Voyage 1 未来の大海賊、船酔いする
「……うぇぇぇ」
リヴィア・シルヴェイルは、船酔いしていた。
より正確に言うなら、未来の大海賊王になる予定の十六歳の少女は、出航して三十分で甲板の手すりにしがみついていた。
「……海、広すぎない?」
誰に言うでもなく呟くと、頭の上で、ぬるりとしたものが動いた。
小さなタコが、船長帽のつばから顔を出す。丸い体に、短い足が八本。肩に乗るには少し大きく、鍋に入れるには本人の尊厳が邪魔をするサイズだった。
「海賊が海の広さに文句言うな」
たこまるは、八本の足のうち一本でリヴィアの額をぺしりと叩いた。
「文句じゃないわ。観察よ。船長として、海の状態を確認してただけ」
「船長は手すりを抱きしめねえ」
「抱きしめてない。支配してるの」
言い返した直後、船が大きく揺れた。
リヴィアは「ひゃっ」と情けない声を上げ、手すりにさらに強くしがみついた。
たこまるが、深くため息をつく。
「支配されてんじゃねえか」
朝の海は、憎たらしいほど綺麗だった。晴れ渡った空の下、波は銀色に光り、遠くでは白い海鳥が気持ちよさそうに羽ばたいている。
港町ブルーポートを出たばかりの海賊船シーラビット号は、その美しい海を少しだけ予定と違う方向へ進んでいた。
理由は、単純だった。
リヴィアが地図を逆さに持っていたからである。
そのことに気づいたのは、副船長のネリネ・スプーンビルだった。
「船長」
穏やかな声で呼ぶ。十七歳のネリネは、どんな場面でも表情を乱さない。淡い灰茶色の髪を肩のあたりできっちり切りそろえ、制服の襟元も潮風の中とは思えないほど整えていた。細い銀縁の眼鏡の向こうで、青灰色の目だけが冷静に現実を測っている。
「地図が逆です」
「……わかってた」
「今わかりましたよね」
「わかってたわよ! 試してただけ!」
「逆さに持って試すことは何もありません」
ネリネはため息をひとつついてから、地図をリヴィアの手からそっと取り上げ、正しい向きに直して返した。
「このまま進むと、ブルーポートの灯台とまた正面から鉢合わせします。今すぐ針路を東へ」
「わかってる。東よ。東に決まってるわ」
「では東に舵を切ってください」
リヴィアは威厳たっぷりに頷いた。
「……どっちが東?」
たこまるが頭の上から飛び降り、脚の一本で操舵輪をくるりと回した。シーラビット号がゆっくりと針路を変える。
「おまえ、大海賊になる前に方角を覚えろ」
「知ってるわよ! ちょっと太陽の位置が眩しくて確認しづらかっただけ!」
「嘘をつくな、目を閉じてただろ」
「目眩が! 若干!」
「船酔いだろうが」
反論できなかった。
シーラビット号は小さな船だ。帆は二枚、船体の色は潮と日差しで少しくたびれた白、甲板には所々傷がある。港のほかの船と並べると、なんというか、少し小柄で愛らしい。
海賊船というより、どこかのおじいさんの釣り船のような風格があった。
リヴィアはそれが大変不本意だったが、今はまだ戦利品も少ないのだから仕方ない。いつか稼いで、もっと大きな船を手に入れる。そのための冒険だ。
「船長ぉ!」
後部甲板から、元気のいい声が飛んできた。
ピピ・ラグーンが、大砲の上に腰を下ろしてこちらを見ている。十四歳の見習い砲手の少女は、小柄なのに声だけが船を突き抜けるほど大きい。短く跳ねた珊瑚色の髪に、丸い空色の目。頬には火薬のすすがついていて、本人はそれを勇ましさの証だと思っている。
「今日、撃っていいですか! 練習したいんですけど!」
「何に向かって撃つの?」
「あの海鳥!」
「やめなさい」
「じゃあ、雲!」
「届かないでしょ」
「届かないなら安全です!」
「そういう問題じゃないって」
「じゃあ、浮き木!」
「近隣の漁船が困ります」
ネリネは呆れ顔で言った。
「それより、出航前に話した件ですが」
「食費のこと?」
「はい。現在、食料の備蓄が一週間分です」
「一週間もあるならじゅうぶんじゃない」
「目的の海底遺跡までは、順調に進めば片道四日です」
「なら余裕じゃない」
「問題は、船長が順調に進めなかった場合です」
「その言い方、すごく失礼じゃない?」
「地図を逆さに持っていた直後なので、必要な確認です。それに、行ったら帰らなければなりません」
「……帰るの?」
「帰ります」
「大海賊は、帰り道のことまで考えないものよ」
「考えてください」
ネリネは地図の端を指で押さえた。
「しかも今の針路だと、少し遠回りになっていました」
「もう直したから大丈夫よ」
「直す前に、すでに一時間分ほど余計に進んでいます」
「一時間くらいなら」
「片道で一時間です。また迷えば、さらに増えます」
「迷う前提なの?」
「船長を見ていると、前提に入れざるを得ません」
「信頼がない?」
「はい。なので、対策が必要です」
「つまり?」
「食費を切り詰めた方がいいかもしれないということです」
「大海賊は食費の心配なんてしないわよ!」
「では食費の心配をしない大海賊として、食料が尽きたときどうされますか?」
リヴィアは少し黙った。
「……魚を釣る」
「釣竿は昨日、船長が操舵輪に引っかけて折りました」
「……たこまるに墨を吐かせて漁をする」
「おれの墨を魚網代わりにするな」
「あたし、大砲で魚を捕れます!」
ピピが駆け寄ってきた。
「海が壊れるので却下です」
「海って壊れるんですか!」
「比喩です」
話がまとまらないうちに、船尾の方でガタリと大きな音がした。
「大丈夫です」
物静かな声がした。ベル・アンカーが船体の側面を点検しながら、こちらを振り返る。十六歳の船大工の少女は、錨を片手で持てるほど力持ちだが、言葉は少ない。日に焼けた肌に、短くまとめた砂色の髪。大きめの作業着の袖からのぞく腕はしっかりしていて、手のひらには工具を握り慣れた硬さがある。けれど、垂れ気味の目はどこか眠たげで、声と同じくらい穏やかだった。
「船底の三番板、少し緩んでましたが、締め直しました」
「ありがとう、ベル」
「……たこまるさん」
「なんだ」
「もちもちしてますか」
「するな。してる。それ以上近づくな」
ベルは残念そうに視線を外した。たこまるは素早くリヴィアの船長帽に退避した。
シーラビット号の乗組員は、今のところ、リヴィアを含めて四人と一匹だ。
未来の大海賊王にしては、少し少ない。
でも、よその海賊団みたいに怖い顔をした荒くれ者が並んでいるより、いい。リヴィアはそう思っている。たまに思う。船酔いしていないときは特に。
「で、今どこにいるの」
「ブルーポート沖、東南東の海域です」
ネリネが答えた。
「地図の通りに進めば、海底遺跡のある海域――『鏡海』には三日で着くはずです。ただし、鏡海は広い海域です。遺跡そのものまでは、そこからさらに一日ほどかかります。あくまでも、現時点での予定ですが」
「鏡海か」
リヴィアは地図を広げた。今度はちゃんと正しい向きだ。
鏡海、と書かれた海域は、地図のちょうど中ほどにある。その名の通り、海面が鏡のように凪いでいると言われている特殊な海域で、普通の船ではうまく進めない。風も波もなく、帆が役に立たないからだ。
しかし、その底に眠る遺跡には、伝説の秘宝「星潮の冠」への手がかりが刻まれていると、情報屋のシェリーは言った。
昨日のことを思い出す。
ブルーポートの路地裏。薄暗い店の奥で、シェリーはお茶をすすりながら地図を差し出した。年齢不詳の女で、いつもにこにこしているが、目だけは笑っていない。
「リヴィアちゃん、星潮の冠を探してるんでしょ?」
「探してる。知ってるの?」
「知ってるわよ。ただし、ただじゃないわよ」
結果、一ヶ月分の食費に相当する金貨を払った。ネリネが青ざめた。リヴィアはお宝を見つければ取り戻せると言った。ネリネがさらに青ざめた。
「……まあ、なんとかなる」
「なにがなんとかなるんですか」
「ぜんぶよ。大海賊はなんとかするもんなの」
「具体的な手段を教えてください」
「根性よ」
「食費は根性では補えません」
ともあれ、今日の真昼の海は、穏やかだった。
波は緩く、風は程よく、空は青く晴れ渡っている。リヴィアは手すりから離れ、帽子の位置を直した。胃の奥がまだ少し揺れているが、これくらいなら我慢できる。
わたしは大海賊になる女だ。船酔いくらいで倒れていられない。
「よし」
リヴィアは甲板の中央に立ち、できるだけ威厳のある声を出した。
「全員聞きなさい。わたしたちは今から、誰も手に入れたことのない秘宝を探しに行く。星潮の冠よ。見つけた者は世界一の航海者として認められる。つまり、わたしたちが見つければ、このシーラビット号は世界一になるってこと!」
「船長ぉ! かっこいいです!」
ピピが叫んだ。
「で、食費の方針は」
ネリネがまた突っ込む。
「……魚を釣る」
「竿を買うお金は」
「……なんとかなる」
「また根性ですか」
たこまるが帽子のつばから降りてきて、リヴィアの肩に乗った。八本の足のうち二本で腕を組み、偉そうな顔をしている。
「まあ、おれが料理すれば食費は多少浮く。食材の調達は別の話だが」
「たこまる、ありがとう」
「礼を言うな。高貴なる深海知性体にとって、食料管理くらい朝飯前だ」
「料理担当は私です」
ネリネが言った。
「おれの方がうまい」
「それについては異議があります」
「昨日のスープを飲んだか」
「あなたが勝手に作ったスープを飲まされた記憶はあります」
「うまかっただろ」
「……うまかったです」
「以上だ」
ネリネが微妙な顔をした。リヴィアは少し笑った。
こういう船だ。シーラビット号は。
でも、悪くない。少しも悪くない。
午後になると、海の色が変わってきた。
港町を離れるにつれて、水の青さが深くなる。緑がかった浅瀬の色から、透き通った藍色へ。水平線の向こうは、もう目に見えないほど遠い。
リヴィアは舳先に立ち、その青を眺めた。
海は広い。広すぎる。どこまで行っても終わらないような気がする。
子どもの頃は、それが恐ろしかった。
今は、それが好きだ。
風にあおられて、赤みがかった栗色の髪が頬にかかった。リヴィアはそれを乱暴に耳へかけ、船長帽を深くかぶり直す。背は高くない。細い肩に外套を羽織っていても、伝説の海賊の娘というより、背伸びをして船長の格好をしている少女に見える。
それでも、琥珀色の目だけは、水平線から逸れなかった。
両親のことを、少し考えた。
父と母は、この海をどこまでも進んだ。誰も知らない島を見つけて、誰も越えたことのない嵐を越えて、「空裂きのシルヴェイル」と呼ばれた。伝説の海賊団の、中心にいた人たちだ。
リヴィアはシルヴェイル家の末裔として、港に行くたびに言われる。
あなたが船長のリヴィア? お父上とお母上に似てる? シルヴェイル家なら、さぞかし腕が立つんでしょうね。
似てない、と思う。
どこも似ていない、と思う。
船酔いするし、方向音痴だし、泳ぎも苦手だし、地図を逆さに持つ。
でも、リヴィアは航海を続けている。
なぜかと言えば、進みたいからだ。誰かの伝説を追いかけているからじゃなくて、自分の地図を作りたいからだ。
そのためには、星潮の冠が要る。世界一の航海者として認められれば、少なくとも「シルヴェイル家の娘」ではなく、「リヴィア・シルヴェイル」として海を行ける。
「……わたしは大海賊になる女よ」
小さな声で呟く。誰にも聞こえないくらいの。
「知ってるよ」
たこまるが、呆れ気味に突っ込んだ。
リヴィアは振り向かなかった。たこまるもそれ以上何も言わなかった。
ただ、いっしょに少しの間、水平線を眺めた。
それから、また船が揺れた。
リヴィアは手すりに戻った。
「支配してるの」
「分かった。支配してろ」
たこまるは、それ以上は何も突っ込まなかった。
夕方、空の様子が変わってきた。
「雲が速いですね」
ネリネが空を見上げた。
「天気が崩れる?」
「可能性があります。急に暗くなってきました」
確かに、さっきまでの晴れ間が消えている。厚い雲が西の方から流れてきて、空を覆い始めていた。
しばらくすると、風が強くなり、波が少し荒れてきた。
「帆を絞って!」
リヴィアが叫んだ。
「ピピ、大砲の固定を確認して!」
「はいはーい!」
「ベル、船体の点検!」
「……了解」
シーラビット号が揺れ始める。波が船底を叩く音が大きくなった。
「固定、できてます! でも大砲、撃ちたそうです!」
「大砲の気持ちを代弁しないで!」
ピピはびしょ濡れになりながらも、砲台の縄をもう一度引いた。
ベルは船縁に膝をつき、波をかぶりながら板の継ぎ目を押さえていた。
「……まだ、もつ」
「ベル、その言い方こわい!」
「もつから、大丈夫」
リヴィアは舵を握った。手が白くなるほど強く握った。
嵐だ、と思った。
普通の嵐ではない、とも思った。
雲の中で、何かが光った。稲妻ではない。もっと青くて、奇妙な光だ。まるで水の中から光っているような、波そのものが発光しているような色だった。
「魔法嵐!」
ネリネが叫んだ。
「この辺りに出ると聞いたことはありましたが……!」
「どんな嵐?」
「人工的に作られた嵐です。誰かが、意図的に起こしている可能性が高い」
「誰が?」
「分かりません」
「ただ、普通の魔法使いが起こせる規模ではありません。海流そのものをいじれる立場か、そういう古い道具を持っている者でなければ」
「つまり、ろくでもない誰かってことね」
「はい。かなり、ろくでもない誰かです」
波が跳ね上がった。
船体が大きく傾いた。
リヴィアは舵にしがみついたが、次の瞬間に甲板が大きく持ち上がって、足が浮いた。
「あ」
手すりに指がかかった。かかったが、波が来た。
冷たい水が全身を覆った。
リヴィアは、海の中にいた。
夕暮れの光はもうほとんど届かなかった。
暗い。
冷たい。
重い。
泳ぎが苦手、というのは、正確には少し違う。正確には、全然泳げない、という方が近い。蹴っても進まない。手を動かしても浮かない。泡だけが上に上がっていく。
本当にまずい、と思った。
でも、その前に、光が来た。
海の底から、白い光が滲むように広がってきた。
人影だ。いや、人ではない。上半身は人の形をしているが、下半身は大きな魚の尾びれだ。
銀青色の髪が、水の中でゆっくりとなびいている。
手が、リヴィアの腕をつかんだ。
気づいたら、海面にいた。
空気が肺に戻ってくる。リヴィアは必死に息を吸った。
波はまだ荒れているが、何かが周囲の水を静めている。まるでその誰かを中心にして、海が少しだけ落ち着いているようだった。
「大丈夫ですか?」
声は、すぐそこから聞こえた。
振り向くと、少女がいた。
水面から上半身だけを出して、リヴィアの腕を支えている。年頃はリヴィアと同じくらいだ。銀青色の長い髪が、濡れて肩に張り付いている。目の色は、深い海の色をしていた。そして、水の中に沈んでいる下半身には、真珠色の尾びれがあった。
人魚だ、とリヴィアは思った。
本物の人魚だ、とも思った。
「……わたし、生きてる?」
「生きています」
少女はおっとりした声だった。
「でも、もう少しで沈むところでした」
「泳ぎが、得意じゃなくて」
「見ていました」
空から、シーラビット号のロープが降ってきた。たこまるが八本の足でロープをつかんで降りてきながら、叫んでいる。
「リヴィア! 無事か!」
「無事!」
「カナヅチが海に落ちるな! 毎回言ってるだろ!」
「一回目よ! 今回が!」
「これが最初じゃないことは知ってるぞ!」
リヴィアはロープをつかみながら、隣の少女に視線を戻した。
人魚の少女は、リヴィアをじっと見ていた。その目に、何か輝くものがある。期待のような、好奇心のような。
「あなた、海賊ですか?」
リヴィアは、ロープを握ったまま答えた。
「そうよ。リヴィア・シルヴェイル。シーラビット号の船長よ」
少女は、少しだけ息を飲んだ。
それから、にっこりと笑った。
「あなたが、私をさらってくださる海賊さんですか?」
リヴィアは、何も言えなかった。
波が穏やかになっていく夜の海で、人魚の少女が、まるで夢の中で待ち続けていたものに出会ったような顔をして、笑っていた。
たこまるだけが、ロープの上で短い足を八本ばたばたさせながら、叫んだ。
「どういう状況だ!」




