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第83話:舌戦

 大宮殿の内部は、外観以上に容赦がなかった。


 床は鏡のように磨き上げられた白大理石。天井はやたらと高く、金糸で縁取られた巨大な天蓋画が連なっている。壁面には歴代皇帝の肖像や戦勝を刻んだレリーフが並び、魔導照明は昼間であっても柔らかな光を絶やさない。豪奢というより、権威を物量で殴りつけてくる空間だ。


 そんな中を、俺は内股で小走りしていた。

 威厳も品位も、あったものじゃない。


 腹が限界だった。

 交流会だの皇帝だの言っている場合じゃない。


 案内された回廊の角を曲がり、来賓用の化粧室に滑り込む。扉を閉めた瞬間、ようやく人心地がついた。


 ――あぁ、危なかった。


 転生して十四年。

 糞をするたび、毎回思う。


 ウォシュレットが欲しい。


 紙だけって、どうなんだ。文明の敗北だろ。

 そろそろ本気で開発してもいいかもしれない。資金なら、比喩じゃなく腐るほどある。普及させれば、まず貴族社会から一気に広がる。衛生という大義名分もある。


 市場を押さえれば、独占も難しくない。

 こういうのこそ、前世知識の正しい使い方だ。


 用を済ませ、何食わぬ顔で廊下へ戻る。

 ちょうどエレノアたちと合流するところだった。


「ごめんごめん。昨日食ったスープが、そのまま出てきたわ」


 笑顔で軽く報告すると、エレノアの眉がぴくりと動く。


「もうっ……少しは場所を弁えてください。不潔ですわ」


 正論だ。

 女子の前で言う内容じゃない。これに関しては、俺が全面的に悪い。


 第一部の式典開始までは、まだ少し時間がある。

 今は来賓同士が顔を合わせるための自由時間だ。


 腹の不安も、とりあえず収まった。

 あとは余計な問題を起こさず、時間が過ぎるのを待つだけ――のはずだった。


 胃の奥が、ひやりと鳴った。

 災虫たちが一斉に動きを止め、警戒の信号を叩きつけてくる。反射的に背筋を伸ばした瞬間、冷や汗が首筋を伝った。


 あ、やばい。

 この気配は――。


「ゼン?」


 名を呼ばれただけで、空気が変質する。

 音が届く範囲にいた男という男が、示し合わせたように一斉に振り向き、頬を熱に染めた。理性が一拍遅れて置き去りにされる、あの感覚。


 こんな馬鹿馬鹿しい異常空間を作れる人物なんて、この世に二人しかいない。


「……マリア、姉様」


 ギギギ、と軋むように首を回す。

 視界に飛び込んできたのは、溢れんばかりのも爆乳を無理やりドレスに押し込めたとしか思えない姿だった。布地は機能しているが、説得力はない。存在そのものが、規格外だ。


 あまりの美貌に、周囲の皇族ですら間抜けな顔を晒している。

 歩くたびに、歩調に合わせて、あちこちが抗議するように揺れる。その動線上にいた者は、男女の別なく視線を奪われ、呼吸を忘れる。


 俺の前に立つ頃には、そこにいた全員が魅了され切っていた。

 もはやサキュバスだ。

 いや、それ以上の怪物。


「こんなところにいたのね。探したわ」


 微笑みは柔らかい。声音も穏やかだ。

 だが、背後で災虫たちが震えている。警戒音は消えない。捕食者が獲物を見つけたときの、あの静けさ。


「体調はどう? 朝から顔色が悪かったでしょう」


 気遣う言葉の形をしているが、逃げ道は塞がれている。

 周囲の視線が、嫉妬と陶酔の混じった熱を帯びて、俺に突き刺さる。今ここで一言でも間違えれば、場が壊れる。


「問題ありません。少し腹の具合が――もう落ち着きました」


 最大限、無難に。

 マリア姉様は一歩距離を詰め、俺の顔を覗き込む。近い。香りが近い。意識が揺れる。


「本当に? 無理はだめよ。あなたが倒れたら、困るのは私なんだから」


 困る、の意味が重い。

 その一言に含まれる所有のニュアンスを、周囲は理解できない。ただ甘やかな姉弟のやり取りとして受け取っている。それが、なお悪い。


 姉様はゆっくりと周囲を見回し、満足したように小さく頷いた。


「……大丈夫そうね。なら、もう少しだけ一緒にいましょう。せっかく来たのだから」


 断れない。断れば、ここが地獄になる。


 ――何故なら。


 俺の横に立つエレノアへ向けられた、姉様の視線があまりにも冷たかったからだ。表情は笑っている。だが温度がない。冬の湖面みたいな目だ。


「姉様もご招待されていたんですね」

「えぇ。何度もお断りしたのだけれど、どうしても顔を出してほしいと頼まれてしまってね」


 さらりと言うが、実際は帝都中枢が頭を下げた光景が目に浮かぶ。これほどの佳人が来るか来ないかで、場の格が変わる。士官候補生の士気だって露骨に違うだろう。


「でも、来てよかったわ。ゼンがいるなら、地獄でも構わないもの」


 冗談めいた声音。

 だが目は一切笑っていない。完全に本音だ。


 久しぶりの再会。素直に言えば嬉しい。

 ただ、周囲の視線が痛すぎる。嫉妬、羨望、敵意、好奇心。感情の見本市だ。


「マリア様、そろそろ」


 控えめで、それでいて強い意志を含んだ声が割って入る。

 視線を向けると、そこには銀髪の青年が立っていた。


 俺たちと同系の色。だが質が違う。磨かれた貴族の銀だ。……そして。隠そうともしない敵愾心。いや、ほとんど殺意だ。


「これは初めまして、ゼン様。私はヘクト・バースバル・レクター。皇城で政務補佐を務めております。マリア様とは、日頃よりご一緒させていただく機会が多く」


 丁寧な言葉遣い。

 だが語尾の端々に滲む私情が隠しきれていない。


 なるほど。現皇帝の弟、コンラート公爵の長男か。


 野心家の父親に似て、裏で色々と動いているという話は聞く。視線の圧が物語っている。姉様を政治カードとして見ている連中の一人だろう。


「ヘクト。そんな顔をしないでちょうだい」


 マリア姉様が柔らかく言う。柔らかいが、有無を言わせない響きだ。


「この子は私の弟よ? 警戒する理由がどこにあるのかしら」

「……いえ。ただ、公の場ですので」


 言い訳が苦しい。目は俺から逸らさない。完全に「邪魔者を見る目」だ。


 面倒な相手が来たな、と内心でため息をつく。皇族筋の男に敵視されて得なことは一つもない。


 だが――


 姉様が楽しそうなので、下手に動く方が危険だ。は無難に一礼する。


「ご丁寧にどうも。私はまだ学生ですので、難しい話は分かりません。今日は大人しく壁の花を決め込むつもりですよ」


 牽制でも挑発でもない。ただの事実。だがヘクトは気に入らなそうに目を細めた。


 視線が一瞬、俺の胸元から足先までをなぞる。

 値踏みだ。武でも、魔力でもなく――立場と将来性を測る目。


「壁の花、ですか。随分と控えめですね」

「身の程は弁えています。ここは帝国の晴れ舞台ですから」


 言葉は丁寧。だが間に流れる空気は重い。

 周囲の貴族たちが、無意識に距離を取っていくのが分かる。


「それにしては、最近あなたの名前をよく耳にします」


 来た。

 皇族派の情報網は、思ったより早い。


「ギーレンス方面。軍需の再配分。戦後処理に関する“私的な動き”。学生にしては、随分と活発だ」


 探り。

 どこまで把握しているかを、こちらの反応で測っている。


「過大評価です。家の名前が独り歩きしているだけでしょう」

「イグナス家の名は、昔から独り歩きなどしない」


 きっぱり言い切る。それは評価でも称賛でもない。警戒だ。なるほど。皇族派は、すでに“イグナス家が動き始めた”と見ている。


「今の帝国は、微妙な均衡の上にあります」


 ヘクトは声を落とした。周囲には雑音しか届かない距離だ。


「軍、元老院、魔導院……どこも不満を抱えながら、皇統という柱でどうにか立っている。そこに、影響力の大きな家門が不用意に動けば――」

「崩れる、ですか」


 先に言ってやる。

 ヘクトの口元が僅かに歪んだ。


「理解が早い。だからこそ、我々は警戒している」


 我々。

 つまり、皇族派。


「イグナス家は、あまりにも静かすぎる。成果主義を掲げながら、前に出ない。だが、水面下では着実に手を伸ばしている」


 ほぼ正解だ。

 だからこそ、これ以上は踏み込ませない。


「考えすぎでは? 父は軍人ですし、姉たちもそれぞれの分野に没頭しているだけです。政治的な野心など――」

「ない、と?」


 ヘクトの目が細くなる。

 その奥に、焦りの色が見えた。


 あぁ、そうか。

 皇族派は今、余裕がない。


 王国、教皇国、都市同盟。外圧は強まり、内部は腐食が進んでいる。そこへ“強すぎる切り札”が動く可能性を、最も恐れている。


「私はただ、帝国の安定を願っているだけです」


 俺は視線を逸らさず、淡々と返す。


「急激な変化は、往々にして多くの血を呼ぶ。特に、力を持つ家門が主導する変革は」

「……学生の言葉とは思えない」

「家柄のおかげでしょう」


 小さく肩をすくめる。

 嘘は言っていない。


 一瞬の沈黙。

 その間にも、ヘクトの視線は何度もマリア姉様へと吸い寄せられていた。


 隠そうとしているが、分かりやすすぎる。

 理性で政治を語りながら、感情は完全に彼女に絡め取られている。


「マリア様は、帝国にとって極めて重要なお方だ」


 低く、熱を帯びた声。


「政治的にも、象徴としても。……危険な流れに巻き込まれるべきではない」


 その言葉の裏にあるものを、俺はまだ知らない。

 だが一つだけ、確信できることがある。


 この男は、姉様を“守りたい”のではない。

 “所有したい”のだ。


「ご心配なく」


 俺は一歩引いて、形式的な笑みを浮かべる。


「姉様は、自分で進む道を選ばれる方ですから」


 その瞬間。

 ヘクトの目に、ほんの一瞬だけ――黒い光が宿った。


 それは、皇族の矜持でも、政治家の計算でもない。

 奪えぬものを前にした、男の歪んだ執着。


 ……厄介だ。


 だが今は、それ以上踏み込む理由はない。

 腹の探り合いは、ひとまず互角。


 マリア姉様が、ふっと楽しげに微笑んだ。


「二人とも、難しい顔をして。せっかくの交流会でしょう?」


 その一言で、場の緊張が霧散する。

 ――表向きは。


 俺とヘクトは、それぞれ違う計算を胸に抱いたまま、次の一手を待つことになった。

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