第四十二話「二度目の王都」
ライナスが用意してくれた馬車は、グラウンの街では見慣れない立派なものだった。
辺境伯の紋章が入っていて、護衛が二人ついている。二人とも三十代くらいの男で、名前はヴィンとクラウスといった。ヴィンは背が高くて無口、クラウスは小柄でよく喋る。
出発の朝、ゴルドが見送りに来た。
「前回より楽な旅になるな」
ゴルドは馬車を眺めた。
「還り家は見ておく」
「ありがとうございます」
「余計なことを言うなよ」
「言いませんよ」
「無事に帰ってこい」
ライナスも城門まで来ていた。
「馬車の乗り心地はどうだ」とライナスは言った。
「まだ乗っていないのでわかりません」
「そうか…」
ライナスは少し間を置いた。
「護衛のヴィンとクラウスに従え。二人はグラウンの衛兵の中でも腕が立つ」
「わかりました」
「白衣は」
「荷物の中です」
「侯爵の前では…」
「着ません」
「よし。無事に帰ってこい」
「はい。ありがとうございます。行ってきます」
馬車に乗ると、確かに馬より楽だった。
座席にクッションがあって、揺れはあるが耐えられる範囲だ。窓から景色が見える。
一日目の宿は、グラウンから東に進んだ街の宿屋だった。
辺境伯の紋章があるので、宿の主人がすぐに部屋を用意してくれた。前回一人で来たときとは全然違う対応だ。
三日目の夜、クラウスが聞いた。
「アオイさんは腐敗魔法の使い手だと聞いていましたが、怖い魔法ではないんですね」
「怖くないです」
「出発前にライナス様から聞いていました。薬を作って、いろんな人を助けていると」
「好きでやっていることなので…」
「ライナス様がそうおっしゃっていたので間違いないと思います」クラウスは言った。
「ライナス様が人を褒めるのは珍しいので」
「そうなんですか」
「滅多に褒めないんですよ」クラウスは続けた。
「でもアオイさんのことは何度か褒めているのを聞いたことがあって」
「そうですか。それは嬉しいですね」
七日目の夕方、王都が見えてきた。
馬車の窓から見ると、前回より落ち着いて眺められた。大きい。人が多い。
「王都は初めてですか」とアオイはヴィンに聞いた。
「二度目です」とヴィンは短く言った。
「私も二度目です」
「存じております。前回は保安組織に拘束されたと聞いています」とヴィンは言った。
「…聞きましたか」
「ライナス様から聞きました。今回は同じことにならないようにとおっしゃっていました」
「余計なことは言わないようにしてください」とクラウスが言った。
「気をつけます」
「お願いします」とクラウスとヴィンが同時に言った。
城門をくぐると、マリエルの使用人が待っていた。
「マリエル様がお待ちです。屋敷にご案内します」と使用人は言った。
「ありがとうございます」
屋敷に着くと、マリエルが出迎えてくれた。
「遠いところから、ようこそお越しくださいました。お疲れではないですか」
「馬車だったので前回より楽でした」
「よかったです。道中は問題ありませんでしたか」
マリエルはアオイを見た。
「問題なかったです。護衛の方がよく喋ってくれたので退屈しませんでした」
「それはよかった」マリエルは護衛の二人を見た。
「ライナス様の護衛の方ですね。遠いところをありがとうございます」
「お役に立てれば幸いです」とヴィンは丁寧に答えた。
「まずお休みください。侯爵様とのお約束は明後日です。明日はゆっくりしていただいて、明後日の朝にドレスに着替えていただければ」
「わかりました」
「ドレスのサイズは合っていましたか」
「ぴったりでした。ありがとうございます」
「よかったです」マリエルは少し微笑んだ。
「今夜は一緒に食事をしましょう。いろいろお話ししたいので」
夕食の席で、マリエルがエルノの話をしてくれた。
「エルノ様は今二十三歳です」とマリエルは言った。
「魔物に切られた傷から菌が入り込んで、高熱が三日続きました。治癒魔法師が傷を塞いでも熱が下がらなくて、侯爵様が大変心配されていて」
「飲み薬が効いてよかったです」
「本当によかったです」マリエルは少し間を置いた。
「侯爵様は最初、腐敗魔法と聞いてたいへん戸惑われていました」
「そうですよね」
「ただ他に手がないということで使っていただいて、翌朝には熱が下がり始めて。侯爵様がどれほど驚かれたか」
「薬がちゃんと効いてよかったです」
「エルノ様は回復されてから、腐敗魔法について調べていらっしゃるそうです。グラウンのことも」
「そうですか」
「明後日、いろいろ聞かれると思います。エルノ様は好奇心が強い方なので…」
「答えられることは答えます」
「よろしくお願いします」
翌日はマリエルの屋敷でゆっくり過ごした。
午前中、アオイは庭に出た。薬草が育っている。前回来たときに確認したものだが、状態がいい。
「庭の薬草、調子がいいですね」とアオイはマリエルに言った。
「先日、庭師に手入れをしてもらいました」
「アオイさんにまた見てもらえればと思って」
「腐敗魔法で確認しましょうか」
「お願いできますか」
アオイは薬草に触れて、腐敗魔法で土壌菌の状態を確認した。
「状態がいいです。ただこの区画だけ土壌菌が少ないですね」
「どうすればいいですか」
「発酵液肥料を撒くといいです。グラウンに戻ったら送ります」
「ありがとうございます」
午後、マリエルと王都の認識を変える話をした。
「エルノ様が協力してくださると心強いですね」とアオイは言った。
「そうですね。エルノ様は若くて影響力はまだ大きくないですが、これから侯爵家を継がれる方です。長い目で見れば大きな力になります」とマリエルは言った。
「侯爵様はどうですか」
「侯爵様は息子の命が助かったことで腐敗魔法への認識が変わりました。ただし完全ではないです」
マリエルは少し考えた。
「実際にアオイさんにお会いすれば、もう少し変わると思います」
「私に会って変わるかどうかわかりませんが」
「変わります。グラウンの方々も最初はみんな怖がっていたけれど、アオイさんに会って変わりましたよね」
「そうですね」
「同じことだと思います」
アオイは少し考えた。
「マリエル様、王都での活動は大変ではないですか」
「大変です。なかなか変わらないので。でも...」
「でも?」
「祖母のことを思うと、やめられないです」
マリエルは静かに言った。
「祖母は腐敗魔法を使えないまま亡くなりました。同じことが繰り返されてほしくないので」
「そうですね」
「アオイさんがグラウンで腐敗魔法を使い続けてくれることが、一番の力になります」
「続けます。グラウンの土がいいので、長くいるつもりです」
「土がいいから、ですか」マリエルは少し笑った。
「それが最初の理由でした」
「今は他の理由もありますか」
「人がいいので」
「そうですね。グラウンの方々も同じように思っていると思います」
翌朝、ドレスに着替えた。
マリエルの侍女が手伝ってくれた。
「綺麗ですよ」と侍女は言った。
「ありがとうございます」
マリエルが来て、アオイを見た。
「とてもお似合いですよ」
「ありがとうございます。マリエル様が選んでくださったので」
「動きやすいですか」
「はい。動きやすいです」
「よかったです」
マリエルは少し真剣な顔をした。
「侯爵様は厳しい方ですが、悪い方ではないです。息子の命を救ってもらったことへの感謝は本物です」
ヴァンドル侯爵の屋敷は王都の中心部に近い場所にあった。
マリエルの屋敷より格段に大きい。門が立派で、衛兵が数人立っている。
馬車が門をくぐると、使用人が出迎えてくれた。
「マリエル・セラン様と還り家のアオイ様ですね。侯爵様がお待ちです」
案内された応接室は広かった。調度品が豪華で、壁に絵画がかかっている。グラウンの城の応接室とは全然違う。
「緊張しますか」とマリエルが小声で聞いた。
「あまりしないです」
マリエルは苦笑した。
扉が開いて、二人の男が入ってきた。
一人は五十代、背が高くて白髪交じりの髪をしている。目が鋭くて、立ち姿が堂々としている。ヴァンドル侯爵だとすぐにわかった。
もう一人は二十代前半、侯爵に似た顔立ちだが目が柔らかい。エルノだろう。
「マリエル・セラン殿、よく来てくれた」と侯爵は言った。それからアオイを見た。
「こちらが還り家のアオイ殿か」
「はい。アオイと申します。このたびはお招きいただきありがとうございます」
「こちらこそ」
侯爵はアオイをじっと見た。値踏みするような目だったが、敵意はない。
「息子の命を救ってもらった。礼を言う」
「薬が役立てて光栄です」
「腐敗魔法で作った薬だと聞いた」
侯爵は少し間を置いた。
「正直に言うと、最初は信じられなかった。忌み魔法と言われているものが息子を救うとは」
「腐敗魔法は忌み魔法ではないです」とアオイは言った。
「発酵と腐敗は紙一重で、菌の性質を利用すれば薬が作れます」
「マリエル殿から聞いていたが、実際に聞くと違うな」侯爵は少し考えた。
「傷口の菌を取り除く薬、あれはどうやって作るんだ」
「アオカビという菌が他の菌の増殖を抑える物質を作ります。それを発酵液と組み合わせて精製しました」
「菌から菌を抑える薬を作るのか」
侯爵は静かに言った。
「それは治癒魔法師には思いつかない発想だ」
「腐敗魔法で菌の状態が感じ取れるので、こういう薬が作れました」
エルノが前に出てきた。
「アオイさん、いろいろ聞いていいですか」とエルノは言った。声が弾んでいる。
「どうぞ」
「腐敗魔法って、菌が全部見えるんですか」
「見えるというより感じ取れる、という感じです」
「種類も分かるんですか」
「だいたいわかります」
「土の中の菌も分かりますか」
「分かります。土壌改良にも使えます」
「傷口の菌だけじゃなくて、農業にも使えるんですね」
エルノは目を輝かせた。
「グラウンでは農業に使っているんですか」
「使っています。農家の方と一緒に土壌改良をしています」
「すごい!父上、腐敗魔法って全然忌み魔法じゃないですよ」
「息子の命が助かった時点でわかっている」
侯爵は静かに言った。
「では王都での認識を変えましょう。僕も協力します」
「お前が言うと軽いな」
「でも本気ですよ」エルノはアオイを見た。
「アオイさん、王都に来るときはまた声をかけてください。案内します」
「ありがとうございます」
「前回拘束されたと聞きましたが」
「はい。街中で腐敗魔法を使ってはいけないと知らず...」
「今回は大丈夫ですよ。父上が話を通してあります」
「ありがとうございます」
話が一段落したとき、侯爵が言った。
「一つお願いがある」
「なんでしょうか」
「あの薬、城で使えるようにしたい。騎士訓練中に魔物の傷から菌が入り込む事故は珍しくない。毎回治癒魔法師が対応しているが、限界がある」
「薬をお届けすることはできます。ただし私が作れる量には限りがあって」
「定期的に送ってもらえるか。報酬は払う」
アオイはマリエルを見た。マリエルが小さく頷いた。
「わかりました。ただし条件があります」
「なんだ」
「腐敗魔法で作った薬だということを、受け取る方々に伝えてください」
侯爵はしばらく黙った。
「王都では忌み魔法という認識が強い。それでも言えということか」
「腐敗魔法の薬だと言ってください。忌み魔法ではないので」
侯爵はアオイを見て、それからエルノを見た。
「わかった。腐敗魔法の薬だと伝える」
「ありがとうございます」
「こちらこそだ」
侯爵は少し間を置いた。
「息子の命を救ってもらった」
「薬を役立ててもらえることが一番のお礼です」
屋敷を出ると、マリエルが言った。
「よかったです」
「そうですか」
「侯爵様が腐敗魔法の薬だと伝えると言ってくださいました。王都での認識が変わる大きな一歩です。本当によかったです。エルノ様がいろいろ聞いてくれたので、むしろ話しやすかったのではないですか」
「話しやすかったです。菌に興味を持ってくれたので」
「菌の話をしていましたね、少し」
「少しだけです」
「エルノ様が楽しそうにしていたので、よかったと思います」
「また聞きたいとおっしゃっていました」
マリエルの屋敷に戻って、アオイはすぐに着替えた。ドレスを丁寧に畳んで、普段着に戻った。
「やはり普段着の方が落ち着きますか」と侍女が笑いながら言った。
「そうですね」
「白衣も着ますか」
「荷物の中にあるので」
「着ますよね」
「着てもいいですか?」
侍女が笑った。
白衣を羽織ると、やはり落ち着いた。ポケットにノートを入れた。
マリエルが来て、アオイの白衣姿を見て少し笑った。
「やはり白衣ですね」
「すみません」
「謝らなくていいです。アオイさんらしくていいと思います」
「ありがとうございます」
窓の外、王都の夕暮れが広がっている。グラウンとは違う空の色だった。




