第三話「腐敗魔法のお披露目」
醸造師のおじさんの名前はゴルドといった。六十二歳、妻は十年前に亡くなり、今は一人で醸造所を切り盛りしている。グラウンに来て三十年になる。
醸造所の中は薄暗く、樽がずらりと並んでいた。アオイは一つ一つ蓋を開けて匂いを嗅いだ。
「何がわかる」とゴルドは腕を組んで見ていた。
「酵母が弱ってます。発酵途中で雑菌に負けてる」
「……匂いだけでわかるのか」
「専門なので」
アオイは一番状態の悪そうな樽の前にしゃがんだ。腐敗魔法を使ってみることにした。
手を樽に当てて、意識を集中した。すると指先から何か温かいものが流れ出る感覚があった。樽の中が見えるわけではないが、なんとなくわかる。雑菌の気配、酵母の弱った感じ、糖分の残り具合。
「なるほど」とアオイは呟いた。
「何をした」とゴルドが警戒した声で言った。
「雑菌を分解しました。酵母は残してあります。あと三日もすれば発酵が正常に戻ると思います」
ゴルドは長い沈黙の後、言った。
「……あんた、魔法使いか」
「一応そうらしいです」
「何の魔法だ」
アオイは少し間を置いた。正直に言うべきか迷ったが、隠すのも面倒なので言うことにした。
「腐敗魔法です」
ゴルドの顔が引きつった。
「……忌み魔法じゃないか」
「そうらしいですね。でも発酵の制御もできるので、醸造には使えます」
「……本当か」
「今やったことがその証明です」
ゴルドはしばらくアオイと樽を交互に見ていた。それからため息をついた。
「……今夜の飯と寝床を用意してやる。三日後に樽を確認して、本当によくなってたら話を聞く」
「ありがとうございます」
ゴルドの家は醸造所の隣にあった。二階建ての石造りで、一階が作業場、二階が居住スペースだ。
客間があるというので、アオイはそこに泊めてもらうことになった。
夕食はパンとスープとチーズだった。チーズを口に入れた瞬間、アオイは手を止めた。
「このチーズ」
「どうした、腐ってるか」
「違います。美味しい。でも熟成が早すぎる。本来の半分も旨味が出てない」
「……チーズ職人に言ってやれ。街で一軒しかない店だ」
「近いうちに行ってみます」
ゴルドは何か言いたそうだったが、黙ってスープを飲んだ。
食後、アオイは実験ノートを開いた。今日わかったことを書き留める。腐敗魔法の感覚、土の質、街の様子、ゴルドの果実酒の状態。
「何を書いてる」とゴルドが覗き込んだ。
「記録です」
「……あんた、どこ出身だ」
「遠いところです」
ゴルドはそれ以上聞かなかった。辺境の街には、素性を聞かれたくない人間が来ることも多いのだろう。アオイはそのことに感謝した。
三日後、樽を確認した。
蓋を開けた瞬間、ゴルドが息を呑んだ。澄んだ果実の香りが立ち上っている。試しに少し掬って飲んだゴルドは、長い間黙っていた。
「……これは」
「発酵が正常に進みました。あと二週間寝かせれば完成します」
「今まで作ってきた中で、一番いい状態だ」
ゴルドは複雑な顔でアオイを見た。腐敗魔法への嫌悪感と、目の前の結果への驚きが混ざっている。
「しばらくここにいる気はあるか」
「あります。この街、気に入ったので」
「何が気に入ったんだ。何もない街だぞ」
アオイは少し考えた。
「土がいいです」
ゴルドはため息をついた。
「……醸造所の隅に小屋がある。古くて狭いが、使っていい。家賃の代わりに月に一度、樽を見てくれ」
「喜んで」
こうしてアオイのグラウン生活が、正式に始まった。




