Voyage 5 歌う貝殻市場と呪われた羅針盤
翌朝、ネリネが伝えた。
「補給が必要です」
朝食の干物が、昨日より薄かった。
リヴィアは気づかないふりをしたが、たこまるが「食材が底をつく前に港へ寄れ」と言ったので、気づかないふりができなくなった。
「分かってる。でも懸賞金が掛けられてるから、普通の港には寄れない」
「そのために、この航路を取っています」
ネリネが地図を広げた。
「ここを見てください。この海域に、シェルマーケットという市場があります」
「シェルマーケット?」
「巨大な貝殻の内部に作られた海上市場です。港町ではないので、王国の目が届きにくい。また、出入りする人間も多種多様で、懸賞金が掛けられた海賊を見かけても、大抵は気にしません」
「怪しい人間ばかりが集まる場所ということ?」
「怪しいというより、詮索しない人間が集まる場所です」
「同じようなもんじゃない」
「若干違います。寄りますか」
ネリネは確認を取った。
「寄る」
リヴィアはすぐに答えた。シェルマーケットまで、半日の距離だった。
航路を変えてしばらく進むと、海面に白いものが見えてきた。最初はただの岩だと思った。近づくにつれて、それが岩ではないと分かった。
「でかい」
ピピが言った。確かにでかかった。巨大な二枚貝が、海面にそびえていた。開いた貝殻の内側は白く光り、その中に建物が詰まっている。木造の店が貝殻の内壁に沿って並び、吊り下げ式の橋が上下を繋いでいる。貝の縁には旗が立ち、色とりどりの布がぶら下がって風にゆれていた。
貝殻の外側には、小さな船が何十艘も係留されていた。シーラビット号もその中に混じって停めた。
「来た!」
ピピが甲板から身を乗り出した。
「シェルマーケット! 来たことなかったです!」
「はしゃぐな、落ちる」
「大丈夫です!」
「落ちてから言え」
ミルフィナが舳先から市場を見ていた。目がいつもより少し大きくなっている。
「人間の市場は、こういうものなのですか」
「普通の市場は貝の中じゃないけど。まあ、雰囲気は似てる。賑やかで、狭くて、いろんなものが売ってる」
リヴィアが答えた。
「楽しそうです」
「楽しいわよ。でも、はぐれるから気をつけて。それとあまり目立たないようにね」
「目立つ、というのは」
「人魚が人間の服を着て歩いてたら目立つから、という意味よ」
ミルフィナは自分の服を見た。王宮で着ていたものをそのまま着ている。薄い青の生地に、白い刺繍。素材が違う。水に濡れても傷まない、海底の布だ。
「これは目立ちますか」
「かなり」
「では……」
「ネリネ、何か貸してあげて」
「私の服は丈が合いません」
「ピピは?」
「小さすぎます」
「ベルは?」
「大きすぎます」
リヴィアは少し考えた。
「わたしのを貸す」
船長室から古いコートを引っ張り出してきた。リヴィアのものだから、少し大きい。ミルフィナが袖を通すと、裾が膝まで来た。
「これは海賊のコートですか」
「わたしの二着目。普段使いしてたやつだから、くたびれてるけど」
「いいえ。嬉しいです」
「コートを嬉しがらないで」
「海賊のコートです」
「古いコートよ」
「でも、リヴィアさんのです」
たこまるが頭の上から言った。
「おまえら、行く前から時間を使いすぎだ。さっさと行け」
シェルマーケットの中は、外から見るより広かった。
貝殻の内壁に沿って、何十もの店が並んでいる。魚の干物、香辛料、ロープ、灯油、船の部品、布、薬草。普通の品物の隣に、明らかに普通ではない品物が置いてある。光る砂、うごめく珊瑚、瓶に入った霧、歌い続ける貝殻。
歌い続ける貝殻は、文字通り歌っていた。並べられた貝殻が、それぞれ違う音を出し続けていて、合わさると奇妙な和音になっている。
「なんですか、これは」
ミルフィナが足を止めた。
「売り物。歌う貝殻。珍しくはないわよ、この辺の海には多い」
リヴィアが伝えた。
「私には聞こえません」
「え?」
「この音は、私の声より低いです。でも、確かに歌っています。波の歌に近い」
店主の老人がにやりとした。
「人魚かい、あんた。人魚には聞こえる音が、人間には聞こえないんだよ。人間にはこれくらいしか聞こえない」
老人が貝殻のひとつを叩くと、高い音がした。
「でも人魚が近づくと、もっと低い音も出る。そこの嬢ちゃんが来たから、音が変わった」
ミルフィナが貝殻に手を近づけた。音が変わった。さっきより深い音が加わり、和音の層が増えた。
「綺麗ですね」
「買え買え」
老人が言った。
「買わない」
リヴィアはそう言い、ミルフィナを引っ張って、先へ進んだ。
補給品の調達はネリネに任せた。ネリネは値段の計算と交渉が得意で、リヴィアが同行すると「それ、高く見られてますよ」と小声で言われることが多い。海賊然とした格好が、なぜか交渉を不利にする。
リヴィアとミルフィナは、市場の中を歩いた。たこまるはリヴィアの帽子の中に入っていた。
「港町の市場と、雰囲気は似てますか」
「似てる。でも、もっと変なものが多い」
「変なもの」
「あそこ」
リヴィアが指した先に、怪しい看板がかかった店があった。
看板には、こう書いてある。
『絶対に北を指さない羅針盤、一点限り』
「……なんですか、それは」
「役に立たない道具を売る店よ。ああいうのは、どこの市場にもある」
「役に立たないものを、なぜ売るのですか」
「好きな人が買うから」
「好きな人がいるのですか」
「いるのよ。世の中には」
ミルフィナは看板をじっと見た。
「見ていいですか」
「見るだけなら」
二人で店に入った。
狭い店の中に、雑多な品物が積まれていた。錆びた鍵、割れた砂時計、紐が切れた弓、穴の空いた鍋。全部に紙が貼ってあって、なぜ役に立たないかが書いてある。
錆びた鍵には「どの鍵穴にも合いません」。割れた砂時計には「砂が全部出てしまいました」。穴の空いた鍋には「煮えません」。
「正直な店ですね」
「詐欺じゃない分、良心的よ」
ミルフィナが棚の奥に手を伸ばした。小さな羅針盤を取り出す。丸い真鍮の筐体で、蓋を開けると針が入っている。普通の羅針盤と見た目は変わらない。ただし、紙が貼ってあった。
「絶対に目的地へ着かない羅針盤。どの方向を指しても、そこへ行くと遠回りになります」
「変な商品ね」
「面白いです」
「買うの?」
「欲しいです」
「役に立たないわよ」
「でも珍しいです。王宮には、こういうものがありませんでした」
ミルフィナは羅針盤を持ったまま、店主を探した。カウンターの奥に、眠そうな中年の男が座っていた。
「これを買いたいのですが」
「ああ、羅針盤ね。三枚」
銀貨三枚。リヴィアが財布を出そうとすると、ミルフィナが先に出した。王宮から持ってきたらしい小さな袋から、銀色の貝殻を三枚取り出した。
「これは使えますか」
店主は貝殻を見た。
「海底王国のやつじゃないか。使える。むしろ少し上乗せになるけど」
「では」
「いや、上乗せはいい。珍しいもの見せてもらった代わりだ」
羅針盤はミルフィナの手に渡った。
「そういえば、最近は海底王国の役人さんも物騒でね」
店主が、小声で言った。
「役人?」
「名乗りはしないけど、分かる者には分かる。古い海図だの、沈んだ遺跡の記録だの、そういうものを買い集めてる連中がいる」
「星潮の冠の手がかり?」
「さあね。ここでは、客の目的を聞かない決まりだ。ただ」
店主は、貝殻の奥に吊るされた古い羅針盤を見た。
「海を閉じる宝を探している、なんて噂もある」
店を出て、たこまるが帽子から顔を出した。
「役に立たない羅針盤を買ったぞ」
「欲しかったので」
「後悔しないか」
「しません」
「なぜ?」
「本物の市場で、本物のお金で、自分で選んで買ったからです」
たこまるは少し黙った。
「……まあ、いい」
そのときだった。
リヴィアの肩に何かがぶつかった。振り向くと、赤いコートの少女が立っていた。
背は、リヴィアより少し高い。赤みがかった金色の髪を片側にまとめて、耳には大きな金のリングが揺れている。コートには勲章代わりのビーズが何十個も縫いつけてあって、歩くたびに音がする。目は涼しくて、口元はいつも笑っているような形をしている。
「あら」
声は低くて、よく通った。
「リヴィアじゃない」
リヴィアは固まった。
「……ローザ」
「久しぶりね。相変わらず小さいわね」
「あんたが大きいの!」
「そうかしら。それにしても、まだ船長ごっこをしているの、リヴィア?」
「ごっこじゃない! 正式な船長よ!」
「あらそう」
ローザ・ヴァーミリオンはそう言って、視線をミルフィナに移した。
「へえ」
「何」
「あなた、面白いものを連れてるじゃない」
「連れてない。一緒に来てる」
「同じでしょ」
ローザはミルフィナに向かって、まるで昔から知っているような顔で笑った。
「こんにちは。ローザ・ヴァーミリオン。海賊よ。あなたは?」
「ミルフィナと申します」
「ミルフィナ。いい名前ね。どこから来たの」
「海の底から」
「人魚ね」
「はい」
「珍しいわね、陸にいるの」
「さらわれました」
「さらわれた?」
ローザがリヴィアを見た。目が笑っている。
「リヴィアが?」
「してない!」
「でも、なんか懸賞金が掛けられてるって噂を聞いたけど。人魚姫誘拐、って」
「してないから!! この子が自分で乗ってきたの!!」
「そうなの?」
ローザがミルフィナに確認した。
「はい、自分から乗りました。でも、リヴィアさんが手を引いてくれました」
「あー」
ローザがそう反応して、
「だから誘拐じゃない!」
リヴィアが叫んだ。
「そういうことにしておきましょうか」
「そういうことにするんじゃなくて、事実がそうなの!」
ローザはまた笑った。からかっている顔だった。リヴィアはこの顔が子どものころから苦手だった。
「星潮の冠を探してるって聞いたわよ」
リヴィアが黙った。
「シェリーから情報を買ったでしょ。シェリーはあちこちに情報を売る。あなたにだけ売るわけがないわ」
「……ローザも探してるの」
「興味があるのよ。世界一の航海者として認められる宝、でしょ。悪くない肩書きじゃない」
「先に見つけるのはわたしよ」
「そうかしら」
ローザはそう言って、羅針盤を持つミルフィナを見た。
「それは何?」
「絶対に目的地へ着かない羅針盤です」
ミルフィナが答えた。
「役に立たないものね」
「はい」
「なぜ買ったの」
「欲しかったので」
ローザは少し間を置いてから、笑った。今度は少し違う笑い方だった。
「面白いわね」
「ありがとうございます」
「リヴィア、ずいぶん可愛いお宝を拾ったじゃない」
「拾ってない。さらってもない。繰り返すけど」
「はいはい」
ローザは踵を返した。
「また会いましょう、リヴィア。それと――」
振り返り、
「ミルフィナ。その羅針盤、案外役に立つかもしれないわよ」
「どういう意味ですか」
「さあ、考えてみて」
それだけ言って人混みの中に消えた。
リヴィアは腕を組んだ。
「……なんだったの」
「知り合いですか?」
「昔からの腐れ縁。ライバルみたいなもん。あっちの方が船が大きくて、乗組員も多くて、たぶん稼ぎも多くて……まあ、それだけ」
「それだけ、とは」
「それだけよ」
「でも、悔しそうな顔をしていました」
「してない」
「しています」
「してない」
たこまるが帽子から出てきた。
「ローザの言葉が気になるな。役に立つかもしれない、というのは」
「からかっただけじゃないの?」
「ローザが意味なく言葉を使うか?」
たこまるに言われ、リヴィアは黙った。確かに、ローザは無駄なことを言う人間ではない。からかいの中にも、必ず何かを含ませてくる。
「……羅針盤が役に立つって、どういう意味かしら」
「絶対に目的地へ着かない。逆に読めば――」
たこまるが呟く。
「羅針盤が嫌がる方向へ行けば、目的地に着く」
ミルフィナがそう言ったら、沈黙が落ちた。
「……それは」
リヴィアがゆっくりと言った。
「星潮の冠の眠る場所を、誰かが隠しているとしたら、その隠し方のひとつは、そこへ向かう方向を狂わせることだ。つまり、この羅針盤が嫌がる方向が、本当の目的地かもしれない」
たこまるが続けた。
三人で羅針盤を見た。
針は東を指していた。シーラビット号が今向かっているのは、海底遺跡のある鏡海、南東の方角だ。
「羅針盤が東を指すなら、本当に行くべき場所は……」
リヴィアが言いかけた。
「確認してみましょう」
「どうやって」
「動かしてみます」
ミルフィナが羅針盤を持ったまま、ゆっくりと向きを変えた。体ごと回転させて、いろんな方角に向けてみる。針の動きを見る。
「南西を向けると、針が少し揺れます」
「揺れる?」
「嫌がっているような動きです。他の方向より、少し強く振れます」
たこまるが身を乗り出した。
「南西か。鏡海より手前の方角だな」
「でも遺跡の地図は南東を示してる。遺跡への手がかりが南東にある。でも、冠そのものは別の場所にあるかもしれない」
リヴィアは腕を組んだ。
「まず遺跡へ行く。手がかりを確かめてから、羅針盤の示す方向を考える」
「それが妥当ですね」
「ネリネに報告して、航路は変えない。でも、この羅針盤は大事にしまっておいて」
「分かりました」
ミルフィナは羅針盤を丁寧にコートのポケットにしまった。
「役に立ちました」
「まだ確認できてないけど」
「でも、可能性が出ました。役に立つとは、そういうことだと思います」
「……そうね」
「ローザさんは、良い人ですね」
「良い人かどうかは分からない。油断できない人よ」
「でも、教えてくれました」
「あれが親切だったのか、からかいだったのか、まだ分からない」
「両方だったのではないですか」
リヴィアは少し黙った。
「……そうかもね」
市場の出口に向かうと、ネリネが補給品を抱えて立っていた。ピピがその後ろで何かを食べていた。ベルが大きな荷物を片手で持っていた。
「終わりましたか」
ネリネが尋ねた。
「終わった。収穫もあった」
「食料的な収穫ですか」
「そっちじゃなくて、航路的な収穫」
「詳しく教えてください」
「船に戻ってから」
シェルマーケットから出て、シーラビット号への桟橋を歩いた。
夕日が海を橙に染めていた。
ミルフィナがポケットに手を当てた。羅針盤の形を確かめるように。
「良い買い物でした」
「役に立たないって書いてあったのに」
「でも役に立ちました」
「まだ分からない」
「きっと立ちます。リヴィアさんがいれば」
「……わたしは関係ない。あんたが選んだから」
「リヴィアさんが一緒だったから、選べたのです」
リヴィアは前を向いた。
「そういうこと、言うのをやめなさいよ」
「なぜですか」
「照れるから」
ミルフィナが、また少し笑った。
たこまるが帽子の中から言った。
「おまえら、船に戻る前に溺れるなよ」
「桟橋よ、ここ!」
「念のため言っておく」
「余計なお世話!」
船に戻ってから、リヴィアは買ったばかりの羅針盤を手のひらに乗せた。
針は北を指していなかった。東でも西でもない。時々くるりと回って、ミルフィナの方を向き、それから海の底を指すように震える。
「壊れてるの?」
「呪われてるんだろ」
たこまるが突っ込んだ。
「でも、ただ壊れているわけではなさそうです」
ネリネが覗き込む。
「方角ではなく、何かに反応している可能性があります」
「何かって?」
「星潮の冠、あるいは、その手がかりです」
リヴィアは羅針盤を握り直した。
「じゃあ、無駄遣いじゃなかったってことね」
「食費を削ったことは無駄です」
「そこは忘れて」
シーラビット号が、夕日の中に浮かんでいた。くたびれた船体が、橙の光を受けて、少しだけ綺麗に見えた。




