第四十四話「森と魔物」
ある朝、薬草を採りにグラウンの外に出た。
還り家の在庫が減ってきていた。特に抗菌作用のある薬草が少なくなっている。ベアに教えてもらった採取場所を順番に回って、そろそろ戻ろうかと思っているところだった。
道の脇に深い森が見えて、アオイは足を止めた。森の入り口近くの草むらに何かがいるのに気づいたからだ。
近づいてみると、大きさは中型犬くらい。緑がかった毛並みで、丸まっている。顔つきが犬とも猫とも違う。鼻が少し長くて、耳が大きい。目は閉じているが、息はしている。
見たことのない生き物だった。
前足に深い傷があり、傷口が赤く腫れている。腫れ方からして、菌が入り込んでいる可能性が高い。
腐敗魔法で傷口を確認するには触れる必要がある。
目は閉じているが、気配には敏感かもしれない。触れた瞬間に噛まれる可能性がある。
アオイはゆっくりと手を伸ばした。
耳がぴくりと動いて、目が開いた。金色の目だった。
アオイとその生き物は数秒、互いを見た。
逃げなかったし、噛みもしなかった。ただアオイを見ていた。
「傷を診てもいいですか」とアオイは言った。
言葉が通じるかどうかはわからない。ただ声のトーンは伝わるかもしれないと思った。
生き物はしばらくアオイを見てから、ゆっくりと目を閉じた。
アオイは前足の傷に触れて、腐敗魔法をゆっくりと使い傷口の菌の状態を確認する。思ったより深い。菌が入り込んでいて、炎症が始まっている。
「菌が入っているので、除去します」
ゆっくりと腐敗魔法を使った。傷口の菌を分解していく。生き物の体が少し強張ったが、逃げなかった。
十分ほどかけて、菌の除去が終わった。傷口の腫れが少し引いている。
荷物から軟膏を取り出して、傷口に塗った。
「これで少し楽になるはずです」
生き物は目を開けてアオイを見て、それから傷口の匂いを嗅いだ。
「薬を塗ったので舐めてはだめですよ」
生き物はアオイを見て、それから前足を引いた。傷口は舐めなかった。
言葉が通じているのかどうかわからなかったが、ただ何か伝わったような気がした。
立ち上がって荷物を持とうとしたとき、鼻を鳴らす音がした。
生き物が立ち上がっていた。前足に体重をかけて、少しよろけたが立っている。
それから森の方を向いて、また鼻を鳴らした。
「傷が完全に治るまで無理しないでください」
生き物はアオイを一度見た。金色の目がまっすぐこちらを向いている。
それからゆっくりと森の中に入っていった。草むらが揺れて、緑色の毛並みが見えなくなった。
アオイはしばらく生き物が向かった方を見ていた。
還り家に戻って、ノートに記録した。
生き物の特徴、傷の状態、使った腐敗魔法の量、軟膏の種類。
書きながら、何と書けばいいか少し迷った。名前がわからない。
緑色の毛並みだったので、とりあえず「ミドリ」と書いた。便宜上の記録用の名前だ。
ベアに話すと、ベアは少し眉を上げた。
「緑がかった毛並みで、金色の目か」
「そうです。耳が大きくて、鼻が少し長めで」
「深い森の方から来たのか」
「森の入り口の近くにいました」
ベアはしばらく考えた。
「深い森には人に近づかない賢い魔物がいると聞いたことがある」とベアは言った。
「それかもしれないが、詳しいことはわからない」
「そうですか」
「触れたのか」
「はい」
「噛まれなかったのか」
「大丈夫でした」
ベアはしばらく黙った。
「お前は不思議な人間だな」
ベアはため息をついた。
「腐敗魔法の気配が、その生き物には脅威として伝わらなかったのかもしれない。腐敗魔法は自然の摂理に近いからな」
「そうなんでしょうか…」
「また会うかもしれないぞ。賢い生き物なら、助けてもらったことを覚えていることもある」
「そうなんですか」
「ただし深い森には近づくなよ。何がいるかわからない」
「気をつけます」
ベアはお茶を飲み干した。
「助けてよかった。傷を放置すれば死んでいたかもしれない」
「たまたま通りかかったので」
「たまたま通りかかって腐敗魔法で菌を除去して軟膏を塗るのは、お前くらいだ」
それから十日ほど経った朝、還り家の前に薬草の束が置いてあった。
見たことのない種類だった。葉の形が特徴的で、匂いを嗅ぐと強い抗菌作用がありそうだとわかった。
辺りを見回したが、誰もいない。
ノートに記録した。どこから来たのかわからないと書いた。
翌朝も、還り家の前に薬草が置いてあった。その翌朝も。三日続いた。毎回、種類が違う。
四日目の朝、薬草を取りに出たとき、何か気配を感じた。
遠くの茂みの中に、金色の目が見えた。すぐにわかった。あのときの生き物だ。
アオイはその方向に向かって言った。
「ありがとうございます。役に立てます」
それからなんとなく付け加えた。
「ミドリ」
ノートの記録で使っていた名前が、自然と口から出た。
茂みが少し揺れた。金色の目が一度まばたきして、消えた。
伝わったのかどうかわからなかった。ただ何かが変わった気がした。うまく言葉にはできないが、遠くの方にかすかな気配を感じた。
気のせいかもしれないとアオイは思った。でもそうでないかもしれないとも思った。
ノートに書き足した。
緑色の毛並み、金色の目、深い森の生き物。コルモ草に似た薬草、他二種類。
ミドリという名前の横に小さく書いた。
毎朝薬草を置いていく。なぜかはわからない。ただそういうことが起きている。
書きながら思った。
この薬草で、新しい薬が作れるかもしれない。




