Voyage 9 幽霊船レストランへようこそ
鏡海への手前で、霧が出た。
朝から白く、濃い霧だった。十メートル先が見えない。帆が湿って重くなった。ネリネが羅針盤と地図を交互に見ながら、慎重に航路を計算している。
「どのくらい続く?」
リヴィアが尋ねた。
「この海域の霧は、午後まで続くことが多いです。ただし、今日は少し質が違います」
「何が違う?」
「通常の霧より、匂いがあります」
リヴィアが鼻をきかせた。確かに、何か匂う。潮の匂いではない。もっと別の、油と香辛料が混じったような。
「料理の匂いがする」
リヴィアが言った。
「します」
「なんで海の上で料理の匂いが?」
「分かりません。ただ、この方向に何かあります」
たこまるが帽子から顔を出した。
「姫さん、匂いが分かるか」
「はい。魚料理です。それと、海藻を使った何かと、深海の香辛料。あとは……少し、魔法の匂いがします」
「魔法の匂い?」
リヴィアが反応した。
「魔法を使っているものの近くで、こういう匂いがすることがあります。何かを隠すための魔法に多い」
「隠すための魔法?」
「姿を消しているものが、近くにあります」
ネリネが羅針盤を確認した。
「風が変わりました。霧の中心がこの先にあります。そこから匂いが来ている」
「向かってみる?」
リヴィアが提案した。
「危険性は不明です」
「危険なら逃げる。近づいてみる価値はある」
「承知しました」
シーラビット号が霧の中を進んだ。匂いが強くなった。料理の匂いが濃くなって、腹が鳴った。ピピが「お腹すきました」と言った。ネリネが「黙っていてください」と言った。
霧が少し薄くなった。
船が見えた。
大きな船だった。シーラビット号より三回りほど大きい。船体は古びていて、帆は黒ずんでいる。窓から灯りが漏れている。甲板に人影はない。
「幽霊船?」
ピピが反応した。声が少し小さかった。
「幽霊船じゃない。料理の匂いがする幽霊船はない」
たこまるが言う。
「でも誰もいないように見えます」
ミルフィナが突っ込んだ。
「姿を消す魔法がかかっていると言った。乗組員がいないように見えるだけだ」
「では、近づいてもいいですか?」
ピピが尋ねる。
「おれに聞くな。船長に聞け」
「船長?」
「近づく」
リヴィアは迷わず言った。
シーラビット号を並べると、向こうの船に文字があった。古い書体で、「レ・ヴァーグ」と書いてある。波、という意味の言葉だ。
「幽霊船レストランの話、聞いたことがある?」
リヴィアが全員に尋ねた。
「聞いたことがあります。この海域に出るという噂は、古くから港町で言われています。実際に乗った人間の話は、あまり聞きませんが」
ネリネが答えた。
「実在するのですか?」
ミルフィナが尋ねた。
「実在した。目の前にある」
リヴィアがそう言ってほどなく、向こうの船から、声がした。
「いらっしゃいませ」
低い、落ち着いた声だった。甲板に、人が現れた。年配の男で、白い帽子と白いエプロンをつけている。料理人の格好だった。
「本日はレ・ヴァーグへようこそ。席にご案内します」
「え、普通に入れるの?」
リヴィアが尋ねた。
「どなたでも。ただし、ルールがあります」
「ルールは?」
「席についてからお伝えします。まず、乗船してください」
リヴィアはたこまるを見た。
「どう思う?」
「罠なら、匂いまでつける必要はない。食欲を刺激して引き寄せているなら、捕まえる目的ではなく、客として扱う目的だ」
「行く」
リヴィアが言った。
乗り込むと、甲板は見た目よりずっと広かった。魔法で内部が拡張されているのか、外観と内観が一致しない。案内された先には、テーブルと椅子が並んでいた。それぞれの席に、小さな灯りが置いてある。
「席についてください」
リヴィアたちが座った。たこまるだけはテーブルの上に乗った。
「ルールをお伝えします。このレストランでは、お客様が料理を選ぶことはできません」
「できない?」
リヴィアが突っ込んだ。
「こちらが判断して、お出しします。何が来るかは、座るまで分かりません。それが嫌な方は、今すぐ席を立っていただいて構いません」
「なぜそういう仕組みなの?」
「料理人として、客に合った料理を出すためです。メニューを見て選ぶより、正確に合うものが出ます。ただし、保証はしません」
「保証しないの?」
「完璧な人間はいません」
リヴィアは全員を見た。全員が席に残っていた。ピピが「食べ物が来るなら何でも」という顔をしていた。ベルが無言でテーブルの木材の質を確かめていた。
「では続けて」
「ありがとうございます。もう一つ、値段についてです」
「高い?」
「食べ終わってから決まります」
「食べる前には分からないの?」
「料理の価値は、食べたあとでないと分かりません。また、払えないほどの額にはなりません。ご安心ください」
「ネリネ」
「……承知しました。一応、財布は持っています」
ネリネは複雑な顔を浮かべていた。
最初に来たのは、スープだった。
透き通ったスープで、中に細い海草と小さな魚が入っている。一口飲んだ。
「……おいしい」
リヴィアが言い、
「おいしいです」
ミルフィナも舌鼓を打った。
たこまるの前に、小さなカップに注がれたスープが置かれた。
たこまるが少し固まった。
「……うまい。なんで分かった」
「何が?」
「おれの好みを」
スープを見た。深い海の貝からとった出汁の味がした。普通の料理人には出せない味だ。
「さすがだな」
たこまるが認めた。
次の料理が来た。リヴィアの前に置かれたのは、焼いた魚だった。港町でよく食べる種類ではなく、もっと深い海の魚だ。
ミルフィナの前には、人間の料理とは少し違うものが来た。生に近い状態で、香辛料の使い方が違う。
「これは、人魚が食べる料理の作り方に近いです」
「分かるの?」
「王宮で食べたものと、似ています。でも少し違います。人間の料理の影響が混じっています」
「両方を知っている料理人が作ったのかもしれません」
「そうかもしれません」
ピピの前には、大量の揚げ物が来た。ピピが黙って食べ始めた。止まらなかった。
ベルの前には、野菜の料理が来た。大きな皿に、山積みになっていた。ベルが無言で食べ始めた。量が多くても、ベルには問題ないようだった。
ネリネの前には、整然と盛り付けられた料理が来た。品数が多いが、量は少ない。少しずつ、多くの種類を食べるのが好きなのを、見抜かれていた。
「正確ですね」
「どうした」
「こちらが言わなくても分かるのが、少し悔しいです」
「なんで悔しいの?」
「自分の好みは、自分だけが知っていると思っていたので」
「観察力があるのね、あの料理人に」
「そうです。それが、少し」
「悔しい」
「……はい」
食事が進んだ。
途中から、たこまるが料理長の方をじっと見始めた。
「たこまる、何してる?」
「見てる」
「何を」
「あの料理人を。手元と、目と、出す順番と。料理の組み立てを」
「研究してる?」
「ライバルとして認識している」
「突然?」
「突然ではない。最初から、この料理の構成は興味深かった。スープで胃を開いて、次に淡い味で慣らして、そのあとに主役を出す。順番の計算が精確だ」
「たこまるの料理と比べてどっちが上?」
「今は負けている」
たこまるが珍しく素直だった。
「素材の引き出し方が違う。深海の食材の使い方を知っている」
「悔しい?」
「ライバルが強いのは、いいことだ」
食事が一段落したころ、料理人が戻ってきた。
「いかがでしたか?」
「美味しかったです」
ミルフィナが言った。
「光栄です。ご満足いただけたなら」
「一つ聞いていいですか」
リヴィアが料理人に尋ねた。
「何でしょう」
「なぜ、幽霊船のふりをしているの? 近づきにくくない?」
「近づきにくい方がいいのです。本当に料理を必要としている人間だけが来てくれればいい。怖いと思って引き返す人間は、そもそも縁がなかった人間です」
「でも、怖くて帰る人の中にも、料理が必要な人がいるかもしれない」
「そうかもしれません。ただ、私は全員を満足させることはできない。来た人を、できる限り満足させることだけを考えています」
「……そういうもの?」
「料理人の話です。船長の話は、また別でしょう」
「わたしは船長だから、全員を満足させないといけない」
「そうですか?」
「乗組員の全員を、目的地まで連れていく。それが船長の仕事でしょ」
「全員を満足させることと、全員を目的地へ連れていくことは、別のことでは」
リヴィアが少し黙った。
「……別のことね。そうね。同じじゃない」
「目的地へ連れていく方が、あなたには合っていそうです」
「どっちが合ってるか、あなたに分かるの?」
「少しだけ。料理の好みと同じくらいには」
デザートが来た。
小さな貝殻の器に入った、白いものだった。一口食べると、甘くて、冷たくて、海の香りがした。
「これは何?」
リヴィアが尋ねた。
「深海の水草から作ったものです。人間にも人魚にも合う味にしました」
「なんで人魚に合う味も考えたの」
「今日はお客様の中に人魚がいると分かっていましたから」
「分かってたの?」
「近づいてくる前から、海流の変化で分かります。人魚が近くにいると、流れが変わります」
ミルフィナが少し驚いた顔をした。
「私のことが分かりましたか」
「おぼろげに。ただ、どういう方かは分かりませんでした。来てみて、分かりました」
「どういう方でしたか」
「海を見ている方でした。ずっと、料理を食べながらも、窓の外の海を見ていました」
ミルフィナが窓を見た。霧の向こうに、暗い海が続いている。
「習慣です。海底では、上の方の光をよく見ていました。今は、上から下を見ています」
「逆になりましたね」
「はい。でも、どちらも綺麗です」
料理人が立った。
「お時間をいただいてよろしいですか。一つだけ、情報をお伝えしたいことがあります」
「情報?」
リヴィアが反応する。
「私はこの海域に長く留まっています。様々な客が来て、様々な話を聞きます」
料理人は、ゆっくりとした口調で続けた。
「星潮の冠の手がかりを見つけるには、沈んだ時計塔へ行ってみるとよいかもしれません。あそこには、冠が何を開き、何を閉じるものなのか、古い記録が残っているという話があります。確かかどうかは分かりません。ただ、参考になれば」
「沈んだ時計塔」
「鏡海の南の端、大きな岩礁の近くです。普通の船では近づけない深さにあります。ただし、人魚がいれば別かもしれません」
ミルフィナとリヴィアが、同時に顔を見合わせた。
「ありがとうございます」
リヴィアが言った。
「お役に立てれば」
会計が来た。ネリネが受け取って、金額を確認した。顔色が変わらなかった。リヴィアは少し驚いた。
「高かった?」
「常識的な範囲です……少し高いですが、この料理なら納得できます」
「ネリネが納得するのは珍しい」
「美味しいものには、払えます」
「そういう価値観を持ってたのね」
「船長が無駄遣いをするので、普段は節約を心がけています。それだけです」
「無駄遣いしてないわよ」
「地図に一ヶ月分の食費を使いました」
「あれは投資よ」
「今のところ、投資の回収が不十分です」
「沈んだ時計塔の情報が来たじゃない。回収中よ」
「……まあ、そうですね」
レ・ヴァーグを出ると、霧が少し薄くなっていた。夕方の光が霧を橙に染めて、柔らかい色になっていた。
シーラビット号に戻る前に、ミルフィナが甲板の端で海を見ていた。リヴィアが近づいた。
「どうした?」
「少し、考えていました」
「何を?」
「王宮のことです」
リヴィアは黙った。
「さっき、料理人が言いました。ずっと海を見ていた、と。私は気づいていませんでした。見ていたことは知っていましたが、それが他の人にも分かるとは思っていませんでした」
「癖なのね」
「王宮でもそうでした。謁見の間の窓から、上の光をよく見ていました。女官たちに何度も注意されました」
「窓を見るなって?」
「上の空にならないように、と。でも、なぜ上を見るのかは聞かれませんでした」
「なんで上を見てたの」
「外があるから、です。外に何かあると思っていたから、見ていました。王宮の中には、全部あると言われていました。必要なものは全部、王宮にある。でも、見たことのないものがある気がしていました。本の中にある、見たことのないものが」
「今は?」
「今は、見ています。ここにいれば、本の中のものに会えます。歌う貝殻に、空飛ぶクラゲに、幽霊船のレストランに」
「怖くなかった? 幽霊船」
「少し、最初は」
「でも入った」
「リヴィアさんが行くと言ったので」
「それだけで?」
「リヴィアさんが判断したことには、理由があると思いました」
リヴィアは少し黙った。
「……そんなに信用していいの。わたしのことを」
「信用しています」
「会って、まだ数日よ」
「日数は関係ありません」
「なんで」
「リヴィアさんは、岩礁の中でも舵を離しませんでした。嵐の海に落ちても、海から目を逸らしませんでした。たこまるさんに突っ込まれても、最終には正直に言います。そういう人だと分かっています」
「それだけで?」
「じゅうぶんです」
リヴィアは海を見た。霧が晴れてきて、水平線が少し見えてきた。
「……わたしが判断を間違えたら?」
「一緒に間違えます」
「それでいいの?」
「間違えたら、また考えます。正しくすればいい」
「簡単に言う」
「難しいことですか」
「難しいわよ。一緒に間違えるって、信頼がないとできない」
「だから信頼しています、と言っています」
リヴィアはミルフィナを見た。ミルフィナは海を見ていた。銀青色の髪が、夕の風にゆれている。
「……あなたは、王宮に戻りたいとは思わない?」
「今は思いません」
「この先も?」
「この先は、この先に考えます」
「そうね」
「リヴィアさんは、戻ってほしいと思いますか」
「……思わない。でも、あなたの話だから、わたしが決めることじゃない」
「では、私が決めます」
「どう決めるの?」
「今は、ここにいます」
それだけだった。
たこまるが甲板から言った。
「おまえら、夜飯を作るからいい加減船に戻れ。さっき食べたばかりだが、たこまる料理の意地がある」
「食べた直後よ」
「精神的な話だ。あの料理を超える意欲が生まれた。試作する」
「試作するの?」
「ライバルに負けたまま終われない」
「負けてるって認めるのね」
「今は負けている。これからが勝負だ」
「……じゃあ戻る」
シーラビット号の船内に戻ると、たこまるは当然のように厨房へ向かった。
「待ってください」
ネリネが財布を押さえた。
「幽霊船で食事をしたばかりです。これ以上、食材を減らす必要はありません」
「腹が満ちることと、船で飯を作ることは別だ」
「別ではありません。食費は一つです」
「黙れ」
「黙りません」
「あたし、お腹いっぱいだけど食べます!」
ピピが元気よく手を上げた。
「食べるなとは言っていません。作りすぎるなと言っています」
「では、少なめにたくさん作る」
「矛盾しています」
たこまるが厨房に入る。
その後ろを、ベルが無言でついていった。
「ついてくるな」
「……見てるだけ」
「見られると作りにくい」
「もちもちしてる」
「感想を言うな」
結局、厨房からはすぐに鍋の音が聞こえ始めた。
リヴィアとミルフィナが甲板に残った。
夜の海が広がっていた。霧がすっかり消えて、星が出ていた。
「リヴィアさん」
「何」
「明日、時計塔へ行きますか」
「行く。料理人の話が本当なら、冠の手がかりがある」
「深い場所です。私の魔法が必要になります」
「頼む。ただし、無理はしないで」
「無理かどうかは、やってみないと分かりません」
「無理になりそうだったら言って」
「言います。リヴィアさんも、無理になりそうだったら言ってください」
「わたしは大丈夫よ」
「言ってください」
「……分かった」
波の音が続いた。星が増えた。
「海の聞き方を、今夜教えると言いました」
「覚えてる」
「今から教えてもいいですか」
「今夜はいい。疲れてるでしょ。たこまるが言ったように」
「疲れていません」
「疲れてる。歌を二回使った」
「……たこまるさんに言われたことを覚えているのですね」
「当然よ。乗組員のことは覚える」
「乗組員」
「あなたも、今は乗組員よ」
ミルフィナが少しだけ笑った。
「では、乗組員として言います。少しだけ、教えてもいいですか。長くはしません」
「……五分だけ」
「はい」
二人で並んで、海を見た。
「目を閉じてください」
「閉じた」
「波の音を聞いてください。音の高さが、少しずつ違います。分かりますか」
「……分かる。高い波と、低い波がある」
「高い波は、遠くから来ています。低い波は、近くで生まれています。遠くの天気が、波の高さで伝わってきます」
「遠くの天気が分かるの?」
「全部ではありません。でも、大きな嵐が遠くにあると、波が少し高くなります。今は、穏やかです」
「穏やか」
「はい。明日も、たぶん波は穏やかです。鏡海の近くなので、さらに落ち着いていきます」
「目を開けていい?」
「どうぞ」
目を開けた。海は暗くて、波は小さかった。
「少し分かった気がする」
「上手いです」
「五回で覚えられる?」
「五回、教えれば」
「じゃあ、あと四回」
「はい。明日また」
「時計塔から帰ってきたら」
「はい」
「約束ね」
「約束です」
たこまるが厨房から声を上げた。
「できたぞ。食えるか食えないかは別として、できた」
「食べに行く?」
リヴィアが尋ねた。
「食べに行きます。さっき食べましたが」
「意地があるって言ってたから」
「たこまるさんの意地を、応援したいです」
「そういうこと言うから、たこまるがあなたに甘いのよ」
「甘いですか、たこまるさんは」
「あなたにだけ。わたしには辛い」
「リヴィアさんには、辛くするくらい大事にしているのだと思います」
「……どういう理屈よ」
「大事な人には、厳しくする人がいます。たこまるさんはそういう人です」
リヴィアは空を見た。
「……そうかもしれない」
「分かっています」
「わたしは分かってなかった」
「でも今分かりました」
「そうね」
二人で厨房に向かった。
たこまるが作った料理は、レ・ヴァーグのものとは全然違う味だったが、それはそれで、悪くなかった。
食事を終えて船に戻るころ、リヴィアは手すりに寄りかかって、料理人から聞いた話を思い出していた。
沈んだ時計塔には、冠に関する古い記録が残っているかもしれない。
ただ寄り道をしただけではない。今日は、次に進むためのものを手に入れたのだ。
「……行く場所が、はっきりしたわね」
「はい」
隣で、ミルフィナが頷いた。
「それに、私も少し分かりました。上から下を見ることと、下から上を見ることは、同じ海を見ていても違うのですね」
「難しいこと言うわね」
「でも、大事なことのような気がします」
リヴィアは少しだけ笑った。
「じゃあ、その大事なことも持っていく。時計塔まで」




