Last Voyage この恋、出航しました!
夕食が終わったあと、全員が甲板に集まった。
ミルフィナが、全員の前で言った。
「では、海の聞き方を教えます。まず、目を閉じてください」
「全員?」
「全員です」
全員が目を閉じた。リヴィアも閉じた。
たこまるだけが、目を閉じたのか開けているのか分からなかった。
「たこまる、閉じてる?」
「閉じてるつもりだ」
「つもりって何」
「波の音を聞いてください。高い波と、低い波があります。どちらが遠くから来ていますか」
「高い波が遠くから来てる」
リヴィアが最初に答えた。
「正解です。残りの方は?」
「同じ気がします」
ネリネは目を閉じたまま、少し首を傾けた。
「難しいです」
ピピは眉間にしわを寄せている。
「……分からない」
ベルは小さく首を横に振った。
「たこまるさんは?」
ミルフィナが尋ねた。
「高い方が遠い。それは知っていた」
「では、次です。遠くからくる高い波と、近くで生まれた低い波、混じり合うとどんな音になりますか」
「複雑な音になります」
ネリネが答えた。
「そうです。その複雑さが、海の状態を教えてくれます。複雑すぎる時は、遠くで何かが起きています。嵐かもしれませんし、大きな船が通ったのかもしれません」
「今の音は?」
「穏やかです。遠くも近くも、落ち着いています。明日の海は、今日と同じくらい穏やかだと思います」
「目を開けていい?」
リヴィアが尋ねた。
「どうぞ」
目を開けた。夜の海が広がっていた。星が出ていた。
「今夜は星が多いですね」
「そうね」
「星が多い夜は、明日が晴れることが多いです」
「どうして?」
「雲がないから星が見えます。雲がなければ、明日も晴れる可能性が高い」
「それは海の聞き方じゃなくて、空の見方ね」
「そうですね。組み合わせて使います。海を聞いて、空を見て、風を感じて、全部合わせると、明日の海が分かります」
「全部?」
「全部です。海だけを聞くのではなく、全部を同時に感じます」
「難しいわね」
「難しいですが、慣れます。何度も繰り返せば」
「何度でも教えてもらう」
「何度でも教えます」
「今夜はここまでにして、明日また続き?」
「はい。今夜は一回目です」
「残り三回」
「はい」
「三回分、楽しみにしてる」
「私も楽しみです」
「じゃあ、今夜は解散しましょう。みんな、ありがとう」
リヴィアがそう言うと、ピピが勢いよく頭を下げた。
「ありがとうございました!」
「勉強になりました」
ネリネは手帳に何かを書き留めている。
「……また教えてください」
ベルは小さくそう言って、ミルフィナに目を向けた。
「教えます」
ミルフィナは嬉しそうに頷いた。
リヴィアとミルフィナだけが甲板に残った。
ネリネとピピとベルは、それぞれ船室へ戻っていく。たこまるだけは、船長帽の上に残っていた。
「今夜、一回目が終わりました」
「残り三回ね」
「三回で終わりです」
「終わったら、また最初から教えてもらう」
「言いましたね、昨日も」
「忘れてない。また最初から教えてもらう」
「では、ずっと教え続けます」
「ずっと?」
「リヴィアさんが乗っている間は、ずっと」
「乗っている間、というのは、ずっとよ」
「ずっと乗っていてくれるのですか」
「乗っているわよ。降りる理由がない」
「降りる理由はありませんか」
「ない。ここが、今のわたしの場所だから」
「私も、ここが今の場所です」
「では、しばらく同じ場所ね」
「しばらく、ではなく、しばらくという言葉が続いていくのではないですか」
「どういう意味?」
「しばらく同じ場所にいて、またしばらく同じ場所にいて、それが続いていく、ということです」
「……長いしばらくね」
「はい。長いしばらくです」
「それでいいわよ」
「私も、それがいいです」
星が増えた。
ミルフィナが空を見た。
「今夜は、星が多いです」
「そうね」
「明日も晴れます」
「晴れるといいわね」
「晴れます。約束はできませんが、晴れると思います」
「信じる」
「信じてくれますか」
「信じる。あなたの海流の読みは、外れたことがないから」
「一度、少し外れました」
「どこで?」
「セレナに追跡された時、もう少し時間があると思っていたのですが、セレナが追ってくるのが少し早かったです」
「そんな細かいところまで覚えてるの?」
「外れた時は、覚えています」
「……真面目ね」
「外れた原因を知らないと、次に役立てられません」
「では、外れた原因は分かった?」
「セレナが、私の予測より速かったのです。セレナは、普通の近衛より速いということを、もっと早く把握すべきでした」
「でも、逃げ切った」
「逃げ切りました。たこまるさんの墨と、リヴィアさんの舵のおかげです」
「全員で逃げ切った」
「はい」
「これからも、全員で動く」
「はい。全員で」
「約束ね」
「約束です」
船長帽の上で、たこまるが言った。
「おまえら、まだいるのか」
「もう少しだけ」
「また始まった」
「もう少しだけよ」
「何分?」
「五分」
「五分後に確認に来る」
「来なくていい」
「来る」
「……分かった。五分で行く」
「よし」
「たこまるさん、やさしいですね」
「やさしくない。時間管理だ」
「やさしいです」
「やさしくない」
「やさしいです」
「……好きにしろ」
たこまるが黙った。
五分の間、二人で星を見た。星と、海と、風の音と、シーラビット号の揺れだけがあった。
「リヴィアさん」
「何」
「この旅を始める前、どんな海賊になりたいと思っていましたか」
「伝説の海賊よ。両親のような」
「今は?」
「今は、違う」
「どう違いますか」
「今は……ミルフィナが自由に歌える海を守れる船長になりたい。それが、わたしの答えよ。ローザとの言い合いで言った言葉が、今も変わらない一番の答え」
「変わらないのですか」
「変わらない。言葉にした時、これだと思った。それが変わる気がしない」
「嬉しいです」
「また言う」
「嬉しいので、言います」
「分かった。じゃあ、わたしも言う」
「何を?」
「ミルフィナが、この船にいてくれて、よかった」
「……それは、私が一番嬉しい言葉です」
「知ってる。だから言った」
「知っていて言ったのですか」
「知っていて言った。一番嬉しいことを、言いたかった」
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
約束の五分が過ぎた。
「行きましょう」
「そうね」
二人は甲板を離れ、船室へ続く短い廊下を歩いた。
「おやすみ」
「おやすみなさい、リヴィアさん」
「明日も、日の出を一緒に見る?」
「見ます」
「では、また明日」
「また明日」
ネリネと相部屋になっている部屋の前で、ミルフィナは足を止めた。
それから、もう一度だけリヴィアを見て、静かに扉を閉めた。
その音を聞いてから、船長帽の中でたこまるが言った。
「五分、守ったな」
「守ったわよ」
「偉い」
「偉くない。約束を守っただけ」
「それが偉い」
「……ありがとう」
「礼を言うな」
「言う」
「言わなくていい」
「言う。たこまる、ありがとう」
「……どういたしまして」
リヴィアは少し笑って、自分の部屋の扉を開けた。
窓から星が見えた。ミルフィナが言った通り、今夜は星が多かった。
「明日も晴れるわね」と小さな声で言った。
「晴れるな」
「ミルフィナが言ったから」
「そうだ。あいつの読みは当たる」
「これからも当たるといいわね」
「当たる。精度が上がってきている」
「上がってきてるの?」
「この旅で上がった。最初より、ずっと正確になった」
「成長したのね」
「全員、成長した」
「たこまるも?」
「おれも」
「どこが?」
「……正直に言える場面が増えた」
「それは、よかった」
「よかったかどうかは分からない。ただ、そうなった」
「よかったわよ。あなたが正直に言ってくれると、助かる」
「助かるなら、続ける」
「続けて」
「続ける」
リヴィアは横になった。
星の光が窓から入ってきた。明日も晴れる。ミルフィナがそう言った。信じる。
「たこまる」
「何だ」
「次の場所、どこに行きたい?」
「深海の素材が手に入る場所がいい」
「巨大亀の背中の町は?」
「そこに深海の素材があるかは知らない」
「行って確かめましょう」
「そうだな。行って確かめる」
リヴィアは目を閉じた。
明日、また日の出を見る。ミルフィナと一緒に。全員で。
港町に着いたら、補給する。それから巨大亀の背中の町へ向かう。幻の港町も、いつか。星が降る海も、いつか。
いつか、ではなく、きっと行く。
この船で、まだ見たことのない海へ。
「行くわよ」と小さな声で言った。
朝になれば、また出発する。
それが、この船の、リヴィア・シルヴェイルの、大海賊になる女の、毎日だ。
まだ途中だ。でも、途中であることが、今は好きだった。
目を閉じた。
シーラビット号は、穏やかな夜の海を、まっすぐに進んでいった。
その先に、まだ見たことのない朝が待っていた。
それから二日後、港に着いたとき、桟橋にいた誰かが声を上げた。
「シーラビット号だ」
「人魚姫を連れて、星潮の海溝から戻った船だって」
「船長は?」
「あの子だ。リヴィア船長」
リヴィアは、足を止めた。
シルヴェイル家の娘、とは誰も言わなかった。
空裂きのシルヴェイルの子、でもなかった。
リヴィア船長。
それだけで、少しだけ胸が熱くなった。
「……聞いた?」
「聞いた」
たこまるが、帽子の上で偉そうに頷いた。
「ようやく名前で呼ばれたな」
「前から名前はあるわよ」
「そういう意味じゃねえ」
「分かってる」
シーラビット号は、港町を出て、次の目的地へ向かった。
帆の端には、小さな文字がある。
自由航路。
風を受けて、その文字が、大海原に向かって進んでいった。
(おしまい)




