Voyage 18 星潮の海溝へ
夜明けとともに、動いた。
ミルフィナが海流を確認した。入口の乱れが落ち着いていた。
「入れます」
「では行く」
リヴィアが言った。
ヴァーミリオン号とシーラビット号が、並んで進んだ。星潮の海溝の入口は、見た目には分からなかった。海の色が少し変わる場所があって、そこを境に、水面の光り方が違う。
入った瞬間、空が変わった。
星が出ていた。夜明けなのに、星が出ていた。空と海の境界が薄くなって、夜と昼が混じっている。水面が光っていた。海底から光が来ているのか、水自体が光っているのか、判断がつかない。遠くに、魚が泳いでいた。光る魚だ。星のように泳いでいた。
「綺麗」
ピピが小声で呟く。
「本当に、星と海の境界が薄い場所なのですね」
ミルフィナが言った。
「こういう場所が、世界にあるのね」
リヴィアが言う。
景色に見とれている場合ではなかった。
「ネリネ、オルカの痕跡は」
「海流の乱れが、前方にあります。人魚が大勢動いた後の痕跡です。オルカはすでに中に入っています」
「どのくらい先?」
「三時間から四時間ほど進んだ場所だと思います」
「追いつける?」
「海溝の中は海流が複雑です。速度が出ません。追いつくのは難しいですが、場所を把握することはできます」
「場所が分かれば、向かえる」
「はい」
ローザが信号を送ってきた。ヴァーミリオン号から光の点滅だ。
「先行するとのことです」
ネリネが伝えた。
「ローザが?」
「ヴァーミリオン号の方が速い。先に場所を確認して、信号を送る、という意味だと思います」
「了解の信号を返して」
「はい」
ヴァーミリオン号が速度を上げた。シーラビット号を離れて、前に出た。星と光の中を進んでいく。その後ろ姿を、リヴィアは見ていた。
「ローザは、かっこいいわね」
思わず言った。
「そうですね」
「あなたも、そう思う?」
「思います。でも、リヴィアさんも同じくらいかっこいいです」
「同じくらいは言いすぎよ」
「言いすぎではありません」
「ローザは実力があって、船も大きくて、乗組員も多くて」
「それは、かっこよさの一部です。全部ではありません」
「どこがわたしのかっこいいところなの」
「怖くても行くところです」
「それだけ?」
「それだけでじゅうぶんです。怖くても行ける人は、多くありません」
たこまるが言った。
「この会話、何度目だ」
「何度目?」
リヴィアが逆に尋ねた。
「ミルフィナがリヴィアを褒めて、リヴィアが否定して、ミルフィナがもう一度言う。このパターンを数えたら、かなりの回数になる」
「数えてたの?」
「観察の一環だ」
「やめて」
「やめない。有益なデータだ」
「何に使うの」
「特に使わない。ただ、おれが知っている」
「意味がない」
「意味はある。おれが把握している、という事実に意味がある」
「……うるさい」
海溝の中を進んだ。
景色が変わっていった。最初は星と光の海だったが、奥へ進むほど、空が歪んで見えた。光の屈折が、視界を混乱させる。水平線が曲がって見えた。船の傾きが分からなくなる場面があった。
「この海域、感覚が狂う」
リヴィアが言った。
「海流が逆向きに流れている場所があります。方向感覚を保つのが難しいです。羅針盤を常に確認してください」
ネリネが伝えた。
「たこまる、補助操舵に入って」
「了解だ」
たこまるが操舵輪の補助に入った。八本の足で、複数の計器を同時に確認しながら動いた。
一時間ほど進んだところで、シーラビット号が傾いた。
急に傾いた。
「何?」
リヴィアが叫んだ。
「海流が変わりました! 予測外の流れです。下から上への強い流れが――」
ネリネが伝える。声は冷静だった。
「帆を絞って!」
「絞っています!」
船が揺れた。大きく揺れた。ピピが転がった。ベルが柱を掴んで踏ん張った。ミルフィナが舳先の手すりにしがみついた。
「ミルフィナ、この流れを止められる?」
リヴィアが叫んだ。
「試みます!」
ミルフィナが歌い始めた。でも、海流が強すぎた。歌が通らない。流れが歌を消すように動いていた。
「駄目です、強すぎます!」
「逃げる。どっちへ?」
「東です! 東側の流れが安定しています!」
ネリネが伝える。
「東へ! たこまる!」
「了解だ!」
たこまるが操舵輪を回した。リヴィアが同時に力を加えた。二人分の力で、舵を東へ切った。
シーラビット号が東へ向いた。流れが弱まった。船が安定した。
「落ち着きました」
ネリネが言った。
「全員無事?」
リヴィアが叫んだ。
「大丈夫です!」
ピピが甲板から叫んだ。
「問題ない」
ベルが答えた。
「私も無事です」
ミルフィナが言った。
「ベル、船体確認して」
「今やってる」
「たこまる、ありがとう」
「礼はあとだ。東の流れに乗って、安定ルートを探す」
「ネリネ、オルカの痕跡は途切れてない?」
「途切れていません。流れの乱れが続いています。あの急流も、人為的に作られた可能性があります」
「オルカが仕掛けた?」
「追跡を妨害するための流れだとしたら、辻褄が合います」
「追い払うつもりね」
「そう判断します」
ベルが戻ってきた。
「船底に、軽い傷。浸水はない」
「このまま動ける?」
「動ける。ただし、あと二度は無理」
「二度は無理、という意味は?」
「あと二回同じ衝撃を受けたら、傷が大きくなる可能性がある」
「分かった。注意する」
ローザからの信号が来た。
ネリネが確認する。
「ヴァーミリオン号から。前方に人魚の集団を確認。オルカの私兵と思われる。中心部はさらに先。合流を求めています」
「合流する」
「現在位置から、三十分ほどです」
「急ぎましょう」
三十分ほどのち、ヴァーミリオン号と合流した。
ローザが甲板から叫んだ。
「状況を伝えるわ。前方に、オルカの私兵が円陣を組んでいる。中心に、強い魔法の反応がある。宝珠を使って、何かをしている」
「儀式が始まってる?」
「始まりかけている。完全に始まると、止めることができなくなる可能性がある」
「時間は?」
「分からない。でも、早い方がいい」
「突破できる?」
「私兵の数が減っている。昨日の戦闘で半分以下になった。突破できないことはないが、ミルフィナの力が必要になる」
「分かった。作戦を伝える。ヴァーミリオン号が私兵の陣形を崩す。その隙に、シーラビット号が中心に向かう。ミルフィナが冠に働きかける」
「シーラビット号が中心へ行く? 小さい方が、通りやすいと判断したの?」
「そう。大きい船は動きが遅い。中心への突入は、速い方がいい」
「同意するわ。ただし、私兵を崩す前に、私兵の一部がシーラビット号に向かう可能性がある。対応できる?」
「たこまるの墨と、ピピの大砲で対応する」
「ピピの命中率は?」
「……高くない。でも、奇跡が一発あればじゅうぶん」
「その奇跡に賭けるの?」
「賭ける。それがうちの船よ」
ローザが少し笑った。
「分かった。やりましょう」
動いた。
ヴァーミリオン号が前に出た。私兵の陣形に向かっていった。大きな船が速度を上げると、圧力がある。私兵の陣形が乱れ始めた。
シーラビット号が、その隙間を通った。
私兵が二人、シーラビット号に向かってきた。
「来た」
たこまるが伝えた。
「墨を頼む」
「了解だ」
たこまるが墨を吐いた。二人の私兵の視界を塞いだ。その間に、シーラビット号が通り抜けた。
「ピピ、後ろから来る奴を頼む」
「了解です!」
ピピが大砲を向けた。
撃った。
当たった。
「当たった!」
ピピが叫んだ。
「狙ってた?」
リヴィアが叫んだ。
「今日は完全に狙ってました!」
「本当に?!」
「本当です! 証人が欲しいですが、たこまるさんが見ていました!」
「見ていた。今日は狙っていた」
「珍しいわね!」
「成長です!」
中心に近づいた。
光が見えた。強い光だ。宝珠の光だった。オルカがいた。その周囲に、少数の護衛がいた。
オルカが振り向いた。
リヴィアと目が合った。
「止まれ。これ以上近づくと、儀式が暴走する。おまえたちも、周囲の海も、ただでは済まない」
「儀式を止めてください」
リヴィアが言った。
「止めない。これは、王国のためだ。人間と人魚が交わることで、王国は弱くなってきた。星潮の冠を壊して、二つの世界を完全に分断する。それが、王国を守る唯一の方法だ」
「冠を壊せば、取り返しがつかない」
「そのために壊す。取り返しがつかなくするために」
「ミルフィナ」
「はい」
「行ける?」
「行けます」
「冠に近づける?」
「やってみます」
ミルフィナが歌い始めた。
今度の歌は、今まで聞いた中で一番深い音だった。低くて、広くて、海全体に広がるような音だった。
光が反応した。宝珠の光が、揺れた。
「何をする!」
オルカが叫んだ。
「止めるな!」
リヴィアが叫んだ。
シーラビット号がさらに前に出た。護衛が来た。ベルが甲板に出て、来た護衛を一人、力で押し返した。もう一人をたこまるが墨で封じた。
「ミルフィナ、もっと近づく必要がある?」
「もう少し、だけです」
「行く」
舵を切った。前へ進んだ。
そのとき、海流が急変した。
オルカが海流を操った。シーラビット号に向かって、強い流れを押し付けた。船が止まった。前に進めなくなった。
「止まっています!」
ネリネが叫んだ。
「たこまる!」
「おれでは対抗できない。海流の操作は人魚の方が圧倒的に上だ」
「ミルフィナ!」
「私が対抗します!」
歌が変わった。オルカの海流を押し返す流れを作ろうとしていた。でも、オルカも人魚だ。力の拮抗が続いた。
船が止まったまま、二つの力が押し合った。
「ミルフィナ!」
「もう少し、もう少しです!」
「無理をするな!」
たこまるが叫んだ。
「もう少しです!」
宝珠の光が、変わった。
揺れていた光が、安定してきた。オルカの儀式が、段階を上がりつつある。
「時間がない!」
リヴィアが言った。
「船長」
「何」
「おれが海に入る」
「え?」
「守護獣の末裔として、鍵として。海に入って、冠に届かせる。おれが水の中に入れば、第二の鍵が直接冠に近づく」
「危険よ」
「危険だが、おれは水に入れる。タコだから」
「でも――」
「時間がない。行く」
「たこまる!」
「船長」
「何」
「この旅で、よかった」
「……何よ、急に」
「礼だ。言える時に言っておく」
「帰ってきてから言いなさい!」
「帰ってから言うと恥ずかしいだろう。今言っておく」
「帰ってくるんでしょ!」
「帰る。ただ、念のためだ」
たこまるが海に飛び込んだ。
小さな水音がして、消えた。
ミルフィナの歌が変わった。たこまるが海中に入ったことで、何かが変わった。海流の拮抗が、崩れ始めた。オルカが押していた流れが、弱まった。
「前に進めます!」
ネリネが叫んだ。
「行く!」
舵を切った。シーラビット号が前に進んだ。
オルカが叫んだ。
「止まれ! 儀式を――」
「止まらない!」
宝珠の光が揺れた。
ミルフィナの歌が届いた。
光が変わった。
揺れていた光が、安定したかと思った瞬間、宝珠が割れた。
音がなかった。ただ、光だけが広がった。白い光が、星潮の海溝全体に広がった。光の中に、何かが現れた。
冠だった。
壊れかけの宝珠の中から、星潮の冠が現れた。実物は想像より小さかった。両手に乗るくらいの大きさで、光を帯びていた。でも、その光は宝珠の光とは違った。柔らかくて、穏やかで、深い光だった。
「冠が、出てきた」
リヴィアが言った。
「はい」
「どうする?」
「鍵が揃えば、冠が応答すると言いました。たこまるさんが海中に入った。私がいる。リヴィアさんがいる」
「本当にわたしが第三の鍵なの?」
「試してみます。冠に向かって、舵を切ってください」
「分かった」
舵を切った。シーラビット号が冠に向かった。
冠が光った。
近づくにつれて、光が強くなった。拒絶ではなく、応答だった。
「反応しています」
「わたしが鍵?」
「鍵です。三つ揃っています」
オルカが動いた。
「渡さない!」
オルカが叫ぶと、護衛が動いた。シーラビット号に向かってきた。
ヴァーミリオン号から信号が来た。ローザが私兵を抑えながら、こちらへの支援を送ろうとしていた。でも、間に合わないかもしれない。
「ミルフィナ!」
「歌います!」
ミルフィナが歌った。
今まで聞いたことのない歌だった。言葉のない歌で、音域が広くて、海全体に広がるような音だった。
海流が変わった。
護衛が止まった。流れに押されて、動けなくなった。
シーラビット号だけが、流れの中心を進んだ。
冠に、手が届く距離になった。
リヴィアは舵を離した。前に歩いた。手を伸ばした。
冠が、手のひらの上に乗った。
光が、シーラビット号全体に広がった。
その瞬間、海溝の空が変わった。
昼と夜が混じっていた空が、一瞬だけ、どちらでもなくなった。境界が消えた。海と空が、同じ色になった。
そして、元に戻った。
でも、何かが変わっていた。海の光り方が違う。波の音が違う。空気が違う。
静かになった。
オルカが動かなくなっていた。護衛も動かなかった。流れが止まった海溝の中で、全員が止まっていた。
「……終わった?」
リヴィアが尋ねた。
「終わっていません。でも、儀式は止まりました。冠が、壊すことを拒否しました」
「冠が?」
「分断を望む者には使えない。記録に書いてありました。壊すことも、同じです。冠自体が、拒否しました」
「じゃあ、オルカは?」
「冠を壊せなかった。儀式が失敗しました。これ以上、オルカが冠を使うことはできません」
オルカが、初めて動揺した顔をした。
「なぜ。なぜ止まる。分断が、王国を守る唯一の方法だ。なぜ――」
「唯一ではありません」
オルカが振り向いた。ミルフィナを見た。
「王女」
「私は守護者の家系です。冠について、知っています。冠は、分断のためではなく、繋ぐために作られました。壊すことで分断しようとしても、冠はそれを拒否します」
「王国が、人間と交わることで弱くなる。それは事実だ」
「事実ではありません。弱くなると、誰が決めましたか」
「歴史が――」
「私が見てきた歴史は、人魚と人間が共に海を渡っていた時代を示していました。その時代に、王国は弱くありませんでした。分断してから、孤立しました」
「孤立が守ることだ」
「孤立は守ることではありません。孤立は、閉じることです。閉じることと守ることは、違います」
オルカが黙った。
長い沈黙が続いた。
ローザの声がした。
「確保したわ。私兵を全員」
ヴァーミリオン号がそばに来ていた。ローザが甲板から見ていた。
「オルカは?」
リヴィアが尋ねた。
「珊瑚宮で処遇を決める。セレナへの信号は送った。評議会が動く」
「じゃあ、一旦――」
「待ってください」
「何?」
「たこまるさんが、まだ戻っていません」
リヴィアが海を見た。確かに、たこまるがいない。
「たこまる!」と叫んだ。
返事がなかった。
「たこまる!!」
海面が光った。小さな光が上がってきた。
たこまるが水面に出てきた。
「……ここにいるぞ」
「どこにいたの!」
「深い場所まで行っていた。鍵として、届かせるのに時間がかかった」
「無事なの?」
「無事だ。ただ、少し深く行きすぎた」
「深く行きすぎた、というのは?」
「……少し疲れた。ただ、それだけだ」
「上がれる?」
「上がれる」
ロープを降ろした。たこまるがロープを掴んで上がってきた。甲板に乗った瞬間、リヴィアがたこまるを手のひらに乗せた。
「怪我は?」
「ない」
「疲れた以外は?」
「疲れた以外はない」
「よかった」
「……そう言うな。くすぐったい」
「言う」
「言わなくていい」
「言うわよ」
「……好きにしろ」
ミルフィナが近づいてきた。
「たこまるさん」
「なんだ」
「ありがとうございました」
「礼は要らない。おれが判断した」
「それでも、言います」
「……勝手にしろ」
「はい。それと」
「まだあるか」
「おかえりなさい」
たこまるが少し止まって、「……ただいま」と小さな声で言った。
海溝の光が、静かになっていた。
星と昼と夜が混じっていた空が、少しずつ普通の朝の色になっていった。
リヴィアは手のひらの上のたこまるを見た。それから、冠を見た。冠はまだ光っていた。穏やかな光で、消える様子がなかった。
「冠は、どうする?」
「それは、次で決まります」
「次?」
「ここで決めることではありません。珊瑚宮に戻って、女王と、評議会と、そして人間の側とも話し合って決めることです」
「時間がかかる?」
「かかります。でも、急いで決めることではありません」
「そうね」
ローザが甲板に来た。
「お疲れ様。とりあえず、今日のところは終わったわね」
「終わった」
「冠は?」
「預かる。決め方は、あとで話し合う」
「そうね。それが正しい」
「ローザ、今日の支援に感謝する」
「どういたしまして。腐れ縁のよしみで」
「腐れ縁にも、お礼は言う」
「成長したわね、あなた」
「うるさいわよ」
「ふふ」
ローザが笑った。
シーラビット号が、星潮の海溝の出口に向かって動き始めた。
空が、完全に朝の色になった。星が消えた。海の光も落ち着いた。普通の海になった。でも、前より少し違う海に見えた。同じ海なのに、違う海に見えた。
「変わったかしら、海が」
「変わっていないかもしれません。でも、見る目が変わったかもしれません」
「どっちでもいいわね」
「そうですね。どちらでも、綺麗です」
「そうね。綺麗よ」
たこまるが肩に乗ってきた。
「帰るぞ」
「帰る」
「珊瑚宮に?」
「珊瑚宮に。それから、いろいろ話し合う。時間がかかる」
「かかるな。覚悟はあるか」
「ある。でも、今日は疲れた」
「そうだな。おれも疲れた」
「珍しいわね、たこまるが疲れたと言うのは」
「深海は、体力を使う」
「じゃあ、今日は休んでいい」
「そのつもりだ」
「ありがとう、今日は」
「礼は要らない」
「言う」
「言うな」
「言う」
「……ならば、礼を受け取る」
「ありがとう」
「……どういたしまして」
シーラビット号が、朝の海を進んだ。後ろに、星潮の海溝が遠ざかっていった。
ピピが叫んだ。
「帰ります! どこへ帰りますか!」
「珊瑚宮よ!」
リヴィアが叫んだ。
「珊瑚宮のあとは!」
「そのあとは、そのあとで決める!」
「分かりました! 行きましょう!」
「行くわよ!」
帆が風を受けた。シーラビット号が加速した。
朝の光の中を、進んでいった。




