第六話「工房を作ろうと思います」
アオイが工房を作ろうと思ったのは、特に大きなきっかけがあったわけではなかった。
ゴルドの醸造所の小屋に住み始めて二週間が経ち、街の人々とも少しずつ顔見知りになってきた頃、ふと思ったのだ。作業場所がないと不便だな、と。
腐敗魔法で発酵を制御するのはできる。でも自分で一から仕込みをしようとすると、道具も材料も場所もない。ゴルドの醸造所を借りることはできるが、毎回お願いするのも気が引ける。
だったら自分で作ればいい。
アオイはそういう思考回路だった。
まずゴルドに相談した。
「工房を作りたいんですが、この街で空いている建物はありますか」
朝食のスープを飲んでいたゴルドは、匙を止めた。
「工房?」
「発酵食品を作ったり、薬を作ったりする場所です。今の小屋だと狭いので」
「……あんた、この街に定住する気か」
「はい。気に入ってるので」
ゴルドはしばらくアオイを見た。それからため息をついた。
「街の外れに古い建物がある。元々は染物屋だったが、十年前に店主が死んで空きっぱなしだ。ガタがきてるが、まぁ…使えるだろ」
「見せてもらえますか」
「……辺境伯様に許可を取る必要があるぞ」
「辺境伯様というのは」
「この街と周辺の土地を治めてる貴族だ。グラウン城に住んでる」
アオイは窓の外を見た。街の北側の小高い丘に石造りの城がある。
「会いに行けますか」
「突然訪ねても、門前払いだ。ただ……」
「ただ?」
「辺境伯様は月に一度、街の広場で直接話を聞く日を設けてる。明後日がその日だ」
「行きます」
ゴルドはまた何か言いたそうな顔をして、黙った。
辺境伯様が姿を見せる日、広場に行くと二十人ほど人が集まっていた。
広場の中央に椅子が置かれていて、そこに男が座っていた。
三十代半ばくらい。濃い茶色の髪に、整った顔立ち。落ち着いた色の上着を着ていて、剣は腰に帯びているが雰囲気は穏やかだ。ただ目が鋭い。
それが辺境伯ライナス・ヴァルトだった。
順番に話を聞いているのを、アオイは列の後ろで待ちながら観察した。農家の水路の問題、商人とのトラブル、隣人との境界線の揉め事。ライナスは一つ一つ丁寧に聞いて、的確に答えていた。
仕事のできる人間だとアオイは思った。
やがてアオイの番が来た。
「名前と用件を」とライナスは言った。
アオイを見て、一瞬白衣に視線が行ったが、表情は変えなかった。
「アオイと申します。街の外れの空き建物を、工房として使わせてもらえないかと思いまして」
「工房? 何を作る」
「発酵食品と薬です。腐敗魔法を使います」
周囲がざわついた。腐敗魔法という言葉への反応だ。ライナスの目がわずかに細くなった。
「腐敗魔法の使い手か。噂になっている」
「街の方々の手伝いを少ししたので……」
「ゴルドの醸造所と、マルタのチーズ屋と、ハンスのパン屋と、ベアの薬草屋だな」
アオイは少し驚いた。把握が早い。
「そうです」
「話は聞いている。評判は悪くない」
ライナスは少し間を置いた。
「忌み魔法の使い手を街に置くことへの反発も、一部にはある」
「それはそうだと思います」
「気にならないのか」
「気にしても仕方ないので」
ライナスはアオイをしばらく見た。
「建物の使用を許可する。ただし条件がある」
「なんでしょう」
「月に一度、城に来て薬を納めること。街の人間に害をなさないこと。それだけだ」
「わかりました」
「家賃は免除する。建物の修繕は自分でやれ」
「ありがとうございます」
アオイが頭を下げると、ライナスは次の住民を呼んだ。話が終わった、ということらしい。
アオイは列を外れながら、ライナスをもう一度だけ見た。次の住民の話を聞きながら、視線だけがちらりとこちらに向いたような気がした。




