第三十五話「ライナスが還り家に来た」
ライナスが還り家を訪ねてきたのは、冬の始まりの頃だった。
午後、アオイが抗菌軟膏の二回目の試作をしていると、扉がノックされた。
還り家の扉をノックする人は珍しい。大抵は普通に開けてくるか、おそるおそる開けてくるかのどちらかだ。
「どうぞ」とアオイは言った。
扉が開くとライナスが立っていた。
アオイは少し驚いた。いつもアオイが城に行く形だったので、ライナスが還り家に来たのは初めてだ。
「珍しいですね」とアオイは言った。
「近くを通りかかったんだ」とライナスは言った。
「城から還り家への道に通りかかる用事はないと思いますが」
「用事があった」
「なんの用事ですか」
ライナスは少し間を置いた。
「薬の確認だ。月次の納品まで間があるが、城の使用人が頭痛を訴えていて」
「それなら使いを寄越してもらえれば、お届けしますよ」
「ついでがあったからな…」
「ついでというのは」
「城下の巡回だ」
ライナスは部屋を見渡した。
「狭いな」
「そうですね」
「もう少し広い場所に移る気はないか」
「今の広さで十分なので」
アオイは棚から頭痛薬を取り出した。
「頭痛薬は何人分必要ですか」
「二人分だ」
「用意しますので、お待ちください」
「少し、休んでいってもいいか」
ライナスの言葉にアオイは驚いた。
「…どうぞ」
椅子を勧めると、ライナスは素直に座った。
アオイはお茶を淹れた。ベアにもらった薬草で作る、少し苦くて後味が甘いお茶だ。
頭痛薬の用意が終わると試作に戻った。軟膏の材料を混ぜながら、腐敗魔法で成分を確認する。
しばらく沈黙が続いた。
「何を作っているんだ」とライナスが言った。
「抗菌軟膏の二回目の試作です」
「一回目からどう変えた」
「薬草の配合を少し変えました。一回目より精油成分の濃度を上げて、アオカビ由来の成分とのバランスを調整しています」
「改良しているのか」
「まだ完成ではないので」
「完成はいつ頃だ」
「まだわかりません」
「相変わらずだな」ライナスは少し口元を動かした。
「何がですか」
「素直にわからないと言えるところだ」
また沈黙が落ちた。
アオイは作業を続けた。ライナスはお茶を飲んでいた。
グラウンに来てから、沈黙が苦手な人とあまり会ったことがない。ゴルドも、ベアも、沈黙を嫌がらない。ライナスも同じらしい。
「王都の件、マリエル・セラン殿から報告を受けた」とライナスが言った。
「そうですか」
「拘束されたと聞いている。帰ってきたときに何故報告しなかったんだ」
「たいしたことではないと思ったので」
ライナスは少し眉を寄せた。
「セラン殿が来なければどうなっていた」
「もう一日くらい部屋にいたと思います」
「もう一日…」ライナスはため息をついた。
「…それで済むと思っているのか」
「済んだと思いますよ?」
「お前は楽観的すぎる」
「そうですか」
「そうだ」ライナスはお茶を一口飲んだ。
「次に王都に行くときは、事前に知らせろ。手を打てることがある」
「手を打つというのは」
「王都に知り合いがいる。話を通しておけば、腐敗魔法への対応が多少変わるかもしれない」
「そんなことができるんですか」
「できるかどうかはわからないが、何もしないよりはいい」
しばらくしてライナスが言った。
「一つ聞いていいか」
「なんですか」
「王都に行って、大きな街を見て、何も思わなかったか」
アオイは少し考えた。
「大きいとは思いました。でも住みたいとは思わなかったです」
「なぜだ」
「人が多すぎて落ち着かないですし、菌の種類や情報量が多くて」
「情報量…」ライナスは少し呆れた顔をした。
「腐敗魔法で感じ取れる情報が多すぎて、グラウンの方が落ち着きます」
「そういう理由か」
ライナスはしばらく黙った。
「……グラウンにいてくれてよかった」
アオイは手を止めた。
ライナスは窓の外を見ていた。こちらを見ていない。
「ライナス様」
「なんだ」
アオイは軟膏を混ぜながら言った。
「グラウンに来てよかったと、私も思っています」
沈黙が落ちた。
しばらくして、ライナスが立ち上がった。
「そろそろ城に戻る」
「はい」
「薬、もらっていく」
「どうぞ」アオイは包みを渡した。
「三日ほど飲み続けるのように、使用人の方に伝えてください」
「ああ。伝える」
ライナスは扉に向かった。それから少し振り返った。
「抗菌軟膏、完成したら城にも納めてくれ」
「わかりました」
ライナスが扉を開けると、冷たい空気が入ってきた。
「また来てもいいか」
「いつでもどうぞ」
「通りかかったときに」
「城から還り家への道に通りかかる用事は、やはりないと思いますが」
「用事を作ればいい」
アオイは少し考えた。
「では薬の確認ということにしておきます」
「そうしよう」ライナスは少し口元を動かした。
「では」
「お気をつけて」
扉が閉まり、還り家が静かになった。
アオイは軟膏作りに戻った。混ぜながら、腐敗魔法で成分を確認する。
今回の試作は悪くない。一回目より成分のバランスがいい。
「いいかもしれない」と呟いた。
ノートに書き留めた。成分の配合、腐敗魔法で確認した菌への抑制効果、改善点。
グラウンの冬は寒いが、空気が澄んでいる。菌の活性が下がるので、腐敗魔法で感じ取れる情報量が少なくなって、かえって落ち着く。
アオイは軟膏の試作を続けた。




