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第82話:当日

 交流会当日。

 昨日の夜、緊張からか腹を下し、気づけばほとんどの時間を便所で過ごしていた。結果、朝の支度は最悪。鏡を見る余裕もなく、靴を履きながら時計を確認した時点で、もう遅刻寸前だった。


 腹の調子がようやく落ち着いた頃には、全身から嫌な汗が引いている。

 ――よりにもよって、今日かよ。


 中庭へ駆け込むと、すでに出発準備は整っていた。


 待っていたのは馬車……ではない。

 六本脚を持つ神獣馬スレイプニルに牽かれた、帝国式儀礼用の大型輿車。正式名称は天駆儀装輿てんくぎそうよ。皇族や国家行事専用の代物だ。白銀の装甲板と魔導紋が刻まれた車体は、移動手段というより移動式の威圧装置に近い。


 その前に、全員揃っている。


 幼年部代表のバルトロメウス。

 エレノア。

 そして、グロア・ネリルラ。緊張で背筋が妙に伸びている。


 本校側はさらに豪華だ。

 二年生の首席は、アルベルト・フォン・シュヴァインハルト。侯爵家の長男。均整の取れた体格に、いかにも育ちの良さが滲む立ち居振る舞い。


 次席はディートリヒ・ローヴェンタール。理知的な顔立ちで、目つきが妙に冷静だ。成績表だけでなく、人を見る目でも評価が高いらしい。


 三年生は三人。

 その中でも、明らかに空気が違う人物がいた。


 三年首席。

 帝国内どころか、すでに他国にまで名が知れ渡っている男。


 レイヴン・ハードベース。


 年は十八。だが、そうは見えない。

 身長は高すぎず低すぎず、無駄な筋肉が一切ない引き締まった体躯。軍装の上からでも分かる厚みは、鍛え上げたというより削ぎ落とした結果だ。

 短く刈り込まれた黒髪に、鋭い鷲のような眼光。感情の起伏が感じられない顔立ちは、若者というより歴戦の将校に近い。


 何より異様なのは、その佇まいだ。

 周囲が無意識に半歩距離を取っている。威圧ではない。慣れだ。人の上に立つことに慣れきった者特有の、空気の重さ。


 レイヴン・ハードベース。

 十八歳にして、帝国軍百人長相当の指揮席へ昇進した前例破り。

 士官学校の延長線上にいる人間じゃない。


 俺が息を整えながら近づくと、バルトロメウスがちらりと視線を寄越した。


「……間に合ったみたいだね」


 軽い口調。だが、遅刻寸前なのは全部お見通しだろう。


「悪い。腹の調子が最悪だった」


 それ以上は言わない。

 言い訳を重ねるほど、みっともない。


 エレノアが小さく眉をひそめ、グロアは何も言わずに視線を逸らした。

 レイヴンは――こちらを一瞥しただけで、興味を失ったように前を向く。


 それでいい。

 今は、目立つ必要も、評価される必要もない。


 神獣馬が低く嘶く。

 天駆儀装輿の扉が開き、内部の魔導照明が静かに灯った。


「宮殿までは約三里。二十分ほどで到着致します」


 馭者席から、軍人の低い声が落ちてくる。抑揚のない報告口調。時間も距離も誤差なく把握している声だ。


 輿の内部は、馬車というより送迎車に近い。

 床は衝撃吸収用の多層構造で、神獣馬の歩調に合わせて魔導式サスペンションが微細に補正をかけている。石畳に乗り上げても揺れは鈍く、加速も減速も不自然な反動がない。座席は厚手の革張りで、背もたれの角度まで調整が利く。これで移動中に書類仕事ができない方がおかしい。


 配置は自然と決まった。

 進行方向に向かって、グロア、エレノア、バルトロメウス、最後に俺。幼年部はまとめて前、本校生は後ろ。形式としては妥当だ。


 腰を下ろした瞬間、腹の奥が嫌な存在感を主張してきた。

 頼むから、今朝の下痢が再発しないでくれ。祈りに近い気分で呼吸を整える。


 ……なのに、だ。


「どうぞ」


 いつの間にか用意されていたのは、銀縁のグラスに注がれたレモン水。

 表面に細かな水滴が浮かぶ、見事なまでにキンキンに冷えたやつだ。隣には、艶やかな糖衣をまとった洋菓子が数種。バターと砂糖の匂いが容赦なく鼻を突く。


 やめろ。

 今の胃に、これは無理だ。


 こんなものを放り込んだら、自分で自分の腹に爆弾を投下するようなものだ。俺はグラスにも皿にも手を伸ばさず、ただ背もたれに身を預けた。


 揺れはほとんどない。

 静かで、快適で、逃げ場がない。


 天駆儀装輿が滑るように進む中、しばらくは誰も口を開かなかった。規則正しい蹄音と、魔導機構の低い駆動音だけが車内を満たす。


 沈黙を破ったのは、前方に座る男だった。


「……君が、ゼン・イグナスか」


 低く、乾いた声。

 名を呼ばれたというより、確認された、という言い方が正しい。


 視線を上げる。

 レイヴン・ハードベースは、こちらを正面から見ていた。威圧も誇示もない。ただ、測る目。


「はい。ゼン・イグナスです」


 必要な分だけ答える。

 名乗り返しは、それで十分だ。


 数拍の間。

 レイヴンは俺を観察するように眺め、やがて視線を外した。


「士官学校で、君の名前を聞く機会が増えた。演習記録、訓練成績……それに、少々歪んだ戦果報告もな」


 淡々とした口調。

 だが、“歪んだ”という言葉には含みがある。


「評価が割れている。有能だという者と、信用ならんという者。どちらの言い分も、理解できる」


 そう言って、レイヴンは背もたれに身を預けた。

 話を続けるかどうか、こちらに委ねる姿勢だ。


「便利な評価ですね」


 静かに返す。


「使えるかどうかより、好まれるかどうかで決める方も多い。その手の評価は、参考程度に留めています」


 バルトロメウスが、わずかに楽しそうな気配を漂わせる。

 だが、口は挟まない。


 レイヴンは一度、息を吐いた。


「合理的だ。……だからこそ、危うい」


 視線が戻る。

 先ほどより、わずかに深い。


「戦場では、合理性だけで生き残れるとは限らない。部下は感情で動く。民も、同盟国も同じだ」


 説教ではない。忠告に近い。


「承知しています」


 即答する。


「ですから、使い分けています。感情を優先すべき場面と、そうでない場面を」


 短い沈黙。レイヴンの目が、ほんの少し細まった。


「……なるほど」


 肯定とも否定とも取れない一言。だが、切り捨てる響きではない。


 しばらくして、レイヴンは前を向いたまま告げた。


「今日の交流会では、余計なことはするな。目立つ役目は、俺たち三年が引き受ける」


「助かります」

「だが」


 一拍。


「皇帝の御前だ。呼ばれたら、逃げるな」


 その声には、年齢不相応の重みがあった。百人を率いる者の声だ。


「逃げるつもりはありません」


 即答する。逃げる理由がない。


 天駆儀装輿が、わずかに減速した。外から、宮殿前広場特有の反響音が伝わってくる。


 レイヴン・ハードベースは立ち上がり、最後に一言だけ残した。


「君が噂通りなら……近いうちに、話す機会が増えるだろう」


 扉が開く。

 光が差し込み、帝都の中心が姿を現した。


 カエサル大宮殿。

 帝国の象徴という言葉が、これほど安っぽく感じられる場所もない。


 視界の先には、幾何学的に整えられた広大な園庭が広がっていた。低く刈り込まれた生垣は一分の乱れもなく、白砂の小径は靴音すら吸い込むように静かだ。噴水は複数配置され、透明な水柱が陽光を受けて淡く虹を散らしている。配置も角度も、すべてが「見せるため」に計算され尽くしている。


 園庭の各所には、すでに招かれた客たちの姿があった。

 皇族の一族、元老院級の重鎮、華胄界の有力貴族、騎士総団や国軍閥の高官。煌びやかな礼装に身を包み、穏やかな笑みを貼り付けたまま、互いに探り合うように言葉を交わしている。


 表向きは和やかだ。

 だが、その裏で動いているのは、権力と利害と疑心暗鬼だけ。


 警備も、露骨なほどだ。

 園庭の死角になりそうな場所は一切残されていない。装飾柱の影、植栽の裏、回廊の曲がり角――すべてに武装した近衛兵が配置されている。表に立つ者、魔力反応を監視する者、目に見えない結界を維持する者。何重にも張り巡らされた防護網は、もはや過剰と言っていい。


 正直、少し気味が悪い。

 国家の中枢が集まる場とは、こうも息苦しいものか。


 ――その国家を、内側からひっくり返す計画に関わっている身としては、なおさらだ。


 複雑な感情が腹の奥で蠢く。

 だが、それを表に出す理由は一つもない。


 俺は背筋を伸ばし、口角をわずかに上げた。

 鏡に映せば、たぶん非の打ち所のない「公爵家の三男」だろう。


 あ、やばい。腹がギュルルと鳴ってきやがった。しかし、交流会は何事もない顔で始まろうとしていた。

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