Voyage 20 誘拐犯ではなく、船長として
翌朝、日の出より少し前に目が覚めた。
廊下に出ると、ミルフィナがすでにいた。
「早いわね」
「先に起きていました。楽しみで、眠りが浅くなりました」
「日の出が楽しみで?」
「はい。深海では、日の出が見えません。王宮にいた頃は、一度も見たことがありませんでした」
「そうか。じゃあ、甲板に行きましょう」
甲板に出た。空はまだ暗かった。でも、東の端に、薄い光の線が見えた。
「もうすぐです」
「そうね」
たこまるも出てきた。聞こえていたらしい。
「おれも見る」
「どうぞ」
「日の出は、海の上で見るのが一番だ」
「珊瑚宮の中からだけど」
「でも、海の上の船の上だ。じゅうぶんだ」
光の線が広がり始めた。橙が混じってきた。金色が来た。
太陽が出た。
ミルフィナが息を飲んだ。
「……こんなに赤いのですね」
「毎日こうよ」
「毎日?」
「晴れていれば、大体こんな感じ」
「毎日、これを見ていたのですか」
「見ていない日もある。雨の日とか、船酔いしている日とか」
「でも、見られる日は見ていた?」
「まあ、見てた。当たり前になっていたけど」
「当たり前になっていた、というのは」
「毎日見ていると、特別に感じなくなる」
「今日は?」
「今日は特別に感じる」
「なぜですか」
「あなたが初めて見るから、一緒に見てるから。そうすると、また特別になる」
ミルフィナが日の出を見たまま、小さな声で言った。
「一緒に見る人がいると、変わるのですね」
「変わる」
「では、これからは変わった状態で見られます」
「なんで?」
「リヴィアさんと一緒に、毎朝見られるから」
「毎朝は難しいわよ。雨の日もあるし、船酔いの日もあるし」
「船酔いの日は、手すりを支配してください」
「支配するわよ」
「私が隣にいます」
「……そうね。隣にいて」
「はい」
たこまるが言った。
「おれも毎朝いる」
「知ってる」
「三人で見る」
「そうね。三人で」
「四人目と五人目と六人目もいる」
「ネリネとピピとベルね」
「全員で見る朝もある」
「そうね。全員で見る朝もある」
日が上がった。光が海に広がった。珊瑚宮の光と、朝の光が混じって、周囲が明るくなった。
ピピが甲板に出てきた。
「わあ! 朝だ! 日の出だ!」と叫んだ。
「もう上がったわよ」
「ちょっとだけ遅れました! でも見られました!」
「よかったわね」
「はい! おはようございます!」
「おはよう」
「おはようございます」
「姫さまも起きてたんですね! 早い!」
「日の出を見たかったので」
「私も見たかったです! でも寝過ごしました!」
「次はもう少し早く起きれば見られます」
「そうします!」
ネリネが出てきた。ベルが出てきた。全員が甲板に集まった。
「朝の確認をします。本日、セレナ隊長との引き継ぎが午前中にあります。午後、出発の準備を整えます。問題なければ、明日の朝に出発できます」
ネリネが伝えた。
「分かった」
「食料の補給は、セレナ隊長が手配してくれています。王宮の備蓄から、必要な分をいただけるとのことです」
「セレナが?」
「はい。昨夜、申し出がありました」
「ありがたい」
「それと、帆の修理もです。黒くなっている部分の布を、王国の職人が直してくれるとのことです」
「帆まで?」
「はい」
「セレナ、随分と手を回してくれたのね」
「先日の戦闘で、共に動いたからだと思います」
朝食のあと、セレナが来た。
広間ではなく、甲板で話した。
「報告があります」
「どんな?」
「オルカへの審問が昨夜から始まりました。評議会の過半数が、オルカの行動を王国への背信と判断しています。処分の内容は、審問が終わってから正式に決まりますが、評議員の職を退くことは確実です」
「王国の安全に、影響は?」
「オルカの私兵は全員確保されました。残りの懸賞金については、女王陛下が取り消す声明を出します」
「懸賞金が取り消される?」
リヴィアが反応した。
「人魚姫誘拐の懸賞金が、です。不当に設定されたものとして、正式に無効化されます」
「……それは、ありがたい」
「遅くなりました」
「いや、動いてくれたことに感謝する」
「私個人の判断が、遅かったです。ミルフィナ様が笑っているのを見た時に、もっと早く動くべきでした」
「動いた。それでいいわよ」
「……はい」
セレナが懐から紙を取り出した。
「こちらを」
「何?」
「女王陛下からの、正式な文書です。リヴィア・シルヴェイルを、人魚王国公認の自由航路の船長として認める、という内容です」
リヴィアが受け取った。
読むと、確かにそう書いてあった。王国の紋章が押されてあった。
「……自由航路の船長」
「王国の領海を、公認の形で航行できます。港町での扱いも、変わります。誘拐犯ではなく、正式な航路を持つ船長として」
「それは、かなり大きな意味があるのね」
「ミルフィナ様が提案されました」
セレナが伝えた。
「ミルフィナが?」
「はい。昨夜、女王陛下に直接言ったそうです。リヴィアさんを正式に認める形を作ってほしいと」
リヴィアはミルフィナを見た。ミルフィナは少し視線を逸らした。
「言ったのね」
「言いました」
「事前に教えてくれてもよかったのに」
「驚かせたかったので」
「驚いた」
「よかったです」
「よかった、じゃないわよ」
「でも、嬉しそうな顔をしています」
「……嬉しいわよ。正直に言えばね」
「言ってください」
「言ってる。嬉しい」
「ありがとうございます」
「なんでお礼を言うの、あなたが動いたのに」
「嬉しいと言ってもらえたので」
「……そういうところよ」
「どういうところですか」
「何でも嬉しいって言うところ」
「嬉しいことが多いので」
「この船に来てから?」
「はい。来てから、嬉しいことが増えました」
セレナが少し咳払いした。
「続けます」
「どうぞ」
「食料の補給は午後に完了します。帆の修理は今日中に終わります。他に必要なものがあれば、言ってください」
「じゅうぶんよ。ありがとう、セレナ」
「いいえ。私にできることをしました」
「それが、ありがとう、ということよ。前に言ったわよね」
「……そうでした」
セレナの表情が少し変わった。
「では、ありがとうを受け取ります」
「受け取って」
「はい」
「セレナも、変わったわね」
「変わりましたか」
「最初は、ただ命令に従う人だった。今は、自分で判断して動いてる」
「……ミルフィナ様が、甲板掃除に感動しているのを見てから、変わり始めました」
「甲板掃除が?」
「あの顔は、王宮では見たことがありませんでした。あんなに楽しそうに、あんなに本物を見ているという顔で。その顔を見て、私は何かを守るつもりで、実は何かを閉じ込めていたのかもしれないと思いました」
「大事な気づきね」
「遅かったです」
「遅くても、気づいた」
「……はい。気づきました」
「それでいい」
午後、補給と修理が進んだ。
王国の職人たちが帆を直した。黒くなっていた部分が、新しい布に変わった。完全に元通りではないが、以前より綺麗になった。
「帆が白くなった」
「白くなりましたね」
「黒いままでもよかったのに」
「黒い帆も味がありましたが、白い帆も好きです」
「どっちが好き?」
「リヴィアさんの船の帆なので、どちらでも好きです」
「そういう答え方をするのね」
「本当のことです」
「分かった。どちらでも好きという答えを受け取る」
「ありがとうございます」
夕方、女王が甲板に来た。珊瑚宮の外に出るのは珍しいことらしく、侍女が慌てていた。
「少し、話を」
女王が言った。
「どうぞ」
「冠のことを、あなたに伝えておきたいことがあります」
「聞きます」
「冠は、今はミルフィナが持っています。守護者として、最も相応しい」
「はい」
「ただし、冠は一人では使えないことが分かっています。三つの鍵が揃わなければ、応答しない。ミルフィナ一人では、冠は動きません」
「つまり、わたしとたこまるも、必要な場面がある?」
「そうなります。遠い将来の話かもしれませんが、人魚と人間の間で話し合いが進む時、冠が必要になる場面が来るかもしれません。その時、あなたに来てもらえますか」
「来ます」
「今すぐには無理かもしれませんし、何年後になるかも分かりません」
「来ます。呼んでもらえれば」
「ミルフィナが連絡します。招待状を」
「届くようにします」
「……ありがとうございます」
女王が、昨日とは少し違う声で感謝の言葉を述べた。
「ありがとうは、わたしの方です。正式に認めていただいた」
「認めるのが遅かった。ミルフィナが外に出たいと思っていたことを、私は知っていました。でも、動きませんでした」
「難しい立場だったのでしょう」
「そうです。でも、それを理由にするのは、少し違いました。ミルフィナが外に出て、変わって帰ってきて、初めて分かりました。待っていても変わらなかった」
「変わったことに気づけたから、今日があります」
「そうですね」
女王がたこまるを見た。たこまるはリヴィアの肩にいた。
「たこまる、と呼んでよいですか」
「どうぞ」
「あなたは、この旅でミルフィナを見てきた」
「見てきた」
「どうでしたか」
「元気でした。消耗することも、怖がることも、間違えることもあった。でも、その度に立ち上がりました」
「私が知っているミルフィナと、同じですか」
「同じ部分もあります。でも、王宮では出せなかった部分も出ていました」
「どんな部分ですか」
「怖いと言える部分。疲れたと言える部分。笑える部分です」
女王が少し目を細めた。
「笑えていましたか」
「よく笑っていました。声に出して笑っていました」
「そうですか」
「はい」
「……それが、一番嬉しいですね」
女王が、小声で言った。
夕食は、全員一緒に取った。
セレナも来た。ローザも来た。ローザは珊瑚宮の料理を初めて食べて、「美味しいわね」と言った。たこまるが「うまいが、まだ研究が必要だ」と言った。
「研究するの?」
ローザが尋ねた。
「する。深海の素材を手に入れる機会が増えれば、研究できる」
「では、機会を作ってあげましょう。珊瑚宮に来る口実が必要なら、料理の研究を理由にすればいい」
「口実は要らない。女王陛下が歓迎すると言った」
「そうなの?」
「そうだ。料理人として、堂々と来る」
「料理人として」
ローザが笑った。
「高貴なる深海知性体として、ではないの?」
「どちらも兼ねている」
「そうね。あなたはそういう存在ね」
「そういう存在だ」
「たこまるさんは、何でもできますね」
ピピが褒めた。
「できる」
「羨ましいです」
「おまえも、大砲の腕が上がってきた」
「昨日、狙って当てました!」
「見た。よかった」
「ありがとうございます!」
「礼は要らない。次も当てろ」
「当てます!」
「二回続けて当てれば、本物だ」
「二回連続! やります!」
「やってみろ」
ベルが無言でたこまるに手を伸ばした。
「やめろ」
「……もちもち」
「感想を言うな」
「……やわらかい」
「やわらかいと言うな」
「……ごめんなさい」
「謝らなくていい。手を引け」
「……はい」
「明日の出発前に、航路の最終確認をします。港町への最短ルートは、北東の海流に乗る形です。二日半ほどで着きます」
ネリネが報告した。
「分かった」
「補給が終わっているので、食料は二週間分あります。今回は余裕があります」
「珍しいわね、こんなに余裕があるのは」
「セレナ隊長のおかげです」
「セレナ、ありがとう」
「いいえ」
「また言う、ありがとうを受け取れないの?」
「受け取ります。ありがとうを受け取りました」
「それでいい」
食事が終わったあと、ローザがリヴィアに言った。
「帰る。ヴァーミリオン号の乗組員への挨拶があるから。また会いましょう」
「また会う」
「ミルフィナのことを、よろしくね」
「よろしくも何も、一緒にいるわよ」
「そうね。では、一緒にいて」
「いる」
「それでいい」
ローザはミルフィナに向いた。
「ミルフィナ、歌の約束を忘れないでね」
「忘れません。港町で、いつか」
「楽しみにしてる」
「はい」
ローザが去った。
セレナも、王宮に戻る準備をした。
「リヴィア船長」
「セレナ」
「こう呼んで、もう少しで慣れてきました」
「リヴィア船長と?」
「はい。最初は言いにくかったのですが、言い続けていると、正しい呼び方だという気がしてきました」
「正しいかどうかは分からないけど、ありがとう」
「いいえ。では、またいつか」
「またいつか」
「ミルフィナ様、いつでも帰ってきていいのですよ」
「知っています。でも、今は行きます」
「分かりました。元気でいてください」
「セレナも」
「はい」
セレナが去った。
甲板に、シーラビット号の乗組員だけが残った。
リヴィアが操舵輪を持った。
「明日、出発する。今夜は早く休んで」
「はーい」
ピピが元気よくそう返事し、
「承知しました」
ネリネがそう言い、
「……分かった」
ベルが言った。
「たこまる」
「分かっている。もう寝る」
「もう?」
「疲れが残っている。今夜は早く寝る」
「そう。おやすみ」
「おやすみ」
全員が船室に向かった。
リヴィアとミルフィナだけが残った。
「もう少し、外にいますか」
ミルフィナが尋ねた。
「もう少しだけ」
「はい」
二人で、珊瑚宮の光を見た。明日には出発する。この光の中を離れて、また海に出る。
「ミルフィナ」
「はい」
「王宮を出てから、後悔したことはある?」
「ありません」
「一度も?」
「一度もありません」
「辛い場面もあったでしょ。時計塔が崩れた時とか、追跡された時とか」
「辛かったです。でも、後悔はしませんでした。辛いことと後悔は、別のことです」
「そうね」
「リヴィアさんは?」
「何が?」
「ミルフィナを乗せたことを、後悔しましたか」
「一度もない」
「一度も?」
「一度もよ。ちょっとだけ面倒になることは、何度かあったけど」
「面倒になること?」
「懸賞金とか、追跡とか、食費とか」
「申し訳ありませんでした」
「申し訳なくない。面倒だったけど、後悔はしてない。面倒と後悔は別のことよ」
「さっき私が言ったことと同じですね」
「そうね。同じね」
「では、私たちはまた同じことを言いました」
「またね」
「増えてきていますね、同じことを言う場面が」
「そうかもしれない」
「一緒にいる時間が増えると、そうなりますか」
「そういうものかもしれない」
「では、もっと一緒にいれば、もっと増えますか」
「増えるかもしれない」
「楽しみです」
「あなたはすぐそう言う」
「楽しみなので」
「分かった」
珊瑚宮の光が、少し揺れた。
「そろそろ寝ましょう」
「はい」
「明日は早い」
「日の出より前に起きますか」
「起きる。また一緒に見る?」
「見ます」
「じゃあ、約束ね」
「約束です」
「おやすみ、ミルフィナ」
「おやすみなさい、リヴィアさん」
船室に向かった。
廊下でミルフィナが呼んだ。
「リヴィアさん」
「何」
「今日、セレナが言っていましたね。甲板掃除に感動しているのを見た、と」
「言ってたわね」
「甲板掃除は、もう感動しませんが」
「慣れた?」
「慣れました。でも、慣れたことが嬉しいです」
「なんで?」
「慣れるくらい、この船にいたということだから」
「……そういう言い方をするのね」
「本当のことです」
「分かった。おやすみ」
「おやすみなさい」
扉が閉まった。
リヴィアは自分の部屋に入った。
珊瑚宮の光が、窓から入ってきていた。
明日、出発する。
懸賞金が取り消された。誘拐犯ではなくなった。自由航路の船長として、認められた。
でも、それよりも。
この旅が続く。それが、一番だった。
リヴィアは目を閉じた。
すぐに眠れた。深い海の底で、穏やかに眠れた。




