Voyage 7 空飛ぶクラゲの島
鏡海への道は、穏やかだった。
ルーコ島を出てから半日、シーラビット号は南東へ進んだ。海の色が少しずつ変わっていく。青から、深い藍へ。水面の光り方も違う。波が小さくなって、鏡のように凪いでいく。
「鏡海が近い」
たこまるが言った。
「どうして分かるの?」
リヴィアが尋ねた。
「海の匂いが変わる。深いところの水が混じってくる」
「人間には分からない匂いね」
「そうだ。おれと姫さんには分かる」
ミルフィナが甲板の端で海を見ていた。
「はい、分かります。深海の流れが、ここまで上がってきています」
「遺跡が近い、ということ?」
「遺跡かどうかは分かりません。でも、この海域の底に何か大きなものがあります。水の動きが、それを中心に回っています」
「遺跡の可能性が高いです。現在地と地図の記載が一致します。ただし――」
ネリネが地図を確認しながら言って、空を見上げた。
「あれは何ですか」
他のみんなも空を見た。
白い。大きい。ゆっくりと動いている。
「クラゲ?」
ピピが尋ねた。
クラゲらしきものが、空を飛んでいた。
一匹ではない。十匹、二十匹、もっと多い。大きさは様々で、小さいものは傘が一メートルほど、大きいものはシーラビット号の帆ほどもある。半透明の体が光を通して、日差しの中で虹色に輝いていた。触手は長く、空中に漂っている。
「本物のクラゲですか?」
ミルフィナが尋ねた。
「本物ね。空飛ぶクラゲは、この海域に出るって聞いたことがある。実際に見たのは初めてだけど」
「なぜ飛ぶのですか?」
「知らない。魔法の潮流がある海域で、ときどきこういうことが起きるって聞いた。理屈は分からない」
「綺麗です」
確かに綺麗だった。虹色のクラゲが空に浮かんで、ゆっくりと流れていく。日差しを透かして、甲板に色のついた影を落としている。
「これが空飛ぶクラゲの島ですか」
ネリネが地図を確認した。
「地図にはクラゲ群島と記載されています。島がクラゲの群れに囲まれているようです。さらに、ここに注記があります」
「なんて書いてある?」
「壁画あり、と」
「壁画」
「星潮の冠に関する古い記録があると、シェリーから聞きませんでしたか」
「聞いた。壁画があるって言ってた」
「この島がそうかもしれません」
島の影が見えてきた。小さな島だ。岩が多くて、草木はほとんどない。でも、島全体がクラゲに囲まれている。空から見ればきっと、島が白い輪の中にあるように見えるだろう。
「上陸できる?」
リヴィアが尋ねた。
「船を近づけてみます」
ネリネが答えた。
シーラビット号がゆっくりと島に近づいた。クラゲが増えてきた。船の周囲にも漂い始めた。
そのとき、大きなクラゲがシーラビット号の帆に触れた。
船が浮いた。
正確には、少し持ち上がった。甲板が傾いて、全員が踏ん張った。
「なんで!?」
「クラゲが帆を掴んでいます!」
ネリネが叫んだ。
確かに、大きなクラゲが触手を帆に絡めていた。そのまま上昇しようとしている。船首が持ち上がった。ピピが転がった。たこまるが操舵輪にしがみついた。ベルは甲板の縁を片手で掴んで、もう片手で錨のロープを押さえた。
「船長ぉ! 空を飛んでます!」
ピピがどこか嬉しそうに叫ぶ。
「飛んでない! 持ち上げられてるだけ!」
「違いが分かりません!」
「わたしも今は分からない!」
「おれは飛行生物ではない!」
「誰もそこは聞いてない! ネリネ、とにかく帆を降ろして!」
「降ろすと風が掴めなくなります!」
「今は風より高度の問題!!」
帆が降りた。クラゲが帆を離した。シーラビット号がゆっくりと海面に戻った。
全員が荒い息をついた。
「……宙吊りになるところだった」
リヴィアは、手すりにしがみついたまま固まっていた。
「クラゲが帆を持ち上げようとしていました。なぜそういう行動を取るのか、分かりません」
ネリネが上空を見た。
「縄張りを守っているのかもしれません」
ミルフィナは、海面のクラゲたちに目を向けた。
「クラゲに縄張りが?」
「海のクラゲも、群れが来ると流れを変えて追い払おうとします。この子たちも、外から来るものを島に近づけたくないのかもしれません」
「じゃあ、上陸できない?」
「説得できれば、できると思います」
「クラゲを説得?」
「歌で、話しかけることができます」
リヴィアはミルフィナを見た。
「やれるの?」
「試してみます。保証はできません」
「でも、やれる?」
「はい」
「分かった。やって」
ミルフィナが舳先に立った。空を飛ぶクラゲたちが、ゆっくりと漂っている。一番近い大きなクラゲが、また触手を伸ばしてきた。
ミルフィナが歌い始めた。
言葉のない歌だった。高くも低くもない、中間の音域で始まって、少しずつ低くなっていく。波の音に似ている。でも、波の音より規則的で、繰り返しがある。
クラゲが止まった。
触手を引いて、その場で揺れている。ゆっくりと、ゆっくりと。
ミルフィナの歌が続いた。音が変わった。問いかけるような音になった。上がって、下がって、また上がる。
クラゲが動いた。
触手を広げて、ゆっくりと揺らした。答えているような動きだった。
ミルフィナが歌い続けた。今度は少し違う音が混じった。お願いするような、柔らかい音だった。
クラゲが後退した。
一匹が引いた。二匹が続いた。群れがゆっくりと分かれていった。島への道が、少しだけ開いた。
ミルフィナが歌を止めた。穏やかに息を吐いた。
「通れると思います」
「……話せたの?」
リヴィアが尋ねた。
「話せたかどうかは分かりません。でも、伝わったと思います。通ってもいい、という気持ちは」
「クラゲに気持ちがあるの?」
「あると思います。分かる気がします」
「すごい」
ピピが目を輝かせた。
「すごいな」
たこまるが珍しく素直な声だった。
「では上陸します」
ネリネが伝える。
島への上陸は慎重だった。クラゲが道を開けているが、近づくと触手がすぐそこにある。ボートで島の岩場に近づいて、ロープで固定した。
岩場は滑りやすかった。ミルフィナが足をとられてよろけた。リヴィアが反射的に手を出した。ミルフィナの手を掴んだ。
「大丈夫?」
「はい。ありがとうございます」
手を離そうとしたら、ミルフィナが少し力を込めた。
「もう少し、持っていてもらえますか。岩が不安なので」
「……分かった」
手を繋いだまま、岩場を進んだ。リヴィアは前を向いていた。顔が少し赤かったが、それは岩場が急だからだと自分で思うことにした。
たこまるは何も言わなかった。ただ、リヴィアの肩の上で八本の足を組んでいた。
島の内側に入ると、岩壁があった。
大きな岩壁だ。高さは十メートルほど。表面は長い年月で滑らかになっている。そこに、彫刻が刻まれていた。
「壁画だ」
リヴィアたちは近づいて見た。彫刻は細かく、大きな場面がいくつも連なっている。
最初の場面は、海の底を描いていた。珊瑚の都市と、人魚たちが描かれている。
次の場面は、海の上だった。船と、人間たちが描かれている。
その次の場面に、二つが一緒に描かれていた。人魚と人間が、同じ海を泳いでいる。船の上に人魚がいる。人間が海の底にいる。境界がない。
「かつて、人魚と人間が共に海を渡っていた時代があったのですね」
「そういう伝説は聞いたことがある。でも、今は違う。人魚は海底で、人間は陸で」
リヴィアが言った。
「いつから分かれたのですか?」
「知らない。昔々、とにかく昔、何かがあったんだと思う」
壁画の続きを見た。
ひとつの場面に、冠が描かれていた。光を放つ冠で、それを持つ人物の周囲に、人魚も人間も集まっている。
「星潮の冠だわ」
「絵の中の冠を持っているのは、人間でも人魚でもないですね」
ミルフィナが言った。
「どっちにも見える」
「両方に見えます」
ネリネが手帳に書き写し始めた。ピピが「なんか難しいですね」と言った。ベルが岩壁の強度を確かめるように手で押していた。
たこまるが、ひとつの場面の前で止まった。
「……おい、リヴィア」
「何」
「これを見ろ」
たこまるが足の一本で指した場面は、小さかった。壁画の端の方に、ひっそりと刻まれていた。
タコの形をした生き物が、冠の近くにいる。丸い体に、短い足が八本。
「これ、たこまるに似てる」
ピピが突っ込んだ。
「おれに似てる、じゃなくて……これが、何なのか、少し分かる気がする」
「守護獣?」
リヴィアが尋ねた。
「そんな気がする。なんとなく。ちゃんとした記憶はないが」
「たこまるは、自分の過去を覚えてないの?」
「断片的にしか覚えてない。どこで生まれたかも、いつからここにいるかも、よく分からん。ただ」
たこまるが壁画をじっと見た。
「この場所を、見たことがある気がする。絵の中じゃなくて、本物の場所として」
誰も何も言わなかった。
風が吹いた。クラゲが上空でゆっくりと揺れた。
「最後の場面はどんな絵なのか、とても気になります」
ミルフィナが呟いた。
壁画の終わりまで進んだ。
最後の場面は、壁画の中で一番大きかった。
冠が、二つに割れていた。人魚と人間が、冠を挟んで向かい合っている。間に何かが起きていて、海が荒れている。境界が引かれている。線の片方に人魚、片方に人間。
「分かれた理由が描いてある」
リヴィアが言った。
「でも、何があったかは読めません。文字が刻まれているようですが、今は使われていない古い文字です」
ネリネが伝えた。
「解読できない?」
「持ち帰って調べることはできますが、今すぐには」
「ミルフィナ、分かる?」
「少し。海底王国の古い儀式文字に似ています。全部は読めませんが……」
壁画の文字を指でなぞった。
「誰かが、冠を割った。それが、今の分断の始まりと書いてあります」
「誰かって誰?」
「読めません。でも、意図的に割ったと書いてあります。偶然ではなく」
「冠を割ることで、人魚と人間を引き離した?」
「そう読めます」
リヴィアは腕を組んだ。
「シェリーから聞いた話と違う。冠は海と空の境界を開く宝だって言ってたけど、それだけじゃない」
「開くこともできれば、閉じることもできる。使い方次第で、どちらにもなる」
たこまるが言った。
「オルカが冠を求めているのは、閉じるためね」
「おそらく」
ミルフィナが壁画を見つめていた。
「リヴィアさん」
「何」
「王宮で教わった歴史では、人魚と人間は最初から別の世界に住んでいたと言われていました」
「違うみたいね、この壁画によると」
「はい。でも、なぜ王宮はそう教えるのですか。分かれる前の歴史を、なぜ隠すのですか」
「知られたくない理由があるから」
「……誰かが、冠を割った。その誰かは、王国に関係していますか」
リヴィアは答えられなかった。分からないからだ。でも、ミルフィナが何を不安に思っているかは分かった。
「今は分からない。でも、調べれば分かる。遺跡に手がかりがあるかもしれない」
「遺跡は、まだ先ですか」
「うん。でも、ここでこれだけ分かった。まだ先がある」
「はい」
たこまるが壁画から目を離した。
「戻るか。クラゲが待ってる」
「クラゲは待たないわよ」
「あの子たちは待ってます。通っていいか、確認しています」
「……そうなの」
「早く戻った方がいいと思います。長居すると、また閉じるかもしれません」
一行は岩場を戻った。ミルフィナがまた足をとられた。またリヴィアが手を出した。今度はミルフィナが先に手を伸ばしてきた。
「ありがとうございます」
「気をつけて歩いて」
「はい」
手を繋いだまま、岩場を降りた。
ボートに乗り込むとき、たこまるが小声で言った。
「おまえら、いつまで手を繋いでる」
「岩場が終わったら離した」
「二分前に岩場は終わった」
リヴィアは手を離した。ミルフィナは何も言わなかった。少しだけ微笑んでいた。
シーラビット号に戻ると、クラゲが少し遠ざかっていた。ミルフィナが小さく歌った。お礼のような音だった。クラゲが触手を揺らした。
「伝わった?」
リヴィアが尋ねた。
「たぶん」
ミルフィナが答えた。
「クラゲにお礼を言うのね」
「来させてもらったので」
「そういう感覚、人間はあまり持たない」
「そうですか?」
「わたしは持ってなかった。海に対して」
「これからは持てるかもしれません。私がいれば、教えられます」
「……じゃあ、教えて」
「はい」
「いつ?」
「今夜でも」
「今夜、何を教えるの」
「海の聞き方を」
「海の聞き方?」
「波の音の意味を、少し教えられます。全部は無理ですが、少しなら」
リヴィアは少し考えてから言った。
「……じゃあ、今夜」
「はい」
たこまるが帽子の中で丸まりながら言った。
「甲板で二人で夜の海の授業か。ロマンチックだな」
「授業よ。ただの授業」
「そうだな。ただの授業だな」
「そうよ」
「ただの授業で顔が赤くなるのは珍しい」
「岩場が暑かったの!」
「岩場はとっくに離れた」
「うるさい!!」
船に戻ってからも、リヴィアは壁画の線を思い出していた。
星潮の冠。海と空。人魚と人間。そして、海の生き物たちに囲まれた古い航路。
ただの伝説ではない。あの壁画は、何かを残そうとしていた。
「ミルフィナ」
「はい」
「あんたの歌、ただ海流を動かすだけじゃないのね」
ミルフィナは少し考えた。
「私にも、まだよく分かりません。でも、クラゲたちは聞いてくれました」
「聞いてくれた、か」
リヴィアは海を見た。
「じゃあ、それも手がかりね。星潮の冠は、力ずくで探すものじゃないのかもしれない」
ピピが走ってきた。
「船長! 次どこ行くんですか!」
「遺跡よ。鏡海の遺跡」
「やった! 遺跡!」
「やったと言えるような場所かどうかは分からないけど」
「行けば分かります!」
「そうね」
クラゲが遠ざかっていく。島が小さくなっていく。壁画のことを考えた。冠が割れた場面。人魚と人間が引き離された場面。
そして、たこまるに似た守護獣の絵。
分からないことが増えた。でも、分からないことが増えるのは、進んでいる証拠だとリヴィアは思うことにした。
「行くわよ」と言った。
「はい」
ミルフィナが答えた。
「了解」
たこまるも答えた。
シーラビット号は、鏡海に向けて進み始めた。空のクラゲが、遠くで虹色に光っていた。




