第79話:エルダーゴブリン
「これを使ってください」
俺がそう言って並べていくのは、透き通った青色のハイポーションと数本のソーマだ。先程まで「英雄ごっこ」と罵声を浴びせてきた騎士は、気まずそうに顔を赤らめた。だが、その並べられたラインナップが、王都の最高級薬局にも引けを取らない品揃えであることに気づくと、その目は驚愕に見開かれた。
「……かたじけない。この恩、必ずや」
騎士は震える声でそう言い残すと、深く頭を下げ、軍医や街の医師たちを招集した。広場の隅では、すぐさま慌ただしくも希望に満ちた治療が始まり、苦悶の表情を浮かべていた負傷兵たちが次々と安らかな寝息へと変わっていく。
「……ゼン、俺たちにも何か手伝えるか?」
控えめに、そしてどこか自信なげに声をかけてきたのはガイルだった。
領都に到着した直後の威勢の良さは影を潜めている。自分たちの若さと、本当の戦場における「力不足」を思い知ったのだろう。そんな彼に、俺はトングを置いて向き合った。
「今も城壁で撃退や警戒にあたっている方たちを休ませてあげてください。ガイルさんたちの実力なら、交代要員として十分頼りになります。順番に休息を取らせるように、現場を回ってもらえますか?」
「あぁ、分かった! 任せてくれ!」
ガイルは力強く頷き、ルカやセシリアを連れて走り去っていった。だが、一人だけその場に残った奴がいた。ラッチェンだ。
「……いい気になるなよ。所詮、金で解決したに過ぎない。ここに辿り着けたのは俺たちのお陰だっていうのを忘れるな」
先ほどまで我先にと肉を貪り食っていた奴の言うことは違うな。口の周りは脂でテカテカに光っているし、手元にはしっかりお代わりのパンまで握りしめている。
「はい、肝に銘じておきます」
俺は笑顔で答える。ラッチェンくん、頬っぺたに食べカスがついているよ。
やがて、ローラと共に一人の男が歩み寄ってきた。
城壁の守備責任者、ミカエルと名乗った中年の騎士だ。使い込まれた甲冑はあちこちが凹み、煤と乾いた血に汚れている。髭面には深い疲労が刻まれているが、その眼光だけは折れずに鋭い。
「多大なる食料に加え、あれほどの霊薬……感謝の言葉もない。貴公が何者であれ、この領都にとっての救世主だ。……折り入って相談なのだが、もし武器の類があれば助かる。恥を忍んで申し上げるが、この通りだ」
ミカエルは汚れを拭うことすら忘れ、身分も定かではない年下の俺に対し、衆目の中で深く頭を下げた。本当にこの領都を守りたいという思いが伝わってくる。ふんぞり返っているだけの無能な騎士たちとは魂の鍛え方が違うようだ。
「いえ、頭を上げてください、ミカエル殿。……ゴブリンやコボルトは魔法適性が低い。この巻物を使えば、魔力の低い兵士でも中級魔法を行使できます」
俺は魔嚢から、以前「教育」した奴隷たちに書かせた魔導巻物――『魔導紙』を数十枚取り出した。
「なっ……これは、中級魔法のスクロール……!? これほどまでの数を……!」
ミカエルは目を見開き、震える手でそれを受け取った。魔力を持たない者でも、引き金を引くように僅かな魔力を通すだけで炎や風の刃を放てるこの道具は、数に勝る魔物たちを城壁から叩き落とすための、最も効率的な「資源」となるだろう。
「放てっ!」
ミカエルの号令と共に、城壁の歩廊に並んだ兵士たちが一斉に魔導紙を起動させた。鳴り響くのは紙が燃え尽きる乾いた音と、凝縮された魔力が物理現象へと変換される咆哮だ。
城壁から降り注いだのは色とりどりの死の雨だった。
中級魔法『烈火の槍』が密集していたゴブリンたちの中心で炸裂する。肉の焼ける悍ましい臭いと共に、炎に包まれた魔物たちが断末魔を上げてのたうち回る。
一方で『凍結の吐息』を浴びたコボルトたちは、逃げる暇もなく全身に白い霜を纏い、極度の凍傷で皮膚を裂きながら氷像のように固まっていった。
さらに、紫電を纏う『雷光の楔』が落ちれば、直撃した個体は内側から焼き焦げ、眼球を突き破って放電しながら、炭化した彫像のように崩れ落ちる。
おぉ、凄ぇな。圧巻だ。
市販の巻き物と比べれば魔力の純度にムラがあり、多少は見劣りするが、この物量で叩き込めば威力は申し分ない。訓練も受けていない雑魚兵でも、これ一枚で一級の魔導士に近い火力を出力できる。
戻ったらエルザに奴隷共をさらにもっと「教育」させ、精度を上げさせるとしよう。量産体制が整えば、これだけで戦場の定義を書き換えられる。
「見たか! 化け物どもがゴミのようだ!」
「いける、これなら勝てるぞ!」
一方的な殺戮を目の当たりにし、絶望の淵にいた騎士や兵士たちの士気は最高潮に達した。勝利を確信した勝鬨が城壁の上で爆発する。
――だが、その直後だった。
空気を切り裂く異様な風切り音と共に、何かが凄まじい勢いで城壁へと飛来した。それは、先ほどまで隣で勝鬨を上げていた老兵の胸部を、正確に、そして無慈悲に射抜いた。
「がはっ……!?」
直撃したのは、腐敗してどす黒く変色した「人間の頭部」だった。
凄まじい運動エネルギーを伴った生首は、老兵の胸甲を紙細工のように凹ませ、衝撃で飛び散った脳漿が周囲の兵士たちの顔にべっとりと張り付く。老兵の体は背後の石壁まで吹き飛び、胸を不自然に陥没させたまま、声もなく即死した。
あまりの衝撃に、沸き立っていた広場が、一瞬で墓場のような静寂に包まれる。その沈黙を切り裂くように、正門前の魔物の群れを割って「奴」が現れた。
エルダー・ゴブリンだ。
死体の椅子を捨て、悠然と、それでいて周囲の魔物たちを威圧する圧倒的な覇気を纏って歩いてくる。その右腕には、先ほど老兵を仕留めたものと同じ「弾丸」が、まだいくつか握られていた。
「……奴だ」
ミカエルが奥歯を噛み締め、忌々しそうに、そして隠しきれない戦慄を込めて呟いた。
「ふん。ここからは冒険者の役目だ。いくぞ、暁の戦陣!」
突如として、ラッチェンが鼻で笑いながら声を上げた。
「おい、バカ! 待てラッチェン!」
ガイルの制止も耳に入っていないらしい。ラッチェンはどこから持ってきたのか、城壁の銃眼に縄梯子を引っ掛けると、周囲の制止を振り切って地面へと降り立った。
彼は鈍重な大斧をゆっくりと構え、首を傾げてこちらを観察するエルダー・ゴブリンに向けて叫ぶ。
「魔物風情が調子に乗るなよ。ゴブリン如き、我が『ブレイクアックス』の錆にしてくれる!」
え、嘘だろ。マジかよ。あまりの無謀さに、俺は開いた口が塞がらなかった。
ガイルたち三人も、このまま死なせるわけにはいかないと慌てて加勢に動こうとする。だが、それよりも早く、エルダー・ゴブリンの嫌らしい笑みがその場を支配した。
魔物や魔族の威嚇行為において、最も忌避すべきは、牙を剥く怒りではなく「笑顔」だ。それは生存本能を欠片も持たず、目の前の命を「外敵」ではなく、単なる「娯楽」や「食料」と認識した時にのみ現れる、絶対的な強者の余裕だからだ。
奴は手に持っていた人間の頭部を、まるで熟れたリンゴでも扱うかのように無造作に齧り付いた。バキリ、と頭蓋を砕く不快な音が響き、中から溢れ出した体液を口元から汚らしく垂らしながら、喉を鳴らして嚥下する。
「なっ……!?」
ラッチェンがその光景に一瞬だけ怯んだ。いや、怯んでしまった。その隙を、エルダー・ゴブリンは逃さない。奴は予備動作もなく、ただ、散歩でもするかのような気安さで、目の前のラッチェンに向けて右足を真っ直ぐに伸ばした。
――ズドンッ!
広場全体に響き渡ったのは肉と骨が潰れる凄まじい衝撃音と破砕音だった。
鎧に包まれていたはずのラッチェンの腹部は、その蹴りの一撃で不自然にへこみ、面白いぐらい綺麗な放物線を描いて後方へと吹っ飛んだ。
ベチャリ、という重苦しい音を立てて城壁の基部に激突したラッチェンは、そのままずるずると地面へ崩れ落ちる。その口からは内臓の破片が混じった致死量の鮮血が、止めどなく溢れ出していた。
「ラッチェンっ!!! セシリア、早く治癒魔法を!! ルカは援護!」
ガイルが喉を掻き切らんばかりの、掠れた絶叫を上げた。
だが、城壁の上で俺の周りにいた兵士たちは、冷淡に視線を外して「ありゃ死んだな。可哀想に」と、他人事のように吐き捨てた。
面白くなってきたなぁ、おい。
俺は大剣を構え直すガイルの姿を、まるでゲームのイベントムービーでも眺めるように特等席から観察する。
「ふぅ、ふぅ、ふぅっ……!」
ガイルは肩を激しく震わせ、仲間を、そしてパーティーの崩壊を食い止めるために自分を必死に鼓舞していた。その背後では、セシリアが顔を涙でぐちゃぐちゃにしながら、瀕死の肉体に懸命に光を注いでいる。だが、あの程度の治癒ではせいぜい数分の延命が関の山。
ルカが放った援護の矢も、今のエルダー・ゴブリンにとっては爪楊枝ほどの脅威にもならない。硬質化した皮膚に弾かれ、空しくポロッと地面に転がった。
「武技――蓮撃ぃっ!!!!」
もはや絶叫に近い。真正面から捨て身で突っ込んだガイルの渾身の斬撃。
だが、その初撃はエルダー・ゴブリンの分厚い掌によって軽々と受け止められた。それどころか、奴が力を込めた瞬間、新品同様だったはずの刀身が飴細工のように無惨に砕け散る。
「あっ……」
短く、全てを悟ったような声。
エルダー・ゴブリンはそのまま、逃げる隙も与えずガイルの頭部を鷲掴みにした。宙に吊り上げられたガイルは、酸欠の魚のように手足をバタバタと暴れさせる。
リーダーの確実な死を予感し、発狂したルカが「ああぁぁっ!!」と叫びながら、ジジィの射精みたいな力のない矢を何発も放った。城壁の兵士たちも、ガイルを巻き込むのを恐れて、支給した魔導紙を使えずに硬直している。
ふむ、ここまでか。
ある程度楽しませてもらったので、俺はゆっくりとデズリズムを構えた。
――ガチリ、と内部の気圧室が高圧の空気と共にボルトを送り込む。
指が引き金を絞る。瞬間、デズリズムの深部で化学反応を伴うガス圧が爆発的に膨張し、鋼鉄のボルトを音速の領域へと押し出した。
ルカのゴミのような射撃とは一線を画す、明確な殺意と死を内包した三連射。空気を切り裂く高周波のうねりが、エルダー・ゴブリンの急所を正確に穿つ寸前。
奴は掴んでいたガイルをゴミ屑のように投げ捨て、異常な反応速度でその場から大きく飛び退いた。
着弾地点の石畳が爆砕し、土煙が舞う。
その中から現れたエルダー・ゴブリンは、先ほどまでの嘲笑を消し、城壁の上に佇む俺の姿を、無表情な冷たい眼光で見上げた。




