Voyage 3 人魚姫、勝手に乗船する
リヴィアはロープを引っ張り、引き上げられながら叫んだ。
「わたしは何もしてないわあぁっ!」
「させるか!」
セレナが海面を蹴った。人魚の速度は恐ろしく速い。水の中を矢のように進んで、シーラビット号の船体に手をかけようとした、その瞬間。
歌声が聞こえた。
低く、澄んだ声だった。言葉のない歌だ。でも、その音が広がった瞬間、海流が変わった。
セレナと近衛たちを包むように、水の渦が生まれた。強い流れではない。ただ、進めなくする流れだ。
ミルフィナが歌っていた。
「ミルフィナ様!」
セレナが叫んだ。
「ごめんなさい、セレナ。でも、私が決めたことです」
そのまま、ミルフィナはシーラビット号の側面に手をかけた。人間の姿に変わる魔法を使ったのか、尾びれが消えて足になる。よろよろと甲板によじ登ってきたところを、リヴィアが反射的に手を取った。
「え、なんで上がってくるの!」
「さらわれました」
ミルフィナは上がってきたばかりなのに、息が乱れていない。
「さらわれてない! 自分で上がってきたじゃない!」
「リヴィアさんが手を引いてくれました」
「支えただけ!!」
甲板に上がり切ったミルフィナは、シーラビット号を見回した。傷のある甲板、くたびれた帆、錆びた金具。全部をゆっくりと眺めてから、にっこりと笑った。
「本物の海賊船だ」
「ミルフィナ様ぁっ!!」
セレナの叫びが、海の向こうから聞こえた。
「ネリネ! 出航して!」
リヴィアは叫んだ。
「出航、というのは今の状況で正しい判断ですか?」
ネリネが確認を取った。
「正しくない! でも今すぐ出て!!」
「承知しました」
帆が広がる。シーラビット号が風を受けて動き始めた。
「待て! 海賊!!」
セレナの声が、遠くなっていく。
リヴィアは操舵輪を握った。胃が揺れている。船酔いと動揺と、何かもっと別のもので。
「……なんでこうなってるの」
「さらわれたからです」
「自分で上がってきたでしょ!」
「でも手を引いてもらいました」
「もう一回言う。支えただけ!」
たこまるが、甲板の縁から海を見下ろしながら言った。
「近衛がまだついてくるぞ。速度を上げろ」
「ピピ! 帆を全部出して!」
「はーい!」
シーラビット号が加速した。ミルフィナは甲板に立ち、遠くなっていく近衛隊を見ていた。セレナの声はもう聞こえない。でも、光の筋が海中に走るのが見える。追ってくる気配がある。
「ネリネ! どこかに隠れられる場所は!?」
「この海域には、霧の多い岩礁群があります。小型船なら入れますが、追手を撒けるかどうか……」
「やってみる。針路を北西へ!」
「了解です。ただし……」
「食費の話はあとで!!」
「分かりました」
シーラビット号が北西へ針路を変えた。海面に霧が漂い始めた。岩礁が見えてくる。大きな船なら入れない、細い水路だ。
「ベル! 岩に当たらないように見張って!」
「……分かった」
ベルが舳先に立った。
岩礁の中を、シーラビット号がすり抜けていく。ぎりぎりの通路を、ネリネが計算しながら航路を指示する。たこまるが補助の操舵を担った。
しばらくして、追ってくる光が消えた。
霧の中、シーラビット号は静かに漂っていた。
リヴィアは舵を離して、大きく息を吐いた。
「……撒いた?」
「今のところは、ただし、長くはもちません。海底王国の近衛隊は、海流を読む能力があります。そのうち回り込んでくるでしょう」
ネリネが予測した。
「分かった。夜明けまでここに隠れて、夜明けと同時に動く」
「妥当な判断です」
「そう? ありがとう」
「珍しいですね、船長がまともな判断をするのは」
「もっと素直に褒めなさいよ」
ピピが走ってきた。
「船長! あの人魚の子、甲板でくるくるしてます!」
「くるくる?」
「なんか、船の上をうろうろして、いろいろ触ってます! 楽しそうで!」
リヴィアは振り向いた。
ミルフィナが、甲板の上を歩いていた。足が少しぎこちない。人間の足に慣れていないのか、時々手を伸ばしてバランスを取っている。
それでも、楽しそうだった。帆に触れて、ロープの感触を確かめて、傷だらけの船板を手のひらで撫でて。
近づくと、ミルフィナはリヴィアに気づいて顔を上げた。
「海賊船の甲板は、思ったより固いのですね」
「木だから」
「本では、甲板を歩く音が好きだとよく書いてありました。確かに、いい音がします」
リヴィアは甲板を踏んだ。古びた木の音がした。
「……この船、そんなにいい音がするかしら」
「します。私には、とても」
リヴィアは何と答えたらいいか分からなかった。
「あなたは、誰かの海賊船に乗れると思って助けたわけじゃないでしょ。わたしが落ちたから助けてくれたんでしょ」
「はい、そうです」
「さらってくれる海賊がわたしだという保証は、どこにもなかったわけよ」
「そうですね」
「でも乗ってきた」
「はい」
「どうして」
ミルフィナは少し考えてから、答えた。
「あなたが、嵐の海に落ちても、海を見ていたからです」
「怖くて目が離せなかっただけよ」
「それでも、見ていました」
リヴィアは黙った。
「落ちた人が、引き上げられながら海を見るのは、珍しいと思いました」
「……綺麗だったから」
言ってから、少し恥ずかしくなった。リヴィアは視線を逸らした。
「なに笑ってるの」
「笑っていません」
「笑ってる」
「少し、笑っていました。好きだと思ったのです。この海賊さんが」
「初対面よ」
「最初の印象が大事だと、本に書いてありました」
「さらってほしい相手を初対面で決める本じゃないわよそれ!」
たこまるが近づいてきた。
「まあ落ち着け、リヴィア」
「落ち着けない状況だから言ってるの!」
「姫さん」
たこまるはミルフィナに向いた。
「王宮に戻りたくないのか」
「今は、戻りたくないです」
「なぜ」
「外を見たいのです。本物の海を。本物の港町を。本物の海賊の冒険を」
「うちは冒険というより日常的に混乱してるだけだ」
「それが冒険です」
ミルフィナははっきりと言った。
たこまるが、リヴィアに視線を向けた。
「どうする? 船長」
リヴィアは腕を組んだ。
状況を整理する。海底王国の王女が、自分から船に乗り込んできた。こちらに誘拐の意図は一切ない。しかし近衛隊からは「人魚姫を攫った海賊」として追われている。
面倒だ。非常に面倒だ。断るべきだ。今すぐ引き返して、ミルフィナを海に返して、全部なかったことにするべきだ。
でも、それはなんか、ミルフィナに悪い気がする。
「……目的地まで、四日ある」
リヴィアがそう言うと、
「はい」
ネリネが相槌を打った。
「その間だけなら、乗ってても、まあ、人数的には問題ない?」
「食料的には問題が若干あります」
「若干ね」
「しかし不可能ではありません」
「そう」
リヴィアはミルフィナを見た。
「この船、豪華な客室なんてないわよ。寝る場所も狭いし、揺れるし、雨漏りする時もあるわよ」
「はい。大丈夫です」
「夜、寝てる時に、フナムシが入り込んでくることもあるのよ」
「それも、全然問題ありません」
悪いところを包み隠さず伝えても、ミルフィナは笑顔のままだった。意志は変わらないらしい。困ったことに、その顔を見ていると、リヴィアの方が断りづらくなってくる。
「……四日よ。わたしたちは海底遺跡に用事があるの。そこに着いて、星潮の冠の手がかりを探すまで。その間だけなら、乗っていていい」
「ありがとうございます」
「ただし、さらったわけじゃない。これは分かる?」
「はい」
「分かったわね。じゃあ、近衛の人に会ったら、自分から乗ったって説明して。わたしたちは無実よ」
「分かりました」
「約束よ」
「はい」
ミルフィナは、にこりと笑った。
「さらわれたわけではなく、乗せていただいたと言います」
「そう。それで――」
「リヴィアさんの船に」
「そうね」
「自分から」
「そう」
「喜んで」
「……うん」
「海賊さんの冒険に同行するために」
リヴィアは少し顔をしかめた。
「……その言い方だと、また誘拐っぽく聞こえるわよ」
「そうでしょうか」
「聞こえる。もっとシンプルに言って」
「では……乗せていただきました、と」
「それだけでいい」
「でも、喜んでいるのも本当です」
「そっちは心の中にしまっておいて」
たこまるが額を押さえた。
「この会話、いつまで続くんだ」
夜が深くなっていく。霧の岩礁の中で、シーラビット号は静かに浮かんでいた。
ネリネは甲板の隅で、食料の帳面を開いた。
「一人増えた場合、乾パンの減り方が……いえ、ミルフィナ様が人魚であることを考慮すると、魚の消費量が……」
「私は何でもいただきます」
「その言葉が一番計算を難しくします」
ピピが勢いよくミルフィナに駆け寄った。
「姫さま! 姫さまって呼んでいいですか!」
「はい。ミルフィナでも大丈夫です」
「じゃあ姫さまって呼びます!」
「選択肢を出した意味がないわね」
リヴィアが呟く。
その横で、ベルが無言でたこまるに近づいていた。
「来るな」
「……見てるだけ」
「その距離は見てるだけじゃない」
「もちもち」
「まだ触ってないのに感想を言うな」
たこまるは素早く船長帽の上へ逃げた。
ミルフィナはその光景を見て、少しだけ笑った。
「にぎやかな夜ですね」
「だいたい毎晩こうよ」
リヴィアはそう言ってから、少しだけ肩の力を抜いた。
シーラビット号には、誰かに自慢できるような客室がない。リヴィアの船長室、ネリネとピピが使う小さな部屋、ベルが工具と一緒に寝ている船倉の隅。それだけだ。ミルフィナはとりあえずネリネの部屋に押し込むことにした。
翌早朝、まだ船内のみんなが眠っている時間だった。
船底の下で、低い音が鳴った。
ぼおん、と海の奥から鐘を叩くような音が響く。続いて、甲板の縁に青白い光が走った。魚の群れが船のまわりを回り、尾びれの先で短い光を点滅させている。
「……何?」
リヴィアは船長室から飛び出した。
ネリネも、上着を羽織って甲板へ出てくる。ミルフィナとピピも眠そうな顔で続き、たこまるはリヴィアの船長帽の中から顔を出した。
ベルだけは気付かなかったようだ。
「海底王国の警告信号です」
「警告?」
「緊急布告の合図です。伝令魚を使っています」
ネリネの声が、少しだけ硬くなった。
青白い光が、海面に文字のような模様を描いた。
内容は、簡潔だった。
人魚姫ミルフィナ・ルーンシェルを誘拐した海賊リヴィア・シルヴェイルに、懸賞金を設定する。
「懸賞金! 船長、懸賞金! 有名になりましたよ!」
ピピが興奮気味に叫んだ。
「懸賞金はわたしたちが貰えるお金じゃなくて、わたしたちを捕まえた人に支払われるお金よ」
「でも懸賞金です! 額はいくらですか! 高いですか!」
「そこを気にしないで!」
「高かったら、すごい海賊っぽいです!」
「罪状を見なさい!」
「ミルフィナ様、先ほど、自分から乗ったと説明すると約束されましたよね」
ネリネが冷静に確認を取った。
「はい」
「ならば、王国にそう伝えることは可能ですか」
「可能です」
「では、今すぐそう連絡していただくことは……」
「でも、連絡したら、王宮に戻るよう言われますね」
「そうなりますね」
「そうしたら、この船を降りなければなりません」
「そうなりますね」
「まだ遺跡に着いていません」
「……はい」
「星潮の冠も見ていません」
「…………はい」
「港町も見ていません」
「…………………はい」
「ですから、もう少しだけ」
ネリネが深呼吸した。
「承知しました。船長、方針の確認をしてよいですか」
「人魚姫誘拐犯のまま航海続けるってことよ! わかってる!!」
「ご認識の通りです」
ネリネは、こういうときほど声を荒げない。
嵐のときも、食料が底をつきそうなときも、リヴィアが桟橋を踏み外して港に落ちたときも、彼女はいつも淡々と現実を突きつけてくる。
「このまま行くしかないってことね」
リヴィアは操舵輪を握った。
「船長、指名手配される身になって、まさに海賊って感じがしますね」
「……今回の件はいろいろ誤解があるんだけど」
「すみません、リヴィアさん、こんなことになってしまって」
ミルフィナは苦笑いを浮かべていた。
「姫さまがなんとかしてくれそうですし、楽しめる逃走劇じゃないですか。安心してもうひと眠りできます!」
ピピはそう言って、船内に戻っていく。
ネリネは、布告の文面をもう一度読み返していた。
「……早すぎます」
「何が?」
「布告です。ミルフィナ様が船に乗ったのは昨夜です。それなのに、今朝にはもう正式な懸賞金が出ています。王宮内で、相当強い権限を持つ方が動いたと考えるべきです」
「王女がいなくなったからでしょ」
「それだけなら、まず捜索命令です。誘拐犯として断定するには、早すぎます」
たこまるが頭の上から言った。
「胃が痛い」
「わたしもよ! 船酔いと別の意味で!」
「おれは船酔いしない分だけ純粋に胃が痛い」
ミルフィナが、リヴィアの隣に並んで立った。海を見ながら、穏やかな声で言った。
「リヴィアさん」
「なに」
「ありがとうございます」
「何が」
「乗せてくれたことです。まだ、海を見させてくれることです」
リヴィアは前を向いたまま、答えた。
「感謝するなら近衛の人に言って。懸賞金を取り下げてもらえるように」
「伝えます。でも、少しあとで」
「いつ」
「遺跡を見てから」
「遺跡の次は港町って言うでしょ」
「……もしかしたら」
「分かってる。そういう顔してる」
ミルフィナが振り向いた。
「そういう顔、というのはどんな顔ですか」
「まだ見ていないものがある、という顔よ」
ミルフィナは少し黙ってから、また前を向いた。
「リヴィアさんは、よく分かるのですね」
「分かりたくなかった」
「なぜですか」
「面倒だから」
「でも、分かってくれました」
「……」
「ありがとうございます」
リヴィアは何も言わなかった。
たこまるだけが、頭の上で小さく呟いた。
「おまえら、先が思いやられるぞ」
「リヴィアさん、すみません。少し眠いので、私はもうひと眠りしてきます」
ミルフィナはそう言って、船内へ戻っていく。
「了解。あとは任せといて」
シーラビット号は、人魚姫誘拐の懸賞金が掛けられたまま、早朝の海を進んでいった。




