Voyage 2 人魚姫はさらわれたい
海面の波が、ゆっくりと静まっていった。
魔法嵐はあっという間に過ぎた。まるで人魚の少女が現れると同時に、嵐の方が遠慮して引いていったようだった。今は星が出始めていて、雲の切れ間から月が顔を出している。
ロープをつかんだリヴィアは、まだ人魚の少女を見ていた。
少女は笑っている。にこにこと、屈託なく笑っている。先ほどの言葉が夢でも聞き間違いでもないことを証明するように、もう一度、おっとりとした声で言った。
「私をさらってください」
「……なんで」
「海賊さんにさらわれたいからです」
「なんで」
「昔から夢だったので」
「……」
リヴィアは、答えに詰まった。
人魚の少女の目は真剣だった。冗談を言っている顔ではない。本当に、心の底からそう思っているという顔だ。
「あの」
リヴィアはなんとか口を開いた。
「さらうってのは、その、無理やり連れて行くって意味よ。分かってる?」
「はい」
「嫌なことよ。普通」
「私は嫌ではないです」
「でも嫌って言うのが普通なの!」
たこまるが、ロープの端からリヴィアの頭にぽてりと落ちてきた。
「状況を整理しろ、リヴィア。まず、この子は誰だ」
「人魚よ。見れば分かるでしょ」
「種類は分かる。名前を聞け」
リヴィアは人魚の少女に向き直った。
「名前は?」
「ミルフィナです。ミルフィナ・ルーンシェルと申します」
ルーンシェル、という名前が、リヴィアの耳に引っかかった。
「……ルーンシェル?」
「はい。海底王国ルーンシェルの王女です」
沈黙が落ちた。
リヴィアとたこまるが、同時に固まった。
「王女」
たこまるが呟いた。
「王女」
リヴィアが繰り返した。
「はい」
ミルフィナが、にこにこしながら答えた。
たこまるがリヴィアの頭の上で深呼吸した。
「リヴィア」
「なに」
「分かるな」
「分かる」
「どういう状況か」
「分かるわよ。最悪よ」
「そうだ。最悪だ」
ミルフィナは首を傾けた。银青色の髪が水面に広がる。
「何かまずかったですか?」
「王女が海に一人でいることの方がまずいでしょ!」
リヴィアは叫んだ。
「追手とかいないの? 護衛とか!」
「います」
「どこに!」
「少し前まで後ろにいましたが、嵐の間に撒きました」
「撒いたの? わざと?」
「はい。ずっと外へ出たかったので」
「海底王国から逃げてきたってこと?」
「逃げてきた、というより……外の世界を見に来た、という方が近いです」
ミルフィナの目が、遠くを見るようになった。
「王宮の中では、読んだ本の話しか知りません。海賊の話も、人間の港の話も、全部本の中だけのことで。本物を見たことが一度もありませんでした」
リヴィアは何も言えなかった。
ミルフィナは、穏やかに言った。冗談ではないのだと分かる声だった。
「だから、海賊さんにさらわれる機会があれば、逃さないと決めていたのです」
「……機会って、そんな都合よく……」
「あなたが落ちてきました」
リヴィアは少し黙った。
「落ちてきたのはわたしのせいじゃないわよ」
「嵐のせいですね」
ミルフィナは頷いた。
「でも、助けたのは私です」
「そうね」
「恩があります」
「恩はあるわ」
「ですから、さらっていただけますか?」
論理が綺麗にまとまっていた。リヴィアには反論の余地がなかった。
「お断りします」
毅然と言い切ったつもりだった。
しかしその瞬間、海面が光った。
ミルフィナの方向から、海の底に向かって光の柱が走った。青白い光で、それは信号に近かった。魚影が光に集まり、暗かった海面が一気に明るくなる。
「何?」
リヴィアが叫んだ。
「近衛隊です」
ミルフィナが、少し困ったような顔で伝えた。
「見つかりました」
海中から現れたのは、甲冑をまとった人魚たちだった。五人、六人、七人。全員が槍を持ち、整然と隊列を組んでいる。その先頭に、ひときわ凛とした人魚が一人いた。
黒髪を短く切り、目の鋭い少女だ。年齢はリヴィアより少し上に見える。甲冑は他の近衛よりも装飾が多く、肩には紋章が入っている。隊長格だ、とリヴィアは直感した。
「ミルフィナ様!」
声は低くて真剣だった。
「ご無事ですか! お体に傷はありませんか! どこに……」
少女の視線が、リヴィアに止まった。
沈黙が落ちた。
「貴様」
「わ、わたし?」
「ミルフィナ様を拉致した海賊か」
「してないわ! わたしが落ちてきただけで、この子に助けて――」
「言い訳は聞かない」
「話を聞いて!」
「ミルフィナ様」
黒髪の少女は、鋭い目をミルフィナに向けた。
「お連れします。王宮へお戻りください」
「セレナ」
ミルフィナが呼んだ。
「はい」
「私は、この海賊さんにさらわれます」
またしても沈黙が落ちた。
セレナと呼ばれた少女の顔が、微妙に歪んだ。
「……は」
「さらわれます」
「な、何を……!」
「前から一度、さらわれてみたかったのです。ちょうど海賊さんが来ましたので」
「ちょうど来ない! そんなことはない! ミルフィナ様、お体の具合が……もしや毒を盛られましたか」
「盛ってないわよ!!」
リヴィアが叫んだ。セレナの目が再び鋭くなる。
「黙れ、海賊。ミルフィナ様に近づくな」
「近づいてないの、この子が勝手に助けてくれただけなの! わたしが海に落ちたところを……」
「つまり貴様は危険な嵐の海に王女を引きずり込んだと」
「違う! そうじゃない! 順番が逆!」
「ミルフィナ様、今すぐ」
「セレナ、私は大丈夫です。この方に助けていただきました。ご心配をおかけしました」
「しかし……!」
「少しだけ、外を見てみたいのです」
「それはなりません。王女が人間の海賊船に乗るなど、前例がありません。王宮の規律に反します。王国の安全のために、ミルフィナ様には――」
「セレナ」
「はい」
「あなたは昔、どんな本が好きでしたか?」
「……」
セレナは黙った。
「私は、海賊が大海原を自由に進む物語が好きでした。今もそうです。一度でいいから、本物を見たいと思っていました」
「……ミルフィナ様……」
「少しだけ、行かせてください」
「少しだけでは済みません」
セレナの意見は変わらない。でも、その声は最初より少し低かった。
「王宮では今、ミルフィナ様がお姿を消されたと大騒ぎになっています。正式な追跡命令が出れば、これ以上の騒ぎになります」
その瞬間、シーラビット号の甲板から声が降ってきた。
「船長! 何してんの! 早く上がって!」
ピピの声だ。ロープが海面まで伸びてきた。
セレナの視線が、シーラビット号を見上げた。
リヴィアは反射的にロープをつかんだ。
「ちょ、待ちなさい――」
「この海賊を拘束しろ!」
近衛の槍が、一斉にこちらを向いた。




