第三十三話「王都へ」後編
翌日、シャナの治療三回目をやった。
アオイが腐敗魔法で詰まりに触れると、昨日より明らかに流れが戻っている。
「今日で解消できそうです」
「本当ですか」とシャナは嬉しそうな顔をした。
二十分ほどかけて、丁寧に分解していく。途中でシャナが少し顔を歪めた。
「大丈夫ですか」
「大丈夫です。なんか、詰まっていたものが一気に動いた感じがして」
「解消されています。もう少しです」
さらに十分。
「終わりました」
シャナが手を上げた。光が細かく、柔らかく、自在に動いた。前に還り家で会ったときと同じ、繊細な光の動きだ。
「戻った」とシャナは言った。
静かな声だったが、ほっとしているのがわかった。
「よかったです」
「ありがとうございます」シャナは光を指先で遊ばせながら言った。
「旅に戻れます」と静かに言った。
「魔法が使えないと旅ができないので」
「どこに行くんですか」
「まだ決めていないです」シャナはアオイを見た。
「グラウンにはまた行きます。ゴルドさんにも会いたいですし」
「ゴルドさん喜びますよ」
「だといいです。楽しみにしてます」
午後、マリエルから使いが来た。
封書を開けると、丁寧な字で短く書いてあった。
——昨日の排水路の件、清掃が完了しました。井戸水の味も戻ってきたと使用人が申しております。本当にありがとうございました。よろしければ今日の夕食をご一緒しませんか。シャナさんも、ぜひ——
「夕食に招待してもらえました」とアオイはシャナに言った。
「行きましょう」とシャナは即答した。
「貴族の方の夕食ですが、大丈夫ですか」
「大丈夫です。貴族の方と食事をするのは初めてですが」
シャナは少し考えた。
「アオイさんは大丈夫ですか」
「貴族と食事をするのは初めてですが、緊張はしないです」
「なんで緊張しないんですか」
「あまり緊張するタイプではないので」
「投獄されても全く動じなかったですよね…」
「あれは不安でしたが、緊張とは少し違いました」
「どう違うんですか」
「緊張は予期不安で、不安は現状への反応だと思います」
シャナはしばらくアオイを見た。
「……難しいことを言いますね」
「……すみません」
夕方、マリエルの屋敷に向かった。
応接室ではなく、食堂に通された。こぢんまりした部屋で、テーブルに三人分の食器が並んでいる。
「来てくださってありがとうございます。大したものは出せませんが」とマリエルは言った。
「ありがとうございます」とアオイは言った。
「光魔法の調子はいかがですか」とマリエルはシャナに言った。
「おかげさまで完全に戻りました」
「よかったです」
食事が始まった。野菜のスープ、焼いた肉、パン、それとチーズ。シンプルだが丁寧に作られた料理だ。
「美味しいです。このチーズ、熟成がいいですね」とアオイは言った。
「王都で一番評判のチーズ屋から取り寄せています。グラウンにはどのようなチーズがありますか?」とマリエルは言った。
「マルタさんというチーズ職人がいます。ハーブチーズが特においしくて」
「ハーブチーズ」マリエルは興味深そうな顔をした。
「グラウンに行く機会があれば、ぜひ食べてみたいですね」
「ぜひ来てください。マルタさんも喜びます」
「グラウンに貴族の方が来たら、街の人が驚きそうですね」とシャナが言った。
「驚くかもしれません。でもマルタさんは驚いても顔に出さないと思います」
「マルタさんってどんな方ですか」
「気が強くて、腕が確かで、照れ屋です」
マリエルが小さく笑った。
「面白そうな方ですね」
食事が終わって、お茶を飲みながら話した。
マリエルが言った。
「昨日、アオイさんが腐敗魔法の歴史について少し話してくださいましたね。オルヴァという人のことを」
「話しましたね」
「もう少し聞かせてもらえますか」
アオイはノートを開いた。アーゴから聞いた話を、丁寧に話した。二百年前のオルヴァは農民を守るために腐敗魔法を使ったこと、権力者に捕まったこと、忌み魔法とされた経緯。
マリエルは黙って聞いていた。
「祖母も、同じような境遇だったんですね」とマリエルは静かに言った。
「使えなかったという意味では、オルヴァより辛かったかもしれません」
「そうですね」マリエルはお茶を一口飲んだ。
「オルヴァは少なくとも使えていたから。祖母は才能があるのに、使えなかった」
「マリエル様は腐敗魔法の才能はありますか」
「ないです」マリエルは首を振った。
「祖母の代で途切れました。私は普通の人間です」
「でも腐敗魔法を理解してくれています」
「理解くらいはできます」マリエルは少し間を置いた。
「祖母がいつも言っていました。腐敗と発酵は紙一重だと。同じ力なのに、どちらに使うかで全然違って見える、と」
アオイは少し驚いた。
「私もそう思います」
「そうですか」マリエルは穏やかに笑った。
「祖母と同じ考えの人がいたんですね」
「二百年前のオルヴァも同じことを思っていたかもしれません」
「そうですね」マリエルは窓の外を見た。
「腐敗魔法の使い手は、みんな同じことを思うのかもしれない」
「才能があれば、自然にそう思うのかもしれないです」
しばらくして、マリエルが少し真剣な顔をした。
「一つ、お願いがあります」
「なんですか」
「王都の腐敗魔法への認識を変えたいと思っています。ただ一人ではなかなか難しくて」
マリエルはアオイを見た。
「グラウンでの話を、私が王都の人間に伝えてもいいですか」
「もちろんです」
「腐敗魔法が役立っているという事実を広めれば、少しずつ認識が変わるかもしれない」
「時間はかかると思います」
「かかっていいです」マリエルは静かに言った。
「祖母の代から変わっていないのだから、すぐには変わらないでしょう。でも少しずつでいい」
「そうですね」アオイは少し考えた。
「私にできることがあれば言ってください」
「今日話してくださったことで十分です」マリエルは頷いた。
「あとは私がやります」
「頼もしいですね」とシャナが言った。
「そうでもないですが…ただ祖母の分まで、できることをしたいので」マリエルは少し苦笑した。
屋敷を出ると、夜になっていた。
王都の夜は明るい。至るところに燭台が灯されていて、人も多い。
「マリエル様が腐敗魔法への認識を変えたいと言ってくれて、勇気づけられました。ただ時間はかかるとお思いますが…」
「かかってもいいじゃないですか」と言ってシャナは星の少ない王都の夜空を見上げた。
「グラウンでも最初はみんな怖がっていたけど、今は普通に受け入れているでしょ?」
「そうですね」
「王都でも、いつかそうなるかもしれない」
「なるかもしれないですね」アオイも夜空を見た。
「二百年かかるかもしれませんが」
「…二百年は長い」
「でもオルヴァから二百年経って、マリエル様のお祖母様がいて、今私がいる。そう考えると続いてきているんだと思います」
シャナはしばらく黙った。
「深いですね」
「そうですか」
「アオイさんが言うと深く聞こえます」
「普通のことを言っているだけですが…」
翌朝、グラウンに向けて出発する前に、マリエルが宿に来てくれた。小さな包みを持っていた。
「大したものではありませんが、餞別です」とマリエルは言った。
包みを開けると、薬草の種が数種類入っていた。
「祖母が大切にしていた薬草の種です」
「ありがとうございます」
アオイは種を一つ手に取って、腐敗魔法で確認した。
「珍しい種ですね。この成分は薬に使えます。大切に育てます」
「よろしくお願いします」マリエルはアオイを見た。
「グラウンに行く機会があれば、アオイさんのお店へ寄らせてください」
「いつでもどうぞ。マルタさんのハーブチーズを用意しておきます」
「楽しみにしています」
シャナも挨拶をした。
「王都にまた来たときは、宿でお会いしましょう」
「ぜひ」とマリエルは言った。
「光魔法の話も聞かせてください」
「もちろんです」
ちょうどそのとき、宿の入口で声がした。
「アオイさん、いるか」
クルトの声だった。アオイが顔を出すと、クルトとフェンが立っていた。
「クルトさん、フェンさん」とアオイは少し驚いた顔をした。
「どうしてここに」
「依頼が片付いたからな」とクルトは言った。
「金の月亭にいると聞いていたから、迎えに来た」
「ありがとうございます」アオイは少し嬉しそうな顔をした。
マリエルがクルトとフェンを見た。
「アオイさんのお知り合いの方ですか」
「冒険者ギルドの方です。クルトさんとフェンさんです。グラウンから一緒に来てくれました」とアオイは言った。
「お世話になっております」とクルトは丁寧に頭を下げた。
城門を出て、王都が後ろに遠ざかっていった。
シャナが途中まで一緒に来てくれた。シャナは別の方向に旅を続けるので、王都の外で別れる。
「またグラウンに来てください」とアオイは言った。
「行きます。次はもっと長く滞在したいです」とシャナは言った。
「お待ちしてます。お気をつけて」
シャナが歩き始めた。杖の光が朝の光の中でも輝いている。
しばらくして振り返った。
「アオイさん」
「なんですか」
「王都に来てよかったですか」
アオイは少し考えた。
「拘束されたこと以外は、よかったです」
「拘束されたことも、マリエル様に会えたのでよかったんじゃないですか」
「そう考えるとよかったかもしれません」
「そういうことです」シャナは笑った。
「じゃあ全部よかったですね」
「そうですね」
シャナが手を振って、歩いていった。光が遠ざかって、やがて見えなくなった。
クルトとフェンと一緒に、グラウンへの帰路についた。
「馬はまた俺の後ろだ」とフェンが言った。
「お願いします」
「拘束されたって?何したんだよ?」フェンが面白そうに聞いた。
「街中でうっかり腐敗魔法を使って、保安組織に拘束されました」
「アオイさん、本当にすごいな…何でそんな落ち着いてるんだよ」フェンはため息をついたが、少し笑っていた。
「次は気をつけろよ」
「気をつけます」
来るときと同じ道を、今度は逆方向に進む。
三日目の宿で、アオイは今回の旅の事を思い返した。
王都の規則、保安組織からの拘束、マリエル、井戸水の問題、オルヴァの話、シャナの治療完了、薬草の種、クルトとフェンとの再会。
種の袋を取り出した。マリエルの祖母が大切にしていた種だ。
「グラウンで育てよう」と呟いた。
どんな薬が作れるか、帰ったら試してみよう。
五日目の夕方、グラウンが見えてきた。
城門をくぐると、門番が言った。
「お帰りなさい、アオイさん」
「ただいま帰りました」
クルトとフェンも一緒に城門を入った。
「ありがとうございました」
「次は拘束されるなよ」とフェンが言った。
「わかってますよ」
二人はそのまま依頼のために別の場所へ向かった。
還り家に戻ると、ゴルドが中にいた。掃除をしていたらしく、箒を持っている。
「帰ってきたか」とゴルドは言った。
「ただいま帰りました」
「シャナの魔法は治ったか」
「治りました」
「ゴルドさん、還り家を見てくれてありがとうございました」
「客が三人来た。薬草液を二本売った」
「ありがとうございます」
ゴルドは箒を置いた。
「お茶を入れる。後で話を聞くから、座ってろ」
「はい」
アオイはマリエルからもらった、種の袋を取り出した。
「これを育てようと思います」
「何の種だ」
「王都の貴族の方にいただきました。その方のお祖母様が大切に育てていた薬草の種だそうです」
「貴族から種をもらったのか」とゴルドは少し驚いた顔をした。
「いろいろありました」
「詳しく話せ。全部聞く」
「長くなりますが」
「構わない」
アオイはお茶を飲みながら、王都での出来事を全部話した。ゴルドは途中で口を挟まず、最後まで聞いた。
話し終えると、ゴルドは少し間を置いた。
「お前を助けた貴族はいい人だな」
「そうですね。腐敗魔法への認識を変えたいと言ってくれました」
「王都で認識が変わるのは、時間がかかるだろうが」
「かかると思います。でもマリエル様は時間がかかっていいと言っていました」
「そういう人間が一人いると、違う」ゴルドはお茶を一口飲んだ。
「グラウンでも最初はみんなが怖がっていたが、今は普通に受け入れてもらえている。王都でもそうなる日が来るかもしれない」
「来るといいですね」
「来る」とゴルドは言った。断言だった。
「お前みたいな人間がいれば、必ず来る」ゴルドは仏頂面で言った。
「お茶のお代わりをくれ」
アオイはお茶を淹れながら、窓の外を見た。グラウンの夜は静かだ。王都の夜より暗くて、星が多い。
やはりグラウンがいいとアオイは思った。




