第三十九話「マリエルがグラウンに来た」
春の終わりに、マリエルから手紙が届いた。
——アオイさん、お元気ですか。王都ではお世話になりました。井戸水の件、その後も問題なく使えています。ありがとうございます。実はグラウンを訪ねてもいいでしょうか。腐敗魔法についてもっと知りたいことがあって。それとマルタさんのハーブチーズも食べてみたくて。ご都合のいい日を教えてください。 追伸 グラウンの辺境伯様にもご挨拶できればと思っています。——
アオイはライナスに手紙を書いた。マリエルが来ること、城に宿泊をお願いできないか、という内容だ。
翌日、ライナスから返事が来た。
——構わない。城の客間を用意する。日程が決まったら知らせてくれ。——
マリエルが来たのは、手紙から二週間後だった。
馬車でグラウンに到着したマリエルは、城門をくぐってすぐに目を丸くした。
「小さな街ですね」
「そうです。でも住みやすいです」とアオイは言った。
「確かに空気が澄んでいます。王都とは全然違う」マリエルは深呼吸した。
「人が少ないので静かですよ」
「それはいいですね」
マリエルは上質だが動きやすそうな服を着ていた。王都で会ったときより少し砕けた格好だ。
「まず辺境伯様にご挨拶してから、街を案内してもらえますか」
「もちろんです」
城に向かうと、ライナスが応接室で待っていた。
ライナスは立ち上がって軽く頭を下げた。
「マリエル・セラン殿。グラウンへようこそ」
「ライナス・ヴァルト様、初めてお目にかかります」マリエルも丁寧に挨拶した。
「グラウンは素敵な街ですね。来る途中から空気が変わって」
「ああ、私も気に入っている」ライナスは少し胸を張った。
「ライナス様は腐敗魔法への理解が深いと聞いています」
「理解というより、実際に役立っているのを見てきたので」ライナスは言った。
「グラウンに来てから、アオイの腐敗魔法に助けられた住民は多い」
「王都でもそういう話が広まればいいんですが…なかなか難しくて」マリエルは少し真剣な顔をした。
「時間がかかるだろうが、あなたのような方が動いてくれれば変わる日が来ると思っています」
マリエルはライナスを見た。
「辺境伯様も協力していただけますか」
「できることはします。グラウンでの実績は伝えられる」ライナスは頷いた。
「ありがとうございます」
荷物を城の客間に置いてから、アオイがグラウンを案内した。
まず還り家に連れて行った。
マリエルは中を見渡した。棚に並んだ薬、発酵中の瓶、吊るされた薬草。
「不思議な匂いがしますね。何だか落ち着きます」とマリエルは言った。
「発酵の匂いです」
マリエルは棚の薬草液を手に取った。
「これが薬ですか」
「胃腸薬です」
「これを作るのに腐敗魔法を使うんですか」
「発酵を促進したり、不要な成分を取り除いたりするのに使います」
「祖母が生きていたら、同じことをしていたかもしれないですね」マリエルは静かに言った。
「そうかもしれません」
次にマルタのチーズ屋に連れて行った。
マルタはマリエルを見て、少し背筋を伸ばした。貴族だとわかったらしい。
「いらっしゃいませ」
「マルタさんのハーブチーズを買いに来ました。アオイさんから話を聞いて、ずっと気になっていて」とマリエルは言った。
「ありがとうございます…」マルタは少し照れた顔をした。
「どれにしますか」
「全種類食べてみたいです」
「全種類ですか」マルタは目を丸くした。
「いいですか」
「もちろんです」
マルタがチーズを並べた。ローズマリー、タイム、黒胡椒、フェンネル。四種類だ。
マリエルは一つずつ丁寧に食べた。
「美味しい」とマリエルは言った。
「特に黒胡椒が好きです。辛みが和らいで、香りだけ残っていて」
「それはアオイのアイデアで作ったチーズなんです」とマルタは言った。
「そうなんですか」マリエルはアオイを見た。
「発酵中に混ぜると辛みが和らぐと思って提案しました」
「王都に持ち帰っていいですか。お土産にしたいので」
「もちろんです」マルタは嬉しそうな顔をした。
「おいくつ必要ですか」
「十個お願いできますか」
「十個」マルタは少し驚いたが、すぐに頷いた。
「ご用意します」
「このチーズ、腐敗魔法が関わっていると知ったら、王都の方々も驚くでしょうね」マリエルは言った。
「驚くと思います。私も最初は驚きましたから」とマルタは言った。
「今は驚きませんか」
「今は当たり前になりました」マルタはアオイを見た。
「このチーズはアオイがいなかったら生まれていなかったので…」
マリエルはマルタを見た。それからアオイを見た。
「グラウンの人たちは、腐敗魔法をちゃんと見ているんですね」
夕食は城の食堂でとった。
ライナス、マリエル、アオイ、セドルも同席した。
料理が運ばれてきて、ゴルドの果実酒が注がれた。
「乾杯しましょう。グラウンに来られたことに」とマリエルは言った。
「グラウンへようこそ」とライナスは言った。
四人が杯を合わせた。
マリエルが果実酒を一口飲んだ。
「美味しい…複雑な味がします。果実の甘みと、少し深みがあって」と静かに言った。
「酵母がいいんですよ」とアオイは言った。
「酵母ですか…」
「もう手に入らない酵母なんですけど、この果実酒を作っているゴルトさんが大切にしていたものを腐敗魔法で培養しました」
「そういう経緯があるんですね」マリエルは杯を見た。
「グラウンのものは全部、そういう話があるんですね。チーズも果実酒も薬も…」
「そうですね」とアオイは言った。
「王都のものとは違います」マリエルは少し考えた。
「王都のものは品質は高いですが、こういう話がついてくることは少ないです」
「辺境だからかもしれません」とライナスは言った。
「人が少ない分、一つ一つのものと人の繋がりが見えやすい」
「そうですね」マリエルはライナスを見た。
「グラウンはいいですね」
「そうだろう」
食後、マリエルが真剣な顔で話し始めた。
「腐敗魔法の認識を変えることについて、相談させてください」
「どうぞ」とアオイは言った。
「王都で動き始めていますが、なかなか難しいです。アオイさんのことを話したりしていますが、まだ半信半疑の方が多くて」マリエルは言った。
「実際に見てもらう機会がないと、なかなか変わらないと感じています」
「そうですね」とアオイは言った。
「グラウンでも実際に見てもらうことで変わりました」
「王都でもそういう機会を作りたいんですが、アオイさんが王都に来るたびに拘束されては困るので」マリエルは苦笑した。
「ライナス様が王都の知り合いに話を通してくれると言っていました」とアオイは言った。
「本当ですか」マリエルはライナスを見た。
「できる範囲でだが」ライナスは言った。
「王都に知り合いがいる。腐敗魔法への対応を変えてもらえるよう、話を通せるかもしれない」
「それは心強いです」マリエルは少し考えた。
「段階を踏んで進めましょう。まずライナス様の人脈で話を通していただいて、次にアオイさんが王都に来るときは事前に準備をして、実際に見てもらう機会を作る」
「それがいいと思います」とアオイは言った。
「焦らなくていいです」マリエルは静かに言った。
「祖母の代から変わっていないのだから、すぐには変わらない。でも少しずつ」
「少しずつ、ですね」
夜、アオイは還り家に戻った。
帰り際、マリエルに抗菌軟膏と飲み薬を渡した。
「これを持っていってもらえますか」
「なんですか」
「抗菌軟膏と飲み薬です。傷口の菌の増殖を抑えたり、体の中に入った菌を抑えたりする薬です」
マリエルは瓶を受け取った。
「腐敗魔法で作ったんですか」
「アオカビ由来の成分と薬草を組み合わせて作りました。ベアさんという薬草師の方と二人で開発しました」
「アオカビから薬を…菌から菌を抑える薬を作るんですね」マリエルは少し驚いた。
「腐敗と発酵は紙一重なので、菌の性質を利用できます」
「祖母が聞いたら驚くでしょうね」マリエルは薬を丁寧に包んだ。
「どんな場面で使えますか」
「軟膏は傷口に塗ってください。傷から菌が入り込んで化膿しそうなときに役立ちます。飲み薬は体の中に菌が入り込んで熱が出たり腹痛があったりするときに飲んでください。一日三回、食後に服用です」
「わかりました」マリエルは薬を見た。
「王都の方々に使ってもらえれば、腐敗魔法への認識が変わるかもしれません」
「役立てばいいですが、まず安全を確認してから使ってください。急ぎでない場面では様子を見ながら」
「慎重ですね」
「命に関わることなので。効果があると確信していますが、念のため」
翌朝、マリエルは王都に向けて出発した。
城門の前で、アオイ、ライナスは見送った。
「薬、大切に使います」
「はい。何かあったら手紙を送ってください」
「送ります」マリエルは馬車に乗った。
「ライナス様、お世話になりました」
「またグラウンに来てください」とライナスは言った。
「はい。ありがとうございました」
馬車が動き出し、マリエルが窓から手を振った。
馬車が城門を出て、道を進んでいく。やがて見えなくなった。
アオイは最後まで見送って、還り家に戻った。
マリエルが王都で薬を使う。誰かの役に立つ。腐敗魔法への認識が少しずつ変わっていく。
そうなればいいとアオイは思った。




