Voyage 8 まじめ魚、追ってくる
鏡海への航路に入ったころ、ネリネが空を見上げて伝えた。
「後ろに何かいます」
全員が振り返った。
海面の下に、光が見えた。青白い光が、規則的な間隔で点滅している。一つではない。複数の光が、隊列を組んで動いている。
「近衛隊です」
ミルフィナが伝えた。
「追ってきたの」
リヴィアが反応する。
「来ると思っていました。セレナは諦めない人です」
「まじめ魚だな」
たこまるが、帽子の上でぼそりと言った。
「人魚です」
ミルフィナが訂正した。
「まじめ人魚」
「それなら合っています」
「どのくらいの速度?」
リヴィアが尋ねた。
「人魚は泳ぎが速いです。このままだと、日暮れ前には追いつかれます」
「逃げる! ネリネ、最短でどこかに隠れられる場所は」
「鏡海に入れば、海流が乱れています。人魚でも泳ぎにくいと言われています」
「鏡海はまだ遠い?」
「一時間半ほどです」
「追いつかれるより先に着ける?」
「ぎりぎりです」
「やる。帆を全部出して」
シーラビット号が加速した。ピピが帆の索具を引いた。ベルが船体の負荷を確認しながら動き回った。たこまるが補助の操舵に入った。
しばらくは順調だった。光の点滅との距離が、縮まらなかった。
しかし、三十分ほどして、光が増えた。
「正面にも出ました」
ネリネが伝えた。
「回り込まれた?」
「別の隊が先回りしたようです」
「横は?」
「今のところいません。ただし」
「はさみうち」
「そうなります」
たこまるが帽子から顔を出した。
「横に逃げるしかないな。北か南か」
「北に行くと外海に出る。南は浅瀬。南よ。近衛は泳いでくる。浅瀬なら速度が落ちる」
「船も速度が落ちます」
ネリネが言った。
「落ちる分は帆でカバーする。南に舵を切って」
「了解です」
シーラビット号が南へ向かった。海の色が変わった。深い藍から、緑がかった浅い色へ。水底が透けて見え始めた。砂地に、海草が揺れている。
後ろの光が追ってくる。しかし速度が落ちた。ネリネの読み通りだった。
「距離が開きました」
「よし。このまま――」
「正面の光が向きを変えました。こちらに来ます」
「こっちも先読みするか」
先頭の一つの光が、他より速い。
「あれが隊長格?」
リヴィアが尋ねた。
「セレナです。速い。他より速い」
「ミルフィナ、歌で海流を操れる? あいつを少し止められる?」
「……試みます。ただし、セレナも海流を読む力があります。抗われると長くは続きません」
「少しでいい。逃げ切る時間だけ」
「分かりました」
ミルフィナが歌い始めた。
今度の歌は短かった。短く、鋭い音が三つ。それから低い音が続いた。
海面が動いた。シーラビット号の前方、セレナが来る方向の海流が変わった。逆向きの流れが生まれて、前進を押し返している。
セレナの速度が落ちた。
「効いてる」
リヴィアが叫んだ。
「長くは無理です。セレナが歌で対抗しています」
ミルフィナが苦しそうに言った。
「何分持つ」
「三分か、四分か」
「十分あれば浅瀬を抜けられる。あとは墨で煙幕を張る。たこまる、頼める?」
「いいぞ。ただし、量が多くなると風向きによって自分たちの視界も塞ぐことになる」
「分かってる。タイミングを見て」
「了解だ」
三分が過ぎた。
「もう限界です」
ミルフィナの歌が止まった。
セレナが再び速度を上げた。今度は速い。歌で対抗されたぶん、怒っているのかもしれない。
「たこまる!」
「今だ」
たこまるが墨を吐いた。
黒い墨が海面に広がった。煙のように広がって、シーラビット号の後ろを覆った。視界が消えた。向こうからこちらが見えない。こちらからも向こうが見えない。
「このまま直進!」
「了解です」
シーラビット号が墨の中を進んだ。方向は勘と、ネリネの計算だけが頼りだ。
「少し左です」
「左に三度」
「そのまま」
「維持」
しばらくして、墨が薄まってきた。
追ってくる光が、遠ざかっていた。浅瀬と墨の合わせ技で、距離が開いた。
「逃げ切れた?」
リヴィアが尋ねた。
「現時点では。ただし、一つの光だけが止まっていません」
ネリネが答える。
「セレナ?」
「おそらく。ゆっくりですが、追ってきています」
「諦めない人ね」
「言いました。諦めない人だと」
ミルフィナが言った。
たこまるが海面を見下ろした。
「また墨を吐こうか」
「量が減ってきてない?」
「減ってる。さっきのが多かった。少し待て」
「待てる状況じゃないかもしれない」
「墨は一度に使いすぎると自分にかかる。それだけは避けたい」
「なぜ」
「見た目が最悪になる」
「そこを気にするの?!」
「高貴なる深海知性体が自分の墨まみれになるのは、尊厳の問題だ」
「今は尊厳より逃走の問題!!」
ネリネが割り込んだ。
「船長。光が速くなっています」
「どのくらい」
「かなり速い。海流に乗っています。こちらに向かう流れを作っています」
「セレナが流れを操ってる?」
「そう見えます」
リヴィアは舵を握った。
海流に逆らって進むのは、帆船には辛い。帆があるから風は掴めるが、水の流れが逆向きなら速度が落ちる。引き算になる。
「風向きはどう、ミルフィナ」
「安定しています。南から」
「帆の向きを南向きに最大化して。少しでも速度を上げる」
「やります」
ピピが動いた。
それでも、光が近づいてくる。
五分後、水面から顔が出てきた。
黒髪。鋭い目。甲冑の紋章。
セレナだった。一人だった。隊の他の者は浅瀬に止まったらしい。
「まじめ人魚、単独で来たぞ」
「本当に諦めないわね」
「止まれ!」
声が飛んできた。よく通る声だ。
「止まれない!」
リヴィアが叫び返した。
「ミルフィナ様を返せ!」
「返す返さないの問題じゃない! この人が自分から来てるんだから!」
「洗脳されているのだ!」
「されてないわよ!!」
ミルフィナが舳先に出た。
「セレナ」
セレナが立ち止まって、ミルフィナを見た。
「ミルフィナ様。ご無事ですか。お怪我はありませんか。何か脅されていますか。脅されているなら、目を三回瞬きしてください」
「していません」
「念のために確認です」
「脅されていません。傷もありません。元気です」
「……しかし、あの海賊が――」
「リヴィアさんは、私を乗せてくれています。強制ではありません」
「でも懸賞金が――」
「誤解です。私が自分で乗りました」
セレナが黙った。ミルフィナの目を、真剣に見ていた。
「……自分で」
「はい」
「なぜ、そのようなことを」
「外を見たかったのです」
「外を見るのであれば、正式な手続きを踏んで――」
「手続きをすれば、許可は下りましたか」
セレナは少し考えた。
「……女王陛下と、オルカ宰相が許可されるかどうかは」
「下りません。分かっています。だから、自分で出ました」
「ミルフィナ様……」
「セレナ。今、私は怖くありません。不安でもありません。楽しいです」
セレナの顔が、わずかに崩れた。崩れた、というより、困った顔になった。
「楽しい、と言われましても」
「ですから、帰ってください」
「それはできません。命令があります」
「私を連れ戻す命令ですか」
「ミルフィナ様を連れ戻し、海賊リヴィア・シルヴェイルを拘束する命令です」
「拘束? 連れ戻すだけじゃないの?」
リヴィアが叫んだ。
「オルカ宰相からの追加命令です」
セレナが伝えた。それから、自分でも少し違和感があるような顔をした。
「……ミルフィナ様を誘拐した海賊として、身柄を確保するよう言われています」
「してないってば誘拐!!」
「命令なので」
「命令が間違ってる!!」
セレナがまたミルフィナを見た。
「ミルフィナ様。この海賊があなたを誘拐したわけではないと、本当に?」
「本当です」
「……」
セレナが長い沈黙の中で、海を見た。遠くを見た。何かを考えているような顔だった。
そのとき、たこまるが言った。
「姫さん、歌え。今だ」
「え?」
「逃げる。今の隙に」
「でも、セレナが考えています」
「考えてる間に逃げる。考え終わったら命令に戻る」
「……」
「行けるか?」
ミルフィナが少し迷った。それからリヴィアを見た。
「どうする?」
「……行きます」
ミルフィナが歌い始めた。逃げ方の歌だった。シーラビット号を中心に、外向きの海流が広がった。セレナが押し戻された。
「待て!」
「ごめんなさい、セレナ!」
ミルフィナが叫んだ。
「ミルフィナ様!!」
「元気です!」
「それは分かってます! でも命令が!!」
「また会いましょう!」
「いつ!?」
「いつかは分かりません!」
「そんな曖昧な!!」
シーラビット号が加速した。外向きの流れに乗って、速度が出た。セレナが追ってくるが、ミルフィナの歌が流れを維持している。
距離が開いた。
開いていった。
セレナの影が小さくなった。
最後にセレナの声が聞こえた。
「ミルフィナ様! 笑っていましたね!!」
ミルフィナが、甲板で小さく笑っていた。
「……聞こえましたか」
「聞こえた」
「笑っていました。本当に」
「知ってる。見てた」
「セレナは、私が笑っているのを見て、困った顔をしていました」
「困ってたね」
「あの顔は」
ミルフィナが少し遠くを見た。
「以前も、見たことがあります。私が本の話をするときに、よくする顔でした」
「どんな顔?」
「叱れない顔です」
リヴィアは少し笑った。
「そういうことね」
「セレナは、堅物ですが、やさしい人です」
「命令に従って追ってくる人が?」
「だからです。命令だから追ってくる。でも、私を見て、困った顔をする。もしセレナが本当に堅物だけなら、命令があれば迷いなく動きます。でも迷っていました」
「……確かに」
「悪い人ではありません」
「分かった。でも、今は逃げ切ったから一旦いい」
「はい」
「ところで」
たこまるが言った。
「何?」
リヴィアが反応した。
「墨が」
「墨が?」
「さっき量を使いすぎた。ちょっと出すぎた」
「どこに?」
「リヴィア、後ろを向くな」
「なんで」
「後ろを向くな」
「向くわよ」
リヴィアが後ろを向いた。
帆の半分が黒くなっていた。
「……」
「さっき風向きが変わったとき、少し流れた」
「帆が黒い」
「少し黒い」
「かなり黒い」
「洗えば落ちる」
「落ちるの?」
「……落ちると思う。たぶん」
「たぶん?!」
「ベルに頼め」
「ベル!!」
「……」
ベルが帆を見た。
「頑張る」
いつも通りの小さな声だった。
「頑張るだけ?!」
「……たこまるさんのせいなので」
「おれのせいか」
「墨を吐いたのはたこまるさんです」
「緊急事態だった」
「帆が黒いです」
「緊急事態だった!!」
ピピが笑い始めた。
「黒い帆も、かっこいいですよ!!」
「かっこよくない!! 目立つだけ!!」
ミルフィナが、冷静に呼んだ。
「リヴィアさん」
「何」
「逃げ切りましたね」
「……逃げ切った。帆が黒くなったけど」
「でも逃げ切りました」
「まあね」
「根性がありました」
「今回は根性と、海流の計算と、墨の煙幕と、あなたの歌があったから」
「全部で逃げ切りました」
「そうね。全部で」
たこまるがぽつりと言った。
「追手が来るたびにこの船の帆がどんどん黒くなっていくのか。それはそれで味があるな」
「味じゃない!!」
夕方、シーラビット号は浅瀬を抜けて、また深い海に出た。セレナの光は見えなかった。
夜になってから、ネリネがリヴィアに報告した。
「セレナ隊長のもとに、何か信号が届いたようです。後方でしばらく光の点滅が続いたあと、引き返しました」
「追うのをやめた?」
「今のところは。ただし、信号の内容は分かりません」
「オルカからの命令かもしれない」
たこまるが言った。
「何の命令?」
「追跡の続行か、別の指示か。分からないが、オルカが動いているなら、放っておかない」
「セレナは、追跡を続けますか」
ミルフィナが尋ねた。
「続けると思う。でも今夜は来ない」
リヴィアが答えた。
「……セレナが、オルカの命令に疑問を持ってくれればいいと思います」
「難しいんじゃない。命令に従う人なんでしょ」
「でも、今日、迷っていました。私が笑っているのを見て、迷っていました。あの顔は、何かを考え始めた顔です」
リヴィアは空を見た。星が出ていた。
「……それに期待するのは難しい」
「期待ではなく、希望です」
「同じじゃない?」
「期待は相手に求めることです。希望は自分が持つことです」
リヴィアは少し黙った。
「……どこで覚えたの、そういう言い方」
「本に書いてありました」
「何の本」
「海賊小説です」
「海賊小説にそんなことが書いてあるの」
「登場人物が言っていました。嵐の前に」
「嵐の前に言う台詞がそれ?」
「その後、嵐を乗り越えました」
「……そうね」
たこまるが帽子の中から言った。
「おまえら、明日には鏡海に入る。今夜は早く寝ろ。疲れてる」
「たこまるが寝ろと言うのは珍しい」
リヴィアが突っ込んだ。
「めずらしくない。疲れてる時は言う」
「いつも起きてるじゃない」
「おれは寝てなくても平気だ。おまえらは違う」
「……そうね」
「特に、ミルフィナを寝かせろ。歌を二回使った。消耗してる」
ミルフィナが少し驚いた顔をした。
「分かるのですか」
「顔色が分かる。人間よりは少ないが、疲弊した時の色がある」
「……気づいていませんでした」
「おまえは自分のことに鈍い。ネリネ、案内してやれ」
「承知しました。ミルフィナさん、こちらへ」
ミルフィナがリヴィアに向いた。
「おやすみなさい、リヴィアさん」
「おやすみ。ゆっくり休んで」
「はい」
ミルフィナがネリネと船室に向かった。
甲板に、リヴィアとたこまるだけが残った。
「たこまる」
「何だ」
「セレナに追加の命令を出したのが、本当にオルカなら」
「ああ」
「拘束、って言ってた。連れ戻すだけじゃなくて、わたしを捕まえる命令」
「聞いた」
「ただ邪魔なだけなら、追い払えばいい。でも捕まえる理由は」
「おまえたちが冠に近づきすぎているか。あるいは、ミルフィナが外で何かを知ることを恐れているか」
「壁画の話を、誰かに教わる前に止めたい?」
「かもしれない」
「……面倒なことになってきた」
「最初から面倒だった」
「もっと面倒になってきた」
「それが冒険だ」
リヴィアは星を見た。
「根性で乗り越えるしかないわね」
「根性だけじゃ足りないが」
「でも根性はいる」
「それは認める」
波の音が続いた。
シーラビット号は、鏡海に向けて、夜の海をゆっくりと進んでいった。黒くなった帆が、月明かりの中で少し光っていた。




