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ポンコツ海賊令嬢と人魚姫のドタバタ航海記――この恋、沈没寸前です!――  作者: 明石竜


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Voyage 4 姫さま、甲板掃除に感動する

 布告の騒ぎからしばらく経ち、船内が改めて動き始めるころには、空はすっかり明るくなっていた。

 少し眠ったらしいミルフィナも、また甲板に出てきて、水平線を眺めていた。銀青色の髪が朝風にゆれている。人間の足はまだ少しぎこちなくて、舳先に両足を下ろしてちょこんと座っている姿は、どこかの鳥のようだった。

「海の色が、夜と朝で違うのですね」

「そりゃそうよ」

「王宮では、いつも同じ深さの色でした。外はこんなに変わるのですね」

 リヴィアは隣に立って、同じ方向を見た。

 朝の海は確かに綺麗だ。金色と橙が水面に溶けて、波が光を細かく砕いている。毎日見ていると当たり前になるが、言われてみれば確かに特別な色をしている。

「あなたは、毎朝これを見ているのですか」

「船酔いしてなければ」

「羨ましいです」

 リヴィアは少し黙ってから、手すりに寄りかかった。

「今日は揺れが少ないから、たぶん大丈夫」

「船酔いですか」

「……そんなにするわけじゃないから」

「昨日、ずっと手すりを持っていました」

「支配してたの」

「支配?」

「そう」

 ミルフィナは少し考えてから、真剣な顔で言った。

「手すりを支配するのが、海賊の修行のひとつですか」

「違う」

「では……なぜ」

「揺れると怖いから! なんとなく!」

 たこまるが船長帽の中から顔を出した。

「素直に言えた。えらい」

「うるさい」

「姫さん」

「はい」

「こいつが手すりを持つのは毎度のことだ。気にするな」

「毎度じゃないわよ!!」

 ミルフィナはにこりと笑った。リヴィアは赤くなりかけて、顔を逸らした。

 朝食は、たこまるが作った。正確には、たこまるが八本の足を全部使って、鍋を動かしながら材料を刻みながら火加減を調整しながら、ネリネに「これは私の担当です」と愚痴を言われながら、それでも全部やった。

 できあがったのは、魚の干物と乾パンと、薄いスープだった。食費の問題は昨日から解決していない。

「これが船の朝ごはんですか」

 ミルフィナが呟く。

「質素でしょ。文句があるなら――」

「美味しいです」

「……そう」

「干物は初めてです。王宮では生の魚を料理したものばかりでしたので」

「干物の方が安いから」

「干すと、こんなに味が変わるのですね。面白いです」

 たこまるが少し得意そうな顔をした。ネリネがそれを横目で見て、何も言わなかった。

 朝食が終わると、ネリネが言った。

「では、今日の作業に入ります」

「作業?」

ミルフィナが尋ねた。

「毎朝、甲板の掃除をします。その後、帆の状態確認、ロープの点検、船体の目視確認を順に行います」

「私も手伝っていいですか」

「客に掃除はさせません」

「さらわれた人間も掃除はしませんよね、確かに。でも、私は乗せていただいている立場です。何かお役に立てることがあれば、したいです」

 ネリネはリヴィアを見た。リヴィアは肩をすくめた。

「本人がやりたいって言ってるんだから、やってもらえば」

「船内作業の経験は?」

「ありません。でも、教えていただければできます」

「……では、甲板掃除から」

 ネリネはデッキブラシを取り出してミルフィナに渡した。

 ミルフィナはブラシを受け取り、まじまじと眺めた。

「これで、こするのですね」

「そうです。水を少しまいてから、前後に動かします。隅のゴミは集めて海へ流します。難しくはありません」

「はい」

 ミルフィナは甲板に水をまいた。それからブラシを持って、床に当てて、前後に動かした。

「……これが」

「はい」

「甲板掃除」

「そうです」

 ミルフィナの目が、じわりと輝いた。

「これが、甲板掃除なのですね」

「……はい、そうです」

「海賊小説の三巻で、主人公が嵐のあとに甲板を磨く場面がありました。腰が痛くても、船が大事だから磨くのだと言っていました」

「そういうこともあります」

「本物だ」

ミルフィナが楽しそうにそう言うと、ネリネが少し困った顔をした。リヴィアは遠くから見ていて、笑いをこらえた。

「本物の甲板掃除です。本物の海賊船の、本物の甲板を、私が磨いています」

「……よろしければ、続きをお願いします」

「はい!」

 ミルフィナはブラシを動かし始めた。最初はぎこちなかったが、すぐにリズムを掴んだ。一枚一枚、丁寧に磨いていく。

「姫さま、そこまで感動されると、掃除してないあたしたちが悪者みたいです!」

「ピピさんも一緒に磨きますか」

「磨きます! 悪者じゃないので!」

 ピピが走ってきた。

「ありがとうございます」

「あたしはこっちを!」

 ピピがもう一本のブラシを持ち出してきて、隣で磨き始めた。二人並んで、わいわいと甲板を磨いている。

 リヴィアは操舵輪のそばで、その様子を見ていた。

 たこまるが肩に乗ってきた。

「なんか、感慨深そうな顔してるぞ」

「してない」

「してる」

「してない」

「じゃあなんで立ち止まって見てるんだ」

「……別に。作業の確認よ。船長として」

「甲板掃除の確認を操舵輪のそばでするのは効率が悪い」

「うるさい」

 ミルフィナが顔を上げて、リヴィアと目が合った。

 手を振ってきた。リヴィアは反射的に手を振り返して、すぐに腕を下ろした。

「……見てただけよ」

「知ってる」

たこまるが言った。

 午前中、ミルフィナは働いた。

 甲板掃除が終わると、ネリネに帆のロープの結び方を教わった。複雑な結び目を、何度も解いては結び直した。うまくできない度に首を傾けて、またやり直す。ネリネが「このキャラ、根気があるな」とは言わなかったが、そういう顔をした。

 その次は、ピピに大砲の砲口を磨く仕事を回された。

「こうやってぐるぐるするんです!」

「こうですか」

「そうです! 姫さま、センスあります!」

「本当ですか」

「絶対あります!」

 ピピの言葉は全部大きく、全部本気だった。ミルフィナはそれを嬉しそうに受け取った。

 ベルが通りがかりに二人を見て、小さな声で言った。

「……砲口、綺麗」

「ありがとうございます」

 ミルフィナにそう言われたベルはそのまま通り過ぎたが、少し表情がやわらかかった。


 昼になった。

 たこまるがまた料理した。ネリネがまた抗議した。たこまるがまた無視した。出てきたのは塩味の野菜と残りの干物だった。

「これは昨日と同じ食材ですか?」

ミルフィナが尋ねると、

「そうです。食費が、その」

ネリネが言いにくそうに言葉を濁す。

「私が来たせいで、食料の計算が崩れましたか」

「……率直に言うと、そうです」

「申し訳ありません」

「いいえ、こちらが乗せたので」

「でも」

「大丈夫です。私が心配してもリヴィア船長が根性でなんとかするとおっしゃっているので、私も根性を信じるしかない状況です」

「根性で食費は補えないと昨日おっしゃっていませんでしたか」

「補えません。でも、信じています」

 リヴィアは複雑な顔をした。

「そんな顔で信じなくていい」

「信じています」

「ありがとう。でもやめて」


 昼食のあと、ミルフィナはリヴィアを探してきた。リヴィアは船尾で地図を広げていた。今日は正しい向きで持っている。

「リヴィアさん」

「何?」

「星潮の冠というのは、どんな宝ですか?」

 リヴィアは地図から顔を上げた。

「海と空の境界を開く秘宝、と言われてる。見つけた者は世界一の航海者として認められるって」

「海と空の境界を」

「海と空が、昔はもっと近かったっていう話があるの。人魚も人間も、今より自由に行き来できた時代があったって。その冠は、その時代に使われたものだって」

 ミルフィナが少し黙った。

「王宮でも、星潮の冠の話は聞いたことがあります」

「そうなの?」

「大切なものだと言われていました。でも、詳しくは教えてもらえませんでした」

「なんで?」

「知らなくていいことだ、と言われました」

 リヴィアは地図を畳んだ。

「それ、おかしくない? 大切なものなのに、知らなくていいって」

「そう思います。だから、知りたいのです。自分の目で見て、自分の足で行って、自分で確かめたい」

「……そのために、王宮を出たの?」

「それも理由のひとつです」

 リヴィアはしばらくミルフィナを見ていた。

「星潮の冠を探すのに、人魚の力があった方が有利かもしれない」

「私でよければ、協力します」

「海流を操れるんでしょ」

「はい。歌で、ある程度は」

「遺跡が海底にあるなら、入るのに力を借りることになるかもしれない」

「喜んで」

「……別に、そのために連れてくわけじゃないから」

「分かっています」

「誤解しないで」

「していません」

「さらったわけでもないし、利用するわけでもないから」

「分かっています。でも、役に立てるのなら嬉しいです」

 リヴィアは視線を逸らした。

「そういうこと、すぐ言う」

「何かまずかったですか」

「……まずくはない。ただ、あんたが思ってることをそのまま言いすぎる」

「そうですか?」

「そうよ。人間は、もう少し隠すものよ」

「隠す必要がありますか」

「あったほうが、話がシンプルになる」

「リヴィアさんは、よく隠しているのですか」

 リヴィアは答えなかった。

「隠していると思います」

「……勝手に言わないで」

「すみません」

「…………そうね。隠してる。強がりだから」

「知っています」

「なんで知ってるの」

「昨日から見ていたからです」

「一日よ。わたしのことを知るには短すぎる」

「でも分かります。見ていると、分かることがあります」

 リヴィアはもう何も言わなかった。

 午後になって、風が少し強くなった。帆が鳴る音が変わる。ネリネが航路を再計算し始めた。

 ミルフィナはまた甲板に出て、手すりのそばに立って海を見ていた。今度は舳先ではなく、船の横に立って、水面をじっと眺めている。

 リヴィアが近づくと、ミルフィナは振り向かなかった。

「海の中から見る船と、船から見る海は、全然違いますね」

「どっちが好き?」

「どちらも好きです。でも」

 少し間があった。

「船の上から見る方が、もっと遠くが見える気がします」

「海の中からは遠くが見えないの?」

「見えます。でも方向が違います。深い方向が見えます」

「深い方向」

「海の底へ、向かっていく方向です。人魚は、下へ行く見方を自然にします」

「人間は、遠くへ行く見方をする?」

「リヴィアさんは、そうだと思います」

 リヴィアは少し笑った。

「そうかもしれない」

「水平線を、よく見ています」

「その先に何があるか、気になるから」

「私も今は、水平線が気になります。リヴィアさんの見ているものを、同じ場所から見てみたかったのです」

 リヴィアは返事をしなかった。

 二人で、しばらく同じ水平線を見ていた。


 夕方、たこまるが夕食を作った。ネリネが抗議した。

 食後、ミルフィナがリヴィアに言った。

「リヴィアさんの船は、少し騒がしくて、少し壊れています」

 リヴィアは構えた。文句を言われると思った。

「でも、とても自由です」

 構えた肩が、ゆっくりと下がった。

「……壊れてるのは否定しないのね」

「本当のことですから」

「自由、か」

「はい」

「自由に見える?」

「見えます。誰もが好きに動いて、好きにしゃべって、好きに食べて、好きに怒って」

「喧嘩も多いし、食費も足りないし、帆も古いし」

「それでも、自由です」

 リヴィアは空を見た。星が出始めていた。

「王宮では、誰かが決めた場所に立って、誰かが決めた言葉を話して、誰かが決めた服を着ていました。それが間違いだとは思いません。でも、疲れることもありました」

「……誰かに言ったことはあったの。疲れた、って」

「言えません」

「なんで」

「私が疲れると言ったら、まわりが困ります。王女が疲れたと言うのは、役目に不満があると言うのと同じですから」

「……」

「だから、言いませんでした。ずっと」

 リヴィアは視線を戻した。ミルフィナはまだ星を見ていた。

「わたしも似たようなもんよ」

「リヴィアさんが?」

「シルヴェイル家の娘は強くなきゃいけないから。海賊らしくなきゃいけないから。船酔いしたとか、地図を間違えたとか、泳げないとか、なるべく言わない」

「でも、昨日は言っていました」

「たこまるに言わされた」

「でも、言いました」

「……うちの船だから。ここでは、まあ、言えるから」

「そうですか」

 ミルフィナはそれから少し黙って、また言った。

「私も、ここではそう思っていいですか」

「何を」

「疲れたとか、知らなかったとか、怖いとか。そういうことを言っても、いい場所だと思っていいですか」

 リヴィアは少し間を置いた。

「……遺跡に着くまでよ」

「はい」

「それ以降は分からない」

「はい」

「でも、今は、まあ」

「はい」

「……言っていい」

 ミルフィナが、ゆっくりと息を吐いた。

 安心したような、長い息だった。

 リヴィアはそれを横目で見て、前を向いた。

 たこまるが船長帽のつばに座って、夜の海を眺めていた。何も言わなかった。ただ八本の足を揺らしながら、大人しく座っていた。

 シーラビット号は、夜の海を進んでいく。

 港町の噂はもう広まっているはずだった。人魚姫を攫った海賊団、と。どこの港に寄っても、すぐに見つかるかもしれない。

 でも今夜は、星が綺麗だった。

 ミルフィナがまた言った。

「リヴィアさん」

「何」

「今日、甲板掃除をしました」

「したね」

「帆のロープも結びました」

「ネリネが教えてたのは見てた」

「砲口も磨きました」

「ピピが喜んでたでしょ」

「はい。全部、本物でした」

「当たり前よ、本物の船だから」

「本で読んだことが、全部本物でした」

 ミルフィナの声が、少しだけ違う音になった。

「王宮では、海賊の本を読むたびに、女官たちが困った顔をしました。姫が読む本ではない、と言いながら、それでも隠しておいてくれましたが」

「読み続けたの?」

「隠しながら」

「何年?」

「六年くらいです」

 リヴィアは計算した。十歳から読んでいたことになる。

「好きだったんだ」

「大好きでした。今も好きです」

「だから、さらわれたかった?」

「はい。でも」

 少し間があった。

「さらわれなくても、この船に乗れてよかったです」

 リヴィアは返事をしなかった。

 何か言おうとして、止めた。

 夜風が吹いてきた。

 帆がゆれた。

 星が、また少し増えた。

 たこまるが、ぽつりと言った。

「おまえら、明日は早起きして針路の確認しろよ」

「分かってる」

「地図、逆に持つなよ」

「持たない」

「昨日も言ったぞ」

「今日は持たなかった!」

「今日は一回だけ逆に持ってた」

「一回は許容範囲!」

 ミルフィナが笑った。声に出して、少し弾むように笑った。

 リヴィアはその音を聞いて、何も言わなかった。ただ少し、手すりを握った手が緩んだ。

 シーラビット号は、夜の海を、まっすぐに進んでいった。


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