Voyage 21 この恋、出航寸前です!
出発の朝は、晴れていた。
珊瑚宮の上の海面は、鏡のように凪いでいた。朝の光が水面を通り抜けて、海底まで届いていた。珊瑚宮の白い壁が、その光を受けて、いつもより明るく見えた。
リヴィアとミルフィナが並んで日の出を見た。昨日の約束通りだった。
「今日も赤いですね」
「昨日と同じ太陽よ」
「でも、今日の方が赤い気がします」
「気のせいよ」
「気のせいでも、赤いです」
「そうね。赤いわね」
たこまるが肩に乗ってきた。
「今日も見るのか」
「毎日見る」
「そうか」
「たこまるも見る?」
「見る。毎日見る」
「三人で毎日ね」
「四人目と五人目と六人目も来るだろう」
「そうね」
案の定、ピピが走ってきた。
「日の出!」
「また遅かったわよ」
「少しだけ! 昨日より早かったです!」
「昨日よりは早かった」
「明日はもっと早くします!」
「じゃあ、明日こそ一緒に見ましょう」
「はい!」
ネリネが出てきた。ベルが出てきた。全員が甲板に集まった。
「今日で珍しくもなくなりましたね」
ネリネが言った。
「全員で見るのが?」
リヴィアが突っ込んだ。
「はい。最初の頃は、こんな習慣はありませんでした」
「ミルフィナが来てから始まったのね」
「そうです」
「続けましょう」
「はい」
日が上がった。
準備が整った。
シーラビット号が、出発できる状態になっていた。帆は白くなっていた。船体の傷は補修済みだ。
セレナが来た。
「見送りに来ました」
「ありがとう」
「ローザさんも来るそうです」
「ローザが?」
「信号がありました。少し待ってほしいと」
十分ほどして、小舟がヴァーミリオン号から来た。ローザだけではなかった。シェリーがいた。
「シェリー?」
「久しぶりね、リヴィア」
シェリーがいつもの、にこにこした顔を浮かべていた。
「たまたまこの辺りにいたのよ。見送りくらいはしないと」
「たまたまいたの?」
「情報屋は、いろんな場所にいるのよ。珊瑚宮の近くにいることだって、ある」
「珊瑚宮の近くに普通の情報屋はいないわよ」
「普通ではないから情報屋なのよ」
「……まあ、来てくれてありがとう。シェリー、地図の値段が高かった」
「適正価格よ」
「高かった」
「でも、役に立ったでしょ」
「役に立った。だから文句は言わない」
「それでいいのよ」
シェリーが笑った。それからミルフィナを見た。
「あなたが噂の人魚姫ね」
「ミルフィナと申します」
「よく自分から乗ったわね。あの海賊の船に」
「面白そうだったので」
「面白かった?」
「とても」
「そう。よかったわ」
シェリーが手のひらに何かを乗せた。小さな貝殻だった。
「これを、餞別に持っていきなさい」
「何の貝殻?」
「歌う貝殻。人魚の声で歌う種類よ。ミルフィナが近づくと、いい音がするはずよ」
「シェルマーケットで売ってたやつ?」
「似たものね。こっちの方が質がいいわ」
「ありがとう」
「値段は取らないわよ。今回は無料」
「珍しいわね」
「無料にする時もあるわよ。気分次第で」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
ミルフィナが貝殻を受け取った。近づくと、小さな音がした。波の音に似た音だった。
「いい音がします」
「気に入った?」
「はい。ありがとうございます」
「お礼を言わなくていいわよ」
「言います。嬉しいので」
「……そう。じゃあ、持っていきなさい」
ローザが前に出た。
「行くの?」
リヴィアが尋ねた。
「行くわ。わたしも次の場所へ行く。深海図書館から写した海図があるから、新しい場所を探しに行く」
「またどこかで会う?」
「会うでしょ。腐れ縁なんだから」
「腐れ縁はなかなか切れないわよね」
「そうね。切れないから腐れ縁よ」
「じゃあ、またどこかで」
「またどこかで」
ローザはミルフィナに向いた。
「ミルフィナ、また会いましょう」
「はい、またいつか」
「あなたとリヴィアの話、次に会う時には進展しているといいわね」
「進展、というのは?」
「今のまま、ということはないでしょ。いい方向に変わっていくでしょ、という意味よ」
「そうですね。変わっていくと思います」
「楽しみにしているわ」
ローザはリヴィアを見た。
「あなたもね」
「わたしは何も言わない」
「言わなくていいわよ。顔が言ってるから」
「どんな顔?」
「いい顔よ。今日一番いい顔をしている」
ローザとシェリーが小舟に乗った。
「またね」
ローザがリヴィアに向かって言った。
「またね」
「腐れ縁を大切にしなさいよ」
「大切にする」
「それでいい」
小舟が離れた。ヴァーミリオン号に向かっていった。
セレナが最後に前に出た。
「出発前に、一つだけ」
「何?」
「ミルフィナ様」
「はい」
「王宮を出てから、よく笑うようになりました。それが一番の変化です」
「気づいていましたか」
「気づきませんでした。でも、今日のあなたの顔を見て、分かりました。王宮にいた時と、今とで、顔が違います」
「どう違いますか」
「今の方が、軽いです。重さがなくなった、という意味ではなく、背負いすぎていたものが減った、という感じです」
「減りました。リヴィアさんの船で、少しずつ降ろせました」
「よかったです」
「セレナも、変わりましたよ」
「変わりましたか」
「はい。前は、命令がなければ動けない人でした。今は、自分で判断して動きます」
「……そうですね。変わりました」
「よい変化です」
「ありがとうございます」
「元気でいてください」
「ミルフィナ様も」
「はい」
セレナが下がった。
「それじゃ、出航するわね」
「待ってください」
「何?」
「帆を見てください」
見た。
帆に、何か書いてあった。白くなった帆の端に、小さな文字があった。王国の文字だった。
「なんて書いてある?」
「自由航路と書いてあります。帆を修理してくれた職人が、入れてくれたようです」
「知らなかった」
「私も今気づきました」
「ネリネ、見た?」
「昨日から気づいていました。言おうか迷いましたが、出発の時に気づく方がいいと思いまして」
「そういう判断をするのね」
「たまには」
「ありがとう」
「どういたしまして」
帆を見た。白い布に、小さな文字。自由航路。
「いい帆になったわね」
「はい。とても」
「行くわよ」
「はい」
「ネリネ、北東の海流に乗る準備を」
「準備できています」
「ピピ、帆を全開で」
「はい!」
「ベル、最後に船体の確認を」
「……今やった。問題ない」
「たこまる、補助操舵に入って」
「了解だ」
「ミルフィナ、海流を読んで」
「はい。今、読んでいます。北東の流れが安定しています。この方向で問題ありません」
「では、出航する」
帆が風を受けた。
シーラビット号が動き始めた。
珊瑚宮が、ゆっくりと遠ざかっていった。セレナが手を振っていた。リヴィアが手を振り返した。ミルフィナも振り返した。
「また来る?」
リヴィアがミルフィナに尋ねた。
「また来ます」
「いつ?」
「必要な時に」
「必要じゃなくても来てもいいわよ」
「では、来たい時に来ます」
「それでいい」
珊瑚宮が見えなくなった。
深海から上に向かって、シーラビット号が浮上した。水面を突き抜けた。空気が来た。太陽の光が来た。
海の上に出た。
青い空だった。雲が少なかった。風が程よかった。波は小さかった。
「綺麗ですね」
「いつもこうよ」
「いつもこれを見ていたのですね」
「当たり前になっていたけど、あなたが言うと特別に見える」
「では、これからも言います。綺麗ですね、と」
「毎日?」
「毎日、綺麗な時に」
「毎日綺麗よ」
「では、毎日言います」
「……言って」
「はい。言います。今日も綺麗です」
「そうね。今日も綺麗よ」
ピピが走ってきた。
「港町まで何日ですか!」
「二日半よ」
「途中で何かありますか!」
「何かあるかは行ってみないと分からない」
「じゃあ、何かあるといいです!」
「何かある方がいいの?」
「冒険ですから!」
「冒険ね」
「はい! 何かあった方が楽しいです!」
「何かあると大変よ」
「大変な方が楽しいです!」
「……そうかもしれない」
ネリネが来た。
「航路の確認です。このまま北東へ進めば、二日後の昼に港町が見えてきます。食料はじゅうぶんあります」
「帆の状態は?」
「修理してもらったので、以前より良い状態です」
「船体は?」
「ベルが確認済みで、問題ありません」
ベルは船縁に手を置いたまま、海面を見ていた。
「……水の中より、上の風の方が好き」
「ベル、そういうこと言うんだ」
「船が乾くから」
「理由が船大工だった」
ピピがその横で両手を上げた。
「じゃあ、次は港町です! 港町ってことは、屋台と、買い物と、もしかしたら事件ですね!」
「事件を予定に入れないで。たこまるの補助操舵は?」
「問題ない」
たこまるが伝えた。
「では、このまま進むわ」
「承知しました」
シーラビット号が、北東へ向かって進んだ。




