Voyage 19 人魚姫の歌、海賊少女の舵
珊瑚宮への帰路、ミルフィナが甲板で歌っていた。
儀式の歌でも、魔法の歌でもない。ただの歌だった。言葉があった。リヴィアには意味は分からなかったが、音が穏やかで、波に似ていた。
「何の歌?」
リヴィアが尋ねた。
「子どもの頃に覚えた歌です。海底では夕方に歌う歌で、一日が終わることへのお礼と、明日が来ることへの歓迎を歌っています」
「今は夕方じゃないわよ」
「夜明けでも、夕方でも、一日の区切りは同じだと思ったので」
「そうね。一区切りついたわね」
「はい」
ミルフィナが歌い続けた。
たこまるが肩の上で目を閉じていた。眠っているのか、聞いているのか分からなかった。でも、足を折りたたんで、丸くなっていた。それがたこまるの休んでいる姿だと、リヴィアはこの旅で学んだ。
ネリネが手帳を閉じた。航路の計算が終わったらしかった。
ピピが大砲の横で寝ていた。戦闘の興奮が抜けて、そのまま眠ったらしい。ベルが毛布をかけていた。ベルがそういうことをする人間だと、これもこの旅で知った。
「ローザが来る」
ネリネが伝えた。
ヴァーミリオン号から小舟が来ていた。ローザが一人で乗っていた。シーラビット号の舷側に手をかけて、するりと上がってきた。
「少し話せる?」
ローザがリヴィアに言った。
「どうぞ」
二人で船尾に移った。ミルフィナの歌が遠くで続いていた。
「冠の扱いについて」
「聞く」
「あたしは、冠の所有権を主張するつもりはない。最初からそのつもりだった」
「そう言ってくれるとは思わなかった」
「言ったでしょ、最初から。古代海図が見たかっただけで、冠を手に入れたかったわけじゃない」
「でも、星潮の冠を探していると言っていた」
「探していたのは本当よ。でも、探すことと手に入れることは別。あたしが求めていたのは、何があるかを知ること。知ったから、目的は果たせた」
「目的って何だったの、本当に」
「さっき言ったでしょ。自分が強くなる理由を探していた」
「見つかった?」
「あなたの言葉から、ヒントを貰った。あたしの理由は、まだ完全には見つかっていないけれど、方向は分かった」
「どんな方向?」
「守りたいものを探すこと。あなたにはもうある。ミルフィナと、この船と、乗組員たちと、自由に航海できる海。あたしには、まだはっきりしていない。でも、探す方向は分かった」
「ローザが守りたいものを探してる、というのは、少し意外ね」
「意外?」
「あなたは、自分が強ければじゅうぶん、というタイプだと思っていた」
「昔はそうだった。でも、それだけでは足りないと感じるようになった。何かがあった時に、強さの向かう先がないと、強さが空回りする」
「この旅で、それが分かったの?」
「分かり始めた。あなたたちを見ていて」
「わたしたちが、ローザに何かを教えたのね」
「教わったのか、気づかされたのか、どっちかは分からないけれど」
ローザはそう言って、少し笑った。
「認めるのは少し悔しいけど、この旅に関わってよかった」
「わたしも、ローザが来てくれてよかったわよ」
「珍しいわね、あなたがそう言うのは」
「言える時に言う。たこまるに教わった」
「そう」
「そうよ」
二人で少し黙った。ミルフィナの歌が続いていた。
「一つ聞いていい?」
「いいわよ」
「ミルフィナが王宮に戻ったあと、あなたはどうするの」
「戻ったら、という前提?」
「王女だから、王国での役割がある。守護者として、冠に関わる責任もある。完全に船を出てしまう可能性はある」
「……ある。分かってる」
「その時、あなたは?」
「続けてる。航海を」
「ミルフィナなしで?」
「ミルフィナなしでも、この船は動く。わたしが選んだ航路を行く」
「寂しくない?」
「寂しい。でも、それはわたしの話で、ミルフィナの選択を縛る理由にはならない」
「言えるようになったのね、正直に」
「練習した。ミルフィナが、そういう人だから」
「影響を受けたのね」
「受けた」
「素直に認めるのね」
「認める。言える時に言う」
ローザが笑った。
「あなたらしくない言葉を、あなたらしく言うのが、あなたの得意技になったわね」
「そうかしら」
「そうよ。嫌いじゃないわ、それ」
「ありがとう」
「どういたしまして」
ローザが戻る前に、ミルフィナのそばに寄った。
「ミルフィナ」
「はい」
ミルフィナが歌を止めた。
「さっきの歌、聞いていた。いい歌ね」
「ありがとうございます」
「王宮でも歌える?」
「歌えます。でも、あまり聞かれませんでした」
「王国の外でも、歌えるの?」
「歌えます」
「なら、いつかどこかで歌うのを聞かせて。港町の人間にも、聞かせてほしいと思う」
「そういう日が来たら、ぜひ」
「来るといいわね」
ローザはリヴィアを見た。
「あなたが、来るようにするんでしょ」
「……そうなるといいわね」
「自信なさそうね」
「分からないから」
「でも、したいとは思ってる?」
「思ってる」
「なら、なる可能性が高い。根性があるから」
「根性だけじゃ足りない場面もある」
「でも、根性がないと始まらない。あなたにはある。それでじゅうぶんよ」
ローザが小舟に戻った。
リヴィアは見送った。
たこまるが目を開けた。聞いていたらしかった。
「ローザは、いい奴だな」
「そうね。腐れ縁だけど」
「腐れ縁の方が、長い付き合いになることが多い」
「そうかもしれない」
珊瑚宮に着いたのは、昼過ぎだった。
セレナが出迎えた。
「お帰りなさいませ、ミルフィナ様。皆さん、ご無事で」
「ただいまです、セレナ」
「評議会の動きを報告します。オルカへの調査が正式に始まりました。宝珠の奪取が証拠として採用され、オルカの評議員としての資格が一時停止されました」
「動いたのね」
リヴィアが言った。
「ミルフィナ様の評議会での発言と、昨日の戦闘の結果が合わさって、評議員の過半数が動きました。女王陛下も、正式に声明を出す準備をされています」
「オルカは?」
「海溝での失敗のあと、私兵とともに確保されました。現在、珊瑚宮内で拘束されています。評議会の審問を待つ状態です」
「速かったわね」
「準備していました。ミルフィナ様が評議会で話したあとから、動ける者に声をかけていました」
「セレナが動いてくれたのね」
「私が正しいと判断したことをやりました。リヴィア船長、冠は」
「手元にある」
リヴィアは懐から取り出した。穏やかな光が、まだ続いていた。
「女王陛下が、お話ししたいとのことです」
「分かった。行く」
女王との謁見は、昨日の広間ではなく、小さな部屋で行われた。
女王と、リヴィアとミルフィナとたこまるの三人と一匹だった。
「冠を、見せてもらえますか」
リヴィアが冠を渡した。女王が受け取った。光が女王の手の上で、少し変わった。揺れた。
「……反応しますね」
女王が言った。
「守護者の家系だから」
リヴィアが言った。
「そうかもしれません」
「冠の扱いを、どうするかは、王国と、それから人間側も含めて話し合う必要があると思います。わたしたちだけでは決められない」
「同意します。ただし、今日すぐに決まることではありません。時間をかけて、話し合う必要があります」
「時間がかかる話し合いに、わたしが関われる部分は少ないかもしれません」
「なぜですか」
「わたしは人間の海賊です。王国の政治に、関わる立場にありません」
「でも、冠の鍵のひとつです」
「……そうですね」
「関係がないとは言えません。リヴィアさんが関わらなければ、冠は応答しませんでした。それは事実です」
ミルフィナが言った。
「でも、これからどうするかは、わたしが決めることじゃない」
「そうです。あなたが決めることではありません。でも、あなたに関わる話し合いをする時に、あなたの声が必要になります」
女王が言う。
「声が必要な時は、呼んでください」
「珊瑚宮の招待状を送れますか。あなたの船がどこにいても」
「ミルフィナが船にいれば、届きます」
「では」
女王がミルフィナを見た。
「あなたはどうしますか」
ミルフィナが少し間を置いた。
「しばらく、リヴィアさんの船にいます」
「王宮には戻りませんか」
「今は戻りません。でも、必要な時は戻ります。今日のように、話し合いが必要な時は来ます」
「守護者としての責任を、船の上から果たすと?」
「果たせると思います。守護者が王宮の中だけにいる必要はないと、時計塔の記録にも書いてありませんでした」
「……そうですね。書いていなかった」
「船の上から見える海の方が、守護すべきものが見えやすいと、私は思います」
「なぜですか」
「王宮の中では、海が遠かったです。でも、船の上では、海がすぐそこにあります。守護すべき海が」
女王が、少し表情を動かした。笑い、とは違う。でも、柔らかくなった顔だった。
「分かりました。あなたの判断に従います」
「ありがとうございます、母上」
「ただし、定期的に連絡を入れてください。あなたが元気かどうかを知りたいのは、女王としてではなく、母としてです」
「はい。入れます」
「それと」
女王がリヴィアを見た。
「娘をよろしくお願いします」
「……よろしくお願いします、というのは、どういう意味ですか」
「そのままの意味です。娘が、あなたの船で元気でいられるよう、よろしくお願いします」
「……はい。任されました」
「任せます」
部屋を出たあと、ミルフィナが言った。
「お礼を言わなければ」
「何のお礼?」
「任されてくれたことのお礼です」
「任されたわよ。重い責任をもらった」
「重いですか」
「重い。王様から、娘を任されたんだから」
「でも、受けてくれました」
「受けた。断る理由がない」
「本当に?」
「本当よ。断る理由が、何もない」
ミルフィナが、声に出して笑った。
「何が面白いの?」
「嬉しいです。それが、笑い声になりました」
「……そう」
「はい」
「じゃあ、笑っていていい」
「ありがとうございます」
「おれにも、ついでに礼を言え。おれも任された形になっている」
「たこまるさんにも、ありがとうございます」
「どういたしまして」
たこまるが珍しく、すんなりと言った。
「素直ね、今日は」
「疲れている時は、素直になる」
「疲れた時だけなの?」
「……いつでも素直だ。ただ、疲れている時の方が、素直さが表に出る」
「どっちでもいいわよ。素直な時は、素直で」
「そうする」
夕方、全員で食事をした。珊瑚宮の食事で、豪華だった。
たこまるが料理を一品一品試した。
どれも「うまい」と言った。
「昨日も同じことを言いましたね」
ミルフィナが突っ込んだ。
「毎回言う。うまいものにはうまいと言う」
「素直ですね」
「素直だ」
ピピが料理を次々に食べた。
「おいしいです!」と叫んだ。
「静かに食べなさい」
ネリネが注意した。
「でもおいしいので!」
「おいしくても、静かに」
「難しいです!」
「難しくても」
「……努力します!」
「努力してください」
ベルが一品ずつ丁寧に食べていた。
セレナが向かいに座って、最初は距離を置いていたが、たこまるが料理の話をし始めると、少しずつ会話に入ってきた。
「王宮の料理と、たこまるさんの料理、どちらが上ですか」
ミルフィナがたこまるに尋ねた。
「今は王宮の方が上だ」
「認めるのですか」
「認める。ただし、素材が違う。深海の素材を船の上で使えれば、差は縮まる」
「いつか、縮まりますか」
「縮める」
「楽しみです」
「では、機会を作れ。船が珊瑚宮に来る機会があれば、素材が手に入る」
「珊瑚宮に来ていいのですか」
「おれが来ていいかは、おれが決めることじゃない。女王陛下に聞け」
「母なら、喜ぶと思います」
「そうか。ならば、計画しよう」
「はい」
食事が終わったあと、リヴィアは甲板に出た。珊瑚宮の外は、夜の海だった。深海なので、暗い。でも、珊瑚宮の光が周囲を照らして、柔らかい明るさがあった。
ミルフィナが出てきた。
「一人でいますか」
「少しだけ」
「邪魔でしたか」
「邪魔じゃない。来て」
二人で並んだ。
「明日、出発しますか」
「明日か、明後日か。セレナとの引き継ぎが終わってから」
「次は、どこへ行きますか」
「決めていない。ローザが深海図書館の古代海図を写してくれた。それを頼りに、新しい島を探してもいい。あるいは、しばらく港町でのんびりしてもいい」
「どちらがいいですか」
「どちらも悪くないわよ。あなたは?」
「どちらでも、リヴィアさんが決めた方へ行きます」
「それは、丸投げよ」
「丸投げではありません。どちらも行きたいので、どちらでも構わないのです」
「じゃあ、両方やりましょう。まず港町で補給して、それからローザの海図を頼りに動く」
「では、そうします」
「決まり」
少し黙った。
「リヴィアさん」
「何」
「今日、母が言いましたね。娘をよろしくと」
「言った」
「その時、リヴィアさんが任されました、と言いました」
「言った」
「どんな気持ちでしたか」
「重い責任をもらったと言ったでしょ」
「それだけですか」
「……嬉しかった。正式にお願いされた、という感じがして、嬉しかった」
「正式に?」
「今まで、なし崩しで一緒にいた。あなたが乗ってきて、そのままになって。でも、お母さんから正式に頼まれると、ちゃんとした理由ができた気がした」
「ちゃんとした理由がなかったのですか、今まで」
「理由はあった。でも、言葉にするのが難しかった」
「今は言えますか」
リヴィアは、少しだけ考えた。
「ミルフィナがいた方が、この船が好きよ。それが、一番の理由」
「前も言いましたね。ローザとの言い合いで」
「また言った。何度でも言える」
「嬉しいです」
「毎回嬉しいって言う」
「毎回嬉しいので」
「そういうところよ」
「どういうところですか」
「思ったことをそのまま言うところ。好きよ」
ミルフィナは、視線をリヴィアに向けた。
「リヴィアさん」
「何」
「今日、好きよと言いましたね」
「言った」
「昨日も、好きよと言いました」
「言った」
「おとといも、確か言いました」
「言ったかもしれない」
「増えていますね」
「増えてる?」
「最初の頃は、言いませんでした。最近、増えています」
「……練習の成果よ」
「誰かの影響ですか」
「あなたの影響よ」
「そうですか」
ミルフィナは嬉しそうな声で言った。
「また嬉しいって言う」
「嬉しいので」
「分かった」
「リヴィアさん」
「何」
「私も」
「私もって何?」
「私も、リヴィアさんのことが好きです」
リヴィアは、すぐには返事をしなかった。
視線だけが、ミルフィナの顔に止まっていた。
「……そういうことを、さらっと言う」
「思ったことを、そのまま言いました」
「分かってる。でも、さらっとしすぎ」
「どのくらい間を置けばよかったですか」
「間の問題じゃなくて」
「ではどんな問題ですか」
「……こっちの心の準備の問題よ」
「準備ができた時に、もう一度言いますか」
「……今聞いた。今聞いたわよ」
「では、受け取ってもらえましたか」
「……受け取った」
「ありがとうございます」
「礼を言うのはわたしの方よ」
「なぜですか」
「受け取れたから」
「受け取れることは、当然ではないのですか」
「当然じゃなかった。少し前のわたしなら、受け取れなかった。見たいように見ていたから、向き合えなかった」
「今は向き合えますか」
「今は向き合える。あなたのおかげで」
「お互いのおかげです」
「そうね。お互いに」
たこまるが甲板の端から言った。
「おまえら、いつまで外にいる。夜は冷える」
「もう少しだけ」
「もう少しが長くなる。おまえらのもう少しは信用できない」
「分かってる。でも、もう少しだけ」
「……好きにしろ」
「ありがとう」
「礼を言うな」
「言う」
たこまるが黙った。言い返さなかった。それがたこまるの、了承の仕方だと、リヴィアは知っていた。
二人で夜の海を見た。珊瑚宮の光が、周囲を照らしていた。深海の暗さの中に、光の輪がある。その中に、シーラビット号が浮かんでいた。くたびれた船体が、光の中で、少しだけ綺麗に見えた。
「ねえ、ミルフィナ」
「はい」
「出発したら、海の聞き方を教えてくれる約束があったわよね」
「ありました」
「あと四回、残ってる」
「残っています」
「出発してから、教えて」
「はい。夜、甲板で」
「夜でなくてもいいわよ」
「夜の方が、波の音がよく聞こえます」
「そうなの?」
「昼間は風の音が混じります。夜は、波の音だけになります」
「では、夜に」
「はい」
「約束ね」
「約束です」
海が静かだった。深海の、深い静けさだった。
でも、静かなだけでなく、穏やかだった。星潮の海溝の前とあとで、何かが変わったのかもしれない。あるいは、変わっていないのかもしれない。でも、穏やかに感じた。
「行きましょうか」
「そうね。明日は早い」
「明日、何時に起きますか」
「日の出と同時に」
「では、私も同じ時間に起きます」
「一緒に起きるの?」
「日の出を、一緒に見たいです」
「……じゃあ、一緒に見ましょう」
「はい」
船室に向かった。
たこまるが後ろについてきた。
「たこまる」
「何だ」
「今日、おかえりって言われたの、嬉しかった?」
「……普通だった」
「本当に?」
「……少し、嬉しかった」
「正直ね」
「疲れている時は素直になると言っただろう」
「疲れてるの?」
「少し疲れている。だから正直になった。明日には戻る」
「明日も正直でいていいわよ」
「うるさいな」
「うるさくない」
「……うるさくはないが、くすぐったい」
「我慢して」
「……我慢する」
船室の扉が開いた。中は暗かった。
ミルフィナが先に入った。
「おやすみなさい、リヴィアさん」
「おやすみ」
「たこまるさんも、おやすみなさい」
「……おやすみ」
扉が閉まった。
リヴィアは自分の部屋に入った。たこまるが船長帽の中に潜った。
静かだった。
深海の静けさで、波の音もない。珊瑚宮の光が、窓から少しだけ入ってきていた。
リヴィアは横になった。
今日までにあったことを、順に思い返した。海溝に入ったこと。オルカとの対峙。たこまるが海中に入ったこと。冠が応答したこと。女王に任されたこと。
それから、ミルフィナの言葉。
私も、リヴィアさんのことが好きです。
「……受け取った」と小声で言った。
たこまるが帽子の中から言った。
「聞こえた」
「聞こえた?!」
「聞こえた」
「黙っていて」
「黙っている。ただ、聞こえたことは伝えた」
「余計なことを言わなくていい」
「言わない。ただ、聞こえた」
「……」
「おやすみ、リヴィア」
「……おやすみ、たこまる」
珊瑚宮の光が、穏やかに揺れていた。
波の音がなくても、穏やかだった。
リヴィアは目を閉じた。




