Voyage 22 自由航路のはじまり
しばらくして、船の揺れが落ち着いてきた。
珊瑚宮を離れた海は、さっきまでより少し明るく見えた。帆は安定して風を受け、シーラビット号は北東へまっすぐ進んでいる。
ミルフィナは舳先から海を見ていたが、何かを思い出したように振り向いた。
「リヴィアさん」
「何」
「海の聞き方の残り四回、いつ教えますか」
「今夜から始めましょう」
「今夜から?」
「四回残ってる。早く全部教えてもらいたい」
「急ぎますか」
「急がない。でも、全部聞きたい」
「全部聞いたら、どうしますか」
「また最初から教えてもらう」
「最初から?」
「一回聞いただけでは覚えられないわよ。何度も聞かないと」
「何度でも教えます」
「じゃあ、何度でも聞く」
ミルフィナは少しだけ目を丸くしたあと、嬉しそうに笑った。
「何度でも来てください」
「来る。毎晩」
「毎晩ですか」
「ダメ?」
「ダメではありません。嬉しいです」
「また嬉しいって言う」
「嬉しいので」
「分かった」
そこで、補助の操舵をしていたたこまるが、八本の足のうち一本を器用に舵へかけたまま口を挟んだ。
「おまえら、毎晩甲板で海の授業か。波穏やかな夜が続くといいな」
「続くといいわね」
ミルフィナは少し目を閉じた。風の音を聞くように、耳を澄ませる。
「続きますよ。今の海流なら、しばらく穏やかです」
「読んでくれたの?」
「はい。三日は穏やかです」
「では、三回は確実に教えてもらえる」
「はい。三回は確実です」
「残り一回は?」
「その次の海流次第です」
「じゃあ、穏やかな海流が続くように、あなたが歌えばいい」
「それは、少し反則です」
「反則でもいいわよ。あなたの歌なら」
ミルフィナは困ったように笑った。嬉しさとためらいが、同じ顔の中にある。
「……では、考えます」
「考えて」
「考えた結果、少しだけ歌うかもしれません」
「少しだけ?」
「あまり操作すると、自然な流れが乱れます。でも、少しだけなら」
「少しだけ歌って」
「はい」
そのやり取りを聞いていたたこまるが、少しだけ声を低くした。
「海を操作するのは、あまり勧めないが」
「少しだけです」
「少しだけなら、まあ」
「はい。少しだけ」
「ただし、疲れたら止めろ」
「止めます」
「約束しろ」
「約束します」
「よし」
リヴィアは舵を握った。
前を向いた。水平線が続いていた。雲がなければ、水平線は遠くまで見えた。その先に、港町がある。その先に、見たことのない海域がある。深海図書館から写した海図に、いくつかの場所が記されていた。
「次、どこへ行きましょうか」
「港町のあと?」
「はい」
「ローザの海図に、気になる場所がいくつかある。巨大亀の背中に町があるっていう場所」
「巨大亀の背中に?」
「そう。クジラの背中に図書館があったんだから、亀の背中に町があっても不思議じゃない」
「行きたいです」
「行きましょう」
「他には?」
「幻の港町という記録がある。霧の中にある港で、迷い込んだ船だけが入れると書いてある」
「迷い込まないといけないのですか」
「そうらしい。わたし、方向音痴だから、迷い込む可能性は高い」
「……それは、強みですか」
「この場合は強みよ」
「では、方向音痴は今後も維持してください」
「維持するわよ、意図しなくても」
ミルフィナが笑った。
「他には?」
「星が降る海、という場所がある。夜、空の星が海に降ってきて、水面に浮かぶらしい」
「見たいです」
「見ましょう」
「リヴィアさんと一緒に見たいです」
「一緒に見るわよ」
「約束ですか」
「約束よ」
「では、楽しみにしています」
「楽しみにして」
「ずっと楽しみにしていていいですか」
「いいわよ」
「着くまでの間、ずっと楽しみにしています」
「着いたら、もっと楽しい」
「そうですね」
ピピが甲板を走り回っていた。ベルが黙って甲板の傷を確認していた。ネリネが手帳に何かを書いていた。
ミルフィナは舳先の方で、海流の音を確かめるように目を閉じていた。たこまるは補助の操舵をしながら、遠くを見ていた。
「たこまる」
リヴィアが呼んだ。
「何だ」
「遠くを見てる。何が見える?」
「何も見えない。水平線だけだ」
「何を考えてる?」
「何も考えていない。ただ見ている」
「ただ見ることも、あるのね」
「ある。考えすぎると疲れる。たまにただ見る」
「いい習慣ね」
「そうかもしれない」
「わたしも、たまにただ見る」
「知っている。おまえは水平線をよく見る」
「見てた?」
「見ていた。この旅で何度も見ていた」
「観察してたのね」
「観察が得意だと言っただろう」
「そうね。言ってた」
「ミルフィナも水平線を見るようになった」
「そうね。最初の頃は、下ばかり見ていた」
「今は前を見る」
「変わったのね」
「変わった。おまえもだ」
「わたしも?」
「おまえは、最初は水平線の先に何があるかを見ていた。今は、水平線そのものを見ている」
「違いが分かる?」
「分かる。目の焦点が違う。先を見る時と、今を見る時は、目が違う」
「……今を見るようになった?」
「そうだ。先ばかり見ていると、今が見えなくなる。今を見るようになると、先も分かってくる」
たこまるは補助の操舵を続けたまま、水平線から目を離さなかった。
「ミルフィナのおかげかもしれない」
「そうかもしれない。ミルフィナは今をよく見る。おまえはそれを見ていた」
「感染したのね」
「感染、というよりは、影響を受けた」
「同じじゃない?」
「少し違う。感染は意図せず広がる。影響は受け取ったということだ」
「……受け取った、ということね」
「そうだ」
しばらく、波の音だけが間に入った。
その声が聞こえたのか、ミルフィナが舳先から戻ってきた。
「何を話していましたか」
「あなたの話よ」
「私の?」
「あなたから影響を受けた、という話」
「どんな影響ですか」
「今を見るようになった」
「今を見る?」
「水平線の先ばかり見ていたのが、今の海を見るようになった、ということよ」
「よかったです」
「なんで?」
「今の海が、綺麗だから。今を見れば、綺麗なものが見えます」
「そうね」
「では、これからも今を見てください」
「見る。あなたが隣にいれば、見やすい」
「隣にいます」
「いて」
「います」
リヴィアは少しだけ視線を逸らし、また海を見た。
「おれも今を見ることにする」
たこまるが、急に真面目な声で言った。
「たまにでいいわよ」
「たまにじゃなく、いつもにする」
「いつも?」
「今を見ていれば、料理の素材も分かりやすい。今の食材が何かを見れば、何を作るか決められる」
真面目な話は、そこで急に台所へ着地した。
「……料理の話になった」
「料理は今だ。今ある素材で、今作る。そういうものだ」
「哲学的ね」
「哲学ではない。料理の話だ」
「同じじゃない?」
「違う」
「どう違うの?」
「料理は食べられる。哲学は食べられない」
「……それは確かに違う」
「だろう」
ミルフィナが笑った。
「たこまるさんは、面白いですね」
「面白くない」
「面白いです」
「面白くない」
「面白いです」
「……そういうことにしておく」
「はい」
昼になった。
たこまるが昼食を作った。ネリネが半分手伝った。言い合いをしながら、でも結果的にいつもより多い品数が出てきた。
「多い」
リヴィアが突っ込んだ。
「気合いが入った」
「なんで?」
「出発の日だから」
「昨日も今日も、特別じゃないわよ。毎日が続いているだけ」
「それでも、節目はある」
「節目?」
「珊瑚宮を出た。また海に出た。それが節目だ」
「そうね。節目ね」
「節目には、いい食事が合う」
「合うわね」
「食べろ」
「食べる」
全員で食べた。いつもより多い料理を、全員で、甲板で食べた。風が気持ちよかった。波が穏やかだった。空が青かった。
「おいしいです」
ミルフィナが言った。
「当然だ」
「今日は特においしい気がします」
「気合いが入っているから」
「気合いが味に出るのですね」
「出る。料理は気持ちで変わる」
「では、これからも気合いを入れてください」
「毎回入れている」
「今日は特に?」
「今日は特に」
「ありがとうございます」
「礼は要らない」
「言います」
「……好きにしろ」
午後、風が少し強くなった。
帆がよく膨らんで、速度が上がった。
「このペースなら、二日より早く着けるかもしれません」
ネリネが言った。
「急がなくていいわよ」
「急がない方がいいですか」
「港町に着いたら、また次に動く。急いで着いても、急いで出ることになるだけ」
「では、このままで」
「このままで」
ミルフィナが舳先に立っていた。風を受けていた。銀青色の髪が、後ろに流れていた。
リヴィアが近づいた。
「気持ちいい?」
「気持ちいいです」
「風が強い日は、こうなるのよ」
「知りませんでした。初めて経験します」
「甲板の端に立つと、風がよく当たる」
「教えてくれましたね。また教えてもらえました」
「まだ教えることがあるわよ。嵐の前の風の匂いとか、夜光虫が光る海域の見分け方とか」
「全部教えてください」
「全部教えるわよ。時間はたくさんある」
「はい。たくさん教えてもらいます」
「たくさん教える」
二人で風を受けた。
たこまるが後ろから言った。
「おまえら、舳先で二人で立つのは、これが最初ではないな」
「最初の方からやってたわよ」
「そうだ。最初の頃から、よく二人で立っていた」
「観察していたのね」
「している。変化が分かる。最初は、並んでいるが少し距離があった。今は、距離がない」
「……そんなに変わってる?」
「変わっている。気づいていなかったか」
「気づいていなかった」
「ミルフィナは気づいていたか」
「……少し、気づいていました」
「そうか」
「たこまる」
「何だ」
「あなたは、この旅で一番多く見てきたのね。全部」
「そうだ。肩の上から全部見ていた」
「どうだった?」
「どう、とは」
「この旅を見てきて、どうだった、ということよ」
「……よかった」
「それだけ?」
「それだけだ。よかった」
「もっと言って」
「よかった、以上のことは言えない。よかったが全部だ」
「分かった。よかった、ということね」
「そうだ」
「わたしも、よかったと思う」
「そうか」
「あなたがいてくれたから、よかった」
「……礼は要らない」
「言う」
「言わなくていい」
「言う。ありがとう、たこまる」
たこまるが少し黙った。
「……どういたしまして」
夕方になった。
空が橙に染まった。水平線が光った。シーラビット号の影が、海面に長く伸びた。
「今日も綺麗ですね」
「そうね」
「毎日綺麗です」
「毎日綺麗よ」
「これからも毎日見ます」
「見ましょう」
「一緒に」
「一緒に」
ピピが叫んだ。
「夕日です! きれいです!」
「見てるわよ」
「あたしも見てました! でも叫びたかったので!」
「叫んでいいわよ」
「ありがとうございます!」
「あまり大声でなければ」
「分かりました! 大声じゃなく叫びます!」
「大声じゃなく叫ぶのは難しいわよ」
「やってみます! 船長! これくらいですか!」
「普通に大声よ」
「では、心の中で叫びます!」
「それはもう叫んでないわ」
ネリネが来た。
「今夜の海の聞き方の授業は、何時頃ですか?」
「授業って言うのね」
「ミルフィナさんが教えてくれると聞いたので、参加してよいですか」
「ネリネも?」
「海流の読み方に、実用的な応用ができるかと思いまして」
「もちろんです。一緒に聞いてください」
「ありがとうございます」
「ピピさんとベルさんも聞きますか」
「聞きます!」
ピピが叫んだ。
「……聞く」
ベルが言った。
「では、全員で」
「全員で聞くのね」
「いいですか?」
「いいわよ。全員で聞きましょう」
「では、夕食のあとに」
「夕食のあとね」
「夕食はおれが作る」
「今日も?」
「節目には食事が合うと言った。今夜は出発してから最初の夜だ。節目だ」
「節目が多い」
「それでいい。節目が多い方が、食事がうまくなる」
「……そういうもの?」
「そういうものだ」
「分かった。今夜もお願いする」
「任せろ」
「その理屈でいくと、明日の朝も節目です」
ネリネが言った。
「もちろん節目だ」
「食材の消費が増える節目ですね」
「……」
たこまるは困った顔を浮かべ、八本の足をきゅっと丸めた。
「……節目にも限度がある」




