第三十八話「土魔法の使い手」
ある日、アオイは薬草液の仕込みをしていたところ、還り家に二十代後半くらいの見慣れない男が入ってきた。
背が高くて肩幅が広い。手が大きくて、指先が土で汚れていた。
「腐敗魔法の使い手がいると聞いて来ました」と男は言った。声が低くて落ち着いている。
「います。私です」
男はアオイをじっと見た。それから部屋を見渡した。棚に並んだ薬、吊るされた薬草、発酵中の瓶。
「薬屋なんですね」
「はい。薬を作っています。どんなご用件ですか」
「相談があります」男は荷物を下ろした。
「座っていいですか」
「どうぞ」
男の名前はコルといった。
生まれはグラウンから西に三日ほどの街で、土魔法の使い手だという。
「土魔法ですか」とアオイは言った。目が少し輝いた。
「知っていますか」
「土を操る魔法ですね。農業や建築に使えると聞いたことがあります。それで相談というのは…」
コルの相談はこうだった。
グラウンから北に馬で数時間ほどの場所に、かつて豊かだった農村がある。五十年ほど前に大きな地滑りがあって、土地が変わってしまった。それ以来、作物がうまく育たない。土魔法で土地を改良しようとしているが、うまくいかないでいる。
「五十年前の地滑りが原因なんですね」とアオイは言った。
「そうです。土の構造が変わってしまって、水はけが悪くて…」
「土魔法でどんな処置をしましたか」
「土を耕して、固まった部分を砕いて、水路を作って」コルは少し悔しそうな顔をした。
「物理的な構造は改善できるんですが、それでも作物が育たない。何かが足りない気がして」
「土壌菌が足りないんだと思います」
「土壌菌が」
「地滑りで土が大きく変わると、そこに住んでいた菌が死んでしまいます。菌が少ない土は、水はけや構造が良くても作物が育ちにくい…その村を見てみたいです」
「来てもらえますか」
「行きます」
「即答ですね」
「土が気になるので」
コルは少し笑った。
「腐敗魔法の使い手が土を気にするとは思わなかった」
「腐敗と土壌菌は深く関係しているので」
「なるほど」
コルは荷物から小さなノートを出した。
「土の状態を記録しています」
「見せてもらえますか」
コルはノートを渡した。アオイが開くと、土の硬さ、水分量、色、植物の育ち方が細かく記録されていた。スケッチもある。
「詳しく書いてありますね」とアオイは言った。
「五年間通っているので」
「五年間…それだけ続けているんですか」アオイは少し驚いた。
「諦められなくて」コルは静かに言った。
「その村の人たちが困っているのに、自分の魔法では解決できないのが悔しくて」
翌日、アオイとコルは村に向かった。
途中でコルがいろいろな話をしてくれた。
「土魔法って、どんな感じで使えるんですか」とアオイは聞いた。
「土の状態を感じ取って、動かしたり固めたり柔らかくしたりできます。岩を砕くこともできます」
「土の成分もわかりますか」
「成分まではわからないです。硬さや水分量は感じ取れますが、菌がいるかどうかはわからない」
「逆に私は菌の気配はわかりますが、土の物理的な構造は感じ取りにくいです」
「じゃあ補い合えますね」とコルは言った。
「そうなります」
コルはしばらく道を見ながら言った。
「腐敗魔法、怖くないんですか…」
「私が怖くないのは当たり前ですが、コルさんはどうですか」
「最初は少し怖かったです。忌み魔法と聞いていたので」コルは言った。
「でもグラウンに近づくにつれて、腐敗魔法の使い手が役立っているという話を行商人から聞いて」
「行商人?」
「道中の宿で。ダリオという行商人に」
「ダリオさんですか」アオイは少し笑った。
「お知り合いですか?ダリオさんはいろんな話をしてくれました。還り家の薬が役立っているとか、遺跡の魔法陣を止めたとか、水晶に封じ込められた人を助けたとか」
「盛られていないといいですが」
「盛られていましたか」
「…少し盛られているかもしれません」
コルは笑った。
村に着いた。
小さな村で、家が二十軒ほどある。村人の顔が疲れている。畑を見ると、確かに作物の育ちが悪い。葉が小さくて、色が薄い。
村長が出迎えてくれた。六十代の女性で、名前はウルスラといった。
「コルさんが魔法使いを連れてきてくれたと聞いて」とウルスラは言って、アオイを見た。
「腐敗魔法の方ですか」
「そうです」
ウルスラは少し複雑な顔をした。
「腐敗魔法というのは…」
「怖くないですよ」とアオイは言った。
「土壌菌の改善に使えます」
「土壌菌」
「土の中の菌です。作物が育つのに必要なものです」
ウルスラはしばらく考えた。
「コルさんが連れてきてくださった方なら、信じます」
「ありがとうございます」
畑を一通り確認した。
アオイは地面に手を当てて、腐敗魔法で土の中を探った。
「やはり菌がほとんどいないです」とアオイは言った。
「土の構造は改善されていますが、菌が少ないので作物が育ちにくい」
「五年間土魔法で構造を直してきたのに、菌がいなかったからか」とコルは言った。悔しそうな顔をしている。
「コルさんがやってきたことは間違いではないです。構造が改善されていたおかげで、菌が戻りやすい状態になっています」
「戻りやすい状態?」
「菌が育つには水はけと通気性が必要です。コルさんが土の構造を改善してくれていたので、菌を補えば定着しやすい環境が整っています」
「菌を補う、というのはどうやるんですか」
「二つ方法があります」アオイは説明した。
「一つは近くの健康な土から土壌菌を採取して移植すること。もう一つは発酵液肥料で菌の餌を供給して、残っている菌を活性化させること。両方を組み合わせると効果が出やすいです」
「近くの健康な土というのは」
「この村の近くに、菌が豊富な土がある場所はありますか。森の中や、長年耕されていない原野など」
「村の北側に古い森があります」
「そこの土を少し使わせてもらえますか。腐敗魔法で菌を採取して、畑に移します」
「それで作物が育つようになりますか」
「時間はかかりますが、育つようになると思います」アオイは少し間を置いた。
「…ただ今回は少し工夫が必要です」
「工夫というのは」
「土魔法と組み合わせると定着が早くなるかもしれません。土の中に小さな空間を作ってもらえますか。根の近くに、菌が定着しやすい場所を」
「どのくらいの大きさですか」
「小さくていいです。菌が住む家みたいなイメージで」
コルは地面に手を当てた。土魔法を使うと、地面が少し動いた。
「こんな感じですか」
アオイが腐敗魔法で確認した。土の中に細かい空間ができている。
「いいですね。まず森の土から菌を採取して、その空間に移植します。それから発酵液肥料を流し込んで、菌の餌を供給します」
「二段階でやるんですね」
「菌を入れてから、餌を与える。順番が大事です」
アオイはコルと一緒に村の北側の森に向かった。
森の入口の土に手を当てた。腐敗魔法で確認すると、豊かな菌の気配がある。種類が多くて、活性も高い。
「いい菌がいますね」とアオイは言った。
「嬉しそうですね」とコルは言った。
「いい菌に会うと嬉しいです」
アオイは腐敗魔法で森の土から農業に適した菌を選んで、持参した容器に採取した。
「これを畑に移します」
「腐敗魔法で菌を選べるんですか」
「種類と活性状態がわかるので、農業に向いているものを選べます」
コルは少し感心した顔をした。
「腐敗魔法と土魔法、本当に補い合っていますね」
「そうですね」
畑に戻って、採取した菌をコルが作った空間に移した。
腐敗魔法で菌を誘導しながら、土の中に定着させていく。それから発酵液肥料を流し込んだ。
「菌の餌になります。これで定着が進みます」とアオイは言った。
「どのくらいで効果が出ますか」
「一ヶ月もすれば作物の育ちが変わってくると思います。ただ完全に回復するには一年以上かかるかもしれません」
「一年…」コルは少し間を置いた。
「五年待ったので、一年は短く感じます」
「五年間頑張ってきたコルさんがいたからです。土の構造が整っていなかったら、菌を入れても定着しなかったです」
「そうですか…五年間無駄じゃなかったですね」コルは畑を見た。
「無駄じゃなかったです」
ウルスラが近づいてきた。
「何をしたんですか」とウルスラは聞いた。
「土の中に菌を入れました」とアオイは言った。
「菌を…大丈夫なんですか」ウルスラは少し不安そうな顔をした。
「大丈夫です。この菌は作物を助けます。腐敗魔法ですが、怖いものではないです」
「コルさんが信頼しているので、信じます」ウルスラは畑を見た。
「本当に作物が育つようになりますか」
「一ヶ月後に確認してください。変化が出てくるはずです」
「一ヶ月後にまた来てもらえますか」
「わかりました」
「コルさんも来てくれますか」
「来ます」とコルは即答した。
「五年間来ているので、あと一ヶ月は短いです」
村を出て、帰りにコルが言った。
「一つ聞いていいですか」
「なんですか」
「腐敗魔法って、忌み魔法じゃないですよね。どうしてそう呼ばれているんですか」
アオイはアーゴから聞いた話をした。
「二百年前に、腐敗魔法の使い手が権力者に対抗したことがあって、それ以来忌み魔法とされたんです」
「権力者に対抗した?」
「農民を守るために、武器を腐食させたり食料を腐らせたりした。それを恐れた権力者が意図的に忌み魔法として広めた」
「なるほど」コルは少し考えた。
「土魔法も昔は怖がられていたと聞いたことがあります」
「そうなんですか?」
「地面を動かせると、建物を壊したり道を塞いだりできる。昔は土魔法の使い手を恐れた権力者もいたそうで」
「腐敗魔法と似ていますね」
「似ていると思います。力があると怖がられる。でも使い方次第で役立てられる」とコルは言った。
グラウンに戻ると、夕方になっていた。
コルが還り家に寄った。
「今夜はグラウンに泊まります。明日また来てもいいですか」
「どうぞ」
「一つお願いがあるんですが」
「なんですか」
「村に持っていく発酵液肥料、定期的に作ってもらえますか。一ヶ月に一度くらい、村に行く時に持っていきたいので」
「材料費をもらえれば、作れます」
「もちろんです」コルは頷いた。
「あと、私が村の土の構造を確認するとき、一緒に菌の状態も確認してもらえると助かります。土魔法だけでは菌の状態がわからないので」
「できます。ただ毎月は難しいかもしれないので、季節ごとに確認するのはどうですか」
「それで十分です」コルは立ち上がった。
「よろしくお願いします」
「こちらこそ」
コルが帰った後、ゴルドが来た。
「土魔法の使い手が来たと聞いたが」とゴルドは言った。
「コルさんという方です。北の村の土壌改善を五年間頑張っていて」
「五年間か…それだけ続けているのか」ゴルドは目を丸くした。
「諦められないと言っていました」
「いい人なんだな」
「そうですね」アオイはお茶を淹れた。
「土魔法と腐敗魔法を組み合わせると、土壌改善が早くできることがわかりました」
「魔法の組み合わせか」ゴルドはお茶を受け取った。
「シャナとも実験していたな」
「光魔法、土魔法、植物魔法、腐敗魔法。それぞれ得意なことが違うので、組み合わせると面白いです」
「魔法使いが集まってきているな、グラウンに」
「そうですね」
「グラウンがどんどん変わっていくな」
「…変わると落ち着かないですか?」
「お前が来る前は変化がなさすぎた。少し変わるくらいがちょうどいい」ゴルドは窓の外を見た。
「そうですね」
ゴルドが帰った後、アオイは一人で考えた。
グラウンの人たちは、それぞれ自分の生活を持っている。アオイに干渉しすぎない。でも困ったときは助けてくれる。
腐敗魔法でできることをやっていたら、いつの間にかこうなっていた。
「まあ、なんとかなるだろう」と呟いた。




