」
「今日休めば少しは回復しますし、あと数日は持ちます」
「わかりました」ティアは言った。
「ただ限界の手前で言ってください。私が代わります」
「わかりました」
マリエルが夕食を用意していた。目が赤かった。
「今日だけで七人ですか。屋敷の使用人も二人が発症して…一人が亡くなりました」マリエルは言った。
「そうですか」
「身近でこういうことが起きると…早く収束してほしいです」マリエルは言った。
「やれるだけのことをやります」
三日が経った。
毎日重篤な患者を五人から十人診て、薬は毎朝大量に製造した。ティアは製造を一人でこなしながら、アオイが患者を診るときの補助もした。
街の様子は悪化していた。
感染者が五百人を超え、百人以上が亡くなっていた。食料の流通が滞って、健康な人間も外に出られない状況が続き、街の機能が止まりかけていた。
エルノが夜、報告に来た。
「王家が動いています。騎士団が物資の輸送を担当することになりました。ただ病そのものへの対処はアオイさんたちに頼るしかない状況です」エルノは言った。
「わかりました」
「別の地区でも井戸の汚染が確認されました。ここです」エルノは地図を広げた。
「明日、確認します」
「お願いします」エルノは言った。
「アオイさん、体は大丈夫ですか」
「大丈夫です」
「ティアさんは」
「私も大丈夫です」ティアは言った。
「ただアオイさんの魔力が減ってきています」
「ティア」
「事実なので言います」ティアはアオイを見た。
「明日からの重篤患者の治療は、私も一緒に入ります。二人でやれば効率が上がります」
「ティアの負担が増えます」
「私はまだ余裕があります。一人で抱え込まないでください」
「わかりました」
五日が経った。
新しい感染者の数が少しずつ減ってきた。井戸の除去が効いてきたのかもしれない。
ただ重篤な患者はまだ多い。発症から日数が経った患者が増えてきていた。体力が落ちていて、薬の効きが遅い。
ある家に呼ばれた。
老夫婦が二人とも発症していた。どちらも高齢で、体力がない。発症から六日経っていた。
アオイは夫から治療を始めた。全身に菌が広がっているのと、高齢なので腐敗魔法を使う加減が難しい。正常な組織を傷つけないよう、極限まで慎重に進めた。
二時間近くかかった。
次は妻だった。こちらも状態が悪い。
また二時間近くかかった。
「後は飲み薬を続けてください」アオイは言った。
「ゆっくりですが回復するはずです」
老夫婦の娘が深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。両親を助けていただいて」
「回復を信じてください」
屋敷を出たとき、ティアが言った。
「アオイさん、今日は無理をしすぎました」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃないです」ティアは言った。
「腐敗魔法の流れが細くなっています。私にはわかります」
「もう少しだけ」
「もう少しが続くのが一番危ないです」ティアは言った。
「今日はここで終わりにしましょう。明日に備えてください」
「わかりました」
屋敷に戻りながら、アオイは自分の状態を確認した。ティアの言う通りだった。魔力がかなり減っていた。限界に近い。
七日が経った。
ティアの判断は正しかった。前日に休んだことで、翌日は魔力が少し回復していた。
新しい患者がさらに減ってきた。重篤な患者も少しずつ回復していた。
「光が見えてきました。回復している方が確実に増えています」サラが報告した。
「まだ全員ではないですが…」エルノは言った。
「確実に減っています」
夜遅く、アオイは一人で作業場に残っていた。
翌日の分の薬を用意していた。ティアは先に部屋に戻って、クラウスとヴィンは屋敷の外で見張りをしていた。
作業場の扉が開いた。
使用人が入ってきたと思ったアオイは、声をかけた。
「誰かいますか」
返事がなかった。
振り返ったとき、人影が二つあった。顔を隠している。
腐敗魔法を使おうとしたが、魔力が足りなかった。七日間使い続けた疲労が限界に達していた。
逃げようとしても間に合わず、一人に羽交い締めにされた。
もう一人が近づいてきた。
「腐敗魔法使いがいなくなれば、あの薬も消える。腐敗魔法が認められては困る人間がいる」
「誰に頼まれたんですか」
「知る必要はない」
刃物が見えた。
アオイは抵抗しようとしたが、七日間の疲弊で体が動かなかった。
刃物が腹に入った。
熱い感覚があった。
体が崩れ、床に倒れた。
作業台の上に薬が並んでいる。いつもと同じ景色だった。
意識が遠くなっていく。
ティアが先に部屋に戻っていてよかったと思った。
ゴルドとベアとミドリのことを思った。
ライナスに必ず帰ってくると言ったことを思い出した。
アオイはその場に倒れた。




