Voyage 6 赤いコートのライバル船長
翌朝、シーラビット号の前にローザの船が現れた。
ヴァーミリオン号は大きかった。シーラビット号の五倍はある。帆は三枚、船体は黒く磨かれ、舳先には薔薇の形をした飾りがついている。旗には金色の炎の紋章が入っていた。乗組員も多く、甲板に十人以上が見えた。
「……でかい」
ピピが興味深そうにそう叫び、
「前よりもでかくなってる。また新調したのね」
リヴィアが悔しそうにこう言い、
「稼ぎも、おそらくうちよりずっと多いです」
ネリネが冷静にこう突っ込んだ。
「いいから黙って」
ヴァーミリオン号から小舟が降りてきた。
ローザが一人で漕いできた。シーラビット号の舷側に手をかけて、するりと甲板に上がってくる。動きに無駄がない。リヴィアが同じことをやると必ずどこかに足を引っかける。
「おはよう、リヴィア」
「なんで来たの?」
「勝負を持ちかけに来た」
「断る」
「まだ内容を言ってない」
「ローザの勝負はろくなことにならないから」
「失礼ね」
ローザは周囲を見回して、ミルフィナを見つけた。
「おはよう、ミルフィナ」
「おはようございます」
ローザがミルフィナに向かって笑うのを、リヴィアは横目で見た。感じが悪い笑い方ではない。それがなぜか余計に感じが悪かった。
「昨日の羅針盤、使ってみた?」
「まだです。でも、面白いことに気づきました」
「そう。賢いわね」
「ありがとうございます」
「ローザ」
リヴィアが割り込んだ。
「勝負の内容を言いなさい。聞くだけ聞く」
「はいはい」
ローザは向き直った。
「簡単よ。次の島まで、先に着いた方の勝ち」
「それだけ?」
「それだけ。ただし、勝った方が負けた方に何か要求できる」
「何を要求するの」
「あたしが勝ったら、星潮の冠の手がかりを教えて」
「持ってないわよそんなもの」
「シェリーから地図を買ったでしょ」
「……」
「持ってるじゃない」
リヴィアは腕を組んだ。
「わたしが勝ったら?」
「何でも言っていいわ」
「追跡をやめる、という要求は?」
「追いかけてないけど、まあいいわ」
「あと懸賞金の件を王国に証言する」
「人魚姫を自分でさらったわけじゃないって?」
「そう」
「いいわよ」
ローザはあっさりと言った。
リヴィアは少し驚いた。もっと渋ると思っていた。
「……簡単に頷くのね」
「あなたが誘拐してないのは昨日見れば分かる。ミルフィナがあの顔で自分から来ているのに、誘拐なわけがない」
「じゃあ最初から証言してくれればいい」
「それだと面白くないでしょ」
「あなたの面白さのために懸賞金がかけられてるの?!」
「細かいことは気にしない。どうする、勝負する?」
リヴィアは考えた。
正直、勝てる気がしなかった。船の速度はヴァーミリオン号の方が上だ。帆の枚数も、乗組員の数も、経験も。純粋な航海勝負なら、シーラビット号に分がない。
でも、負けを認める気にもなれなかった。
「……乗った。やる」
「いい返事ね」
ローザが小舟に戻る前に、ミルフィナに向き直った。
「健闘を祈るわ、ミルフィナ。あなたの船長を応援してあげて」
「はい。リヴィアさんなら、きっと勝ちます」
「そう思う?」
「思います」
「なぜ?」
「根性があるからです」
ローザが笑った。こんどは心から笑っているような声だった。
「いい子ね」
そう言って、ローザは去った。
残されたシーラビット号の面々は、甲板の上で互いを見た。
「……勝てるかしら」
「難しいです」
ネリネが言った。
「もう少し希望のある言い方をして」
「難しいですが、不可能ではありません」
「どうすれば勝てる?」
「速度では勝てません。ただし」
ネリネが地図を広げた。
「次の島、ルーコ島までの航路は一本ではありません。ヴァーミリオン号は大型船なので、浅瀬を通れない。シーラビット号は小型なので、岩礁の間を通れます。近道になる可能性があります」
「あるじゃない。希望が」
「ただし、岩礁の間は航路が複雑です。地図を正確に読む必要があります」
全員の視線がリヴィアに集まった。
「……正しい向きで持てばいい話よ」
「それだけではなく、読む精度の問題です」
「ネリネが読めばいい」
「私が読んで、船長が舵を取る形にすれば問題ありません」
「決まり。ピピ、帆を全部出す準備。ベル、船体の確認をもう一度。たこまる、補助の操舵を頼むわ」
「高貴なる深海知性体を操舵係に使うな」
たこまるはそう言いながらも操舵輪に向かった。
ピピは索具の方へ走りながら、振り返って親指を立てた。
「船長、今日は絶対に勝ちましょう! 速い船に勝つ小さい船、かっこいいです!」
「そういうところだけは分かってるわね」
ベルは船縁を軽く叩き、きしみを聞いた。
「……無理はできる。でも、無茶は少しだけ」
「分かった。少しだけ無茶する。出航は三十分後。それまでに準備を終わらせる」
「承知しました」
ネリネが応えた。
ミルフィナがリヴィアの隣に来た。
「私は何をすればいいですか」
「あんたは安全な場所で見てて」
「でも、何か手伝いたいです」
「海流を読める? 風の向きとか」
「歌で、ある程度は分かります。はっきりとは言えませんが」
「じゃあ、風の変わり目を感じたら教えて。帆の向きを早めに変えられる」
「分かりました」
リヴィアは舳先の方を向いた。
「勝つわよ」
「はい」
「根性で」
「はい」
「……実際には航路の計算と岩礁の近道と風向きの判断が必要だけど」
「根性もあります」
「そうね。根性もある」
たこまるが操舵輪のそばから言った。
「出発前から喋りすぎだ。準備しろ」
勝負は正午に始まった。
ヴァーミリオン号が大きな帆を広げると、風を掴んで勢いよく動き出した。シーラビット号も負けじと帆を張ったが、速度の差は歴然だった。開始から十分で、ヴァーミリオン号はシーラビット号より一船身前に出た。
「ネリネ! 岩礁への入口は!」
「現在位置から北北東、二キロです。ただし、入口が狭いので減速が必要です」
「ヴァーミリオン号に気づかれる前に入れる?」
「タイミングによります。今すぐ舵を切れば、入口に先に到達できます」
「切る!」
シーラビット号が北北東へ舵を切った。ヴァーミリオン号はまっすぐ進んでいく。
「向こうが気づいた。ローザが甲板で笑ってるのが見える」
たこまるが伝えた。
「笑ってるの?」
「楽しそうに笑ってる」
「腹が立つ」
「集中しろ」
岩礁が見えてきた。海面から岩が突き出していて、その間に細い水路がある。大型船には入れないが、シーラビット号なら通れる。通れるはずだ。
「入口を通過します。速度を落としてください」
ネリネが注意を促した。
「どのくらい」
「半分以下です」
「それだと時間が――」
「当たったら終わりです」
「……分かった。落とす」
シーラビット号が減速した。岩礁の入口に滑り込む。両側に岩が迫っている。ぎりぎりの幅だ。
「左へ三度」
「三度」
「右へ少し。もう少し。止めて」
「止めた」
「前進、ゆっくりと」
たこまるが補助の操舵をしながら、同時に前方の岩を見ている。足が八本あるので、操舵と見張りを同時にこなせる。
「次の曲がり角は鋭いです。手前で一度止めます」
「止めると時間が……」
「岩に乗り上げると全部終わります」
「止める!!」
シーラビット号が一度止まった。ゆっくりと角度を変えて、また進む。
「ミルフィナさん、風向きはどうですか」
ネリネが尋ねた。
「今は安定しています。でも、少し先で変わりそうです。東から来る風が強まります」
「どのくらい先ですか」
「……十分から十五分程度だと思います。はっきりは分かりません」
「十分あれば、岩礁を抜けられます。その前に帆の向きを変えておきます」
「はい」
岩礁の中を進む。外からは海が見えない。岩と岩の間の細い空だけが見える。波の音が反響して、方向感覚が少し狂う。
「リヴィアさん」
ミルフィナが呼んだ。
「何」
「大丈夫ですか」
「大丈夫よ。なんで」
「顔が少し青いです」
「岩礁の中は揺れが少ないから、船酔いはしてない」
「では、何ですか」
「……緊張してる」
「そうですか」
「岩に当たったら負けどころか沈むから」
「怖いですね」
「怖い」
「でも、舵を持っています」
「持ってる」
「離しませんね」
「離さない」
「では、大丈夫です」
リヴィアは前を向いたまま、少し息を吐いた。
「……そういうこと、さらっと言うのね」
「本当のことを言いました」
「さらっとすぎる」
「次の曲がり角です」
ネリネが伝えた。
「分かった」
また慎重に角を曲がった。
それから三度、曲がり角を越えた。一度、岩に船腹を軽く擦った。ベルが素早く確認して「傷だけで穴は空いていない」と言った。
岩礁を抜けたのは、勝負開始から四十分後だった。
出たところで、ミルフィナが伝えた。
「風が変わります。今です」
「帆を東向きに!」
ピピが索具を引いた。帆が向きを変えた。
ちょうどそのとき、東からの風が来た。帆が膨らんで、シーラビット号が加速した。
「……いい風」
リヴィアが呟いて、
「ミルフィナさんのおかげです」
ネリネが褒めた。
「ルーコ島まで、あとどのくらい」
「このペースで二十分です」
「ヴァーミリオン号は?」
「岩礁を迂回しているはずなので、現在位置が分かりません。ただし、先に抜けていれば――」
「すでに島についてるわね」
「可能性はあります」
リヴィアは唇を噛んだ。
二十分後、ルーコ島の影が見えてきた。
島の手前の入り江に、ヴァーミリオン号が停まっていた。
「……先についてる」
「そうですね」
ネリネが言った。
「負けた?」
「ヴァーミリオン号が入り江に入ったのがいつかによります。シーラビット号が入り江に入る時刻と比較する必要があります」
「いつ入ったか、向こうに聞かないと分からない」
「そうなります」
シーラビット号が入り江に入ると、ヴァーミリオン号の甲板にローザが立っていた。
「どちらが先だったかしら」
ローザが叫んだ。
「そっちが先でしょ!」
リヴィアが叫び返した。
「三分よ」
「え?」
「私が着いたのは三分前。岩礁を抜けてからの風がよかったでしょ。あの風を掴んだのは見事だったわ」
「三分差?」
「あなたたちの負けよ、でも――」
ローザは少し間を置いた。
「面白い勝負だった。認めるわ」
リヴィアは口を閉じた。三分差だった。岩礁の近道は機能した。風も掴んだ。でも足りなかった。
「……悔しい」
「そう言える方が潔いわよ。それで、要求を聞いてくれる?」
「地図の話でしょ」
「見せてほしいだけよ。複製は要らない。ただ、どこへ向かっているか確認させて」
リヴィアは少し考えた。地図そのものを渡すのではない。見せるだけなら、情報が流れるとしても限度がある。それより、ローザが今動こうとしていることの方が気になった。
「……別の情報を先にくれたら、見せる」
「何が欲しい?」
「昨日、シェリーはあちこちに情報を売るって言ってたわよね。あれ、ほかにも買い手がいるって意味でしょ。誰?」
ローザの表情が少し変わった。からかう色が消えて、真剣な色になった。
「勘がいいわね」
「教えて」
ローザは少しだけ周囲を見た。
市場のざわめきに紛れるくらいまで声を落として、言った。
「オルカ宰相。海底王国の宰相よ」
ミルフィナが、小さく息を飲んだ。
「オルカが」
ミルフィナの声が少し低かった。
「知ってる?」
ローザがミルフィナを見た。
「宰相は……王国で、母の次に力を持っている方です。でも、なぜ」
「海と陸の交流を閉ざしたい、という思想を持っているらしいわ。星潮の冠を使えば、それができる。そのために冠を探している」
「冠は、海を閉ざす道具にもなるの?」
リヴィアが尋ねた。
「使い方による、と聞いた。あくまで噂の範囲だけれど、信頼できる筋から聞いた話よ」
ローザがそう伝えると、甲板が静かになった。波の音だけが続いた。
「……これは、無料で教えてくれるの?」
「地図の件は勝負の要求よ。これは別。ただし、条件がある」
「何?」
「オルカの動きを探ったら、教えて。私もあちこちから情報を集めているけれど、あなたたちは直接当事者に近い」
リヴィアはミルフィナを見た。ミルフィナは少し考えてから、頷いた。
「分かった。情報は共有する」
「じゃあ、地図を見せて」
リヴィアは地図を取り出した。ローザが小舟でシーラビット号に移ってきて、横に並んで地図を見た。
「鏡海の遺跡ね」
「そこに手がかりがあるらしい」
「私もその方向を考えていた。先に見つけた方が多く知っている、ということにしましょう」
「また勝負するの?」
「勝負というより、競争よ。別に示し合わせて一緒に行く必要もない」
「そうね」
ローザが地図から目を上げた。
「リヴィア」
「何」
「今日の岩礁、よかったわよ。三分差まで詰めた」
「負けは負けよ」
「でも、やり方は悪くなかった。船長らしかった」
リヴィアは何も言わなかった。
「それと」
「まだある?」
「ミルフィナ」
ローザが隣を見た。
「あなたが風向きを読んだでしょ」
「少しだけ分かったので」
「あれがなかったら、もっと差がついていた。よく教えたわ、リヴィア」
「教えてない。本人が申し出てきた」
「そう。だったら、なおさらよかった」
ローザが小舟に戻る前に、もう一度ミルフィナを見た。
「また会いましょう、ミルフィナ。あなたといると、面白そうだから」
「私もそう思います」
ローザが去った。
リヴィアは腕を組んだ。
「……」
「船長」
たこまるが呼んだ。
「何」
「海より分かりやすいぞ」
「何が」
「顔が」
「どんな顔してる?」
「不機嫌な顔」
「不機嫌じゃない」
「ローザがミルフィナと話すたびに眉が下がってた」
「下がってない」
「たこまるさん、正確です」
「あんたも言わないで!!」
ピピが走ってきた。
「船長! 惜しかったです! でも岩礁の近道はすごかったです!」
「……ありがとう」
「次は勝てます!」
「次があるかは分からないけど」
「あります! ローザさんとまた会うと思います!」
ピピは根拠なく確信している顔だった。それがなぜか腹立たしくなかった。
「……そうね。また会うわね」
ミルフィナがリヴィアの隣に並んだ。
「リヴィアさん」
「何」
「今日、かっこよかったです」
「負けたわよ」
「でも、三分差でした」
「負けは負けよ」
「それでも、岩礁を抜けるとき、怖かったのに舵を離しませんでした」
「……」
「それが、かっこよかったです」
リヴィアは前を向いた。
「次は勝つ。先に着く」
「はい」
「根性で」
「根性と、航路の計算と、風向きの判断で」
「……そうね。それも全部込みで」
たこまるが帽子から言った。
「出航前から次の勝負の話をするな。今は食事と休憩だ」
「分かってる」
「腹が減ると判断が鈍る。それだけは覚えとけ」
「覚えてる」
「おまえが覚えてるかが毎回怪しい」
「覚えてるわよ!!」
ルーコ島の入り江に、夕日が降りてきた。
シーラビット号は静かに浮かんでいた。くたびれた帆が、橙の光を受けていた。
リヴィアは操舵輪に手を置いたまま、しばらく立っていた。岩礁の近道。ミルフィナの風向きの読み。全部合わさって、三分差だった。
悔しかった。
でも、悪くない勝負だったとも思った。
両親のような航路ではなかった。でも、自分が考えた航路で、その差まで詰めた。
「次は勝つ」と、小さな声で宣言した。
誰にも聞こえない声で。
夕日が、海を赤く染めていた。




